臆病で尊大な CounterCulture

今朝、Twitter のタイムラインの一番上にこんな RT があがってきた。フォロワー 5000 人以上か面白い活動をしている人には奢らせてあげる、という「奢られる」を仕事にしているかたらしい。

みんな世知辛いのは分かったけど、ぼくも世知辛くなかったら、わざわざこんな生活してなかったと思うので、それくらいは想像力を働かしてから論じてこような、女に生まれたことで起きる不遇もあるかもしれんけど、他にも遺伝子で決まることなんて無限にあるんだぞ、朝起きれない人とか超不遇だからな、
ぼくだって朝起きれて着たくもない服を着れて靴下を履けて満員電車に乗れて毎日スケジューリングされた生活を送れて毎日おなじ人と生活できて毎日おなじ場所に帰って寝て起きてそんな繰り返しの日々に何の虚無感も感じずのうのうと生きていられてたら今頃は大学卒業して就活してサラリーマンやってるわ

想像力がないのはあなたの方でしょう。もしも想像力があってやっているのなら、無いのは思い遣りの方だけれど。 

こういう人が一定数 SNS にいて、しかも一定数流行っているというのが、現時代の歪みのひとつだと思う。負のエネルギーを燃やして CounterCulture を作り出すという、そこだけが似ていても、実際にやっていることは、ひと昔前のロックとかフォークソングとはぜんぜん違う。もちろん、時を超えて残り続ける映画や舞台や絵画や文学とも。

真に生きる CounterCulture は人々を突き放したりしない。もっとも、それ故こういう類いは million まではいかず、小さな熱狂で終わっているんだろう。million に響く CounterCulture は、優しい鼓舞であり、寄り添い包み込むものだ。

BIG WAVE を作るための「煽り」の意味を吐きちがえるなよ、と思う。つらみ悲しみを増幅させておいて、マウントにより意図的に差異を生み出して優劣を定義し、劣等感や惨めさを植え付けたまま置き去りにする遣り方なんて、ちっぽけな傲慢でしかない。臆病で尊大な傲慢だ。負の部分を焚きつけたとしても、同じ目線で語り、愛をもって希望を煽り、未来を灯す光が、人の心を震わせる。

たまたま TL の最上にでてきたので冒頭の 2 ツイートを引用したけれど、今朝初めて見たこの人ひとりのことではない。半分は、それを囃し立てるメディアが貧しいのだし。

東京で消耗することが不正解だなんて、あなたの正解を押し付けるなよ。同じ正解を共有している人に対してだって、正解に向かって行動しないことを抗議できるほど他人を知った気になった大人に、私はなりたくない。

「何者にもなれずに40歳を迎えるのこわくないの?」という台詞を聞くことも増えてきたけれど、何者の「何」って、何を指しているの。

その批判とも言える質問の先には “答え” が用意されている。たとえば、或るひとつのポジショントークから語れば「こわいだろう。だから、今の若いうちに戦略的にオピニオンリーダーかインパクトのある創業か経済的成功を取りにいったほうがいいよ」といった具合に。それはあなたにとっての幸福の姿に過ぎないよ、と思う。

そもそも、幸福に明確な形を想定してそれを目指す人間なんてそんなに多くない。その姿勢は決して劣ではない。他人を意図的に不幸にするような(今のうちの首相のような)姿勢は別だけれど、真摯に、または何となく、毎日を生きる姿勢に、優劣なんてない。

自分が信じる正解や正義を前提にマウントや説教をしてくる同年代が多すぎる。いや、20〜30代か。いつの時代も若者はイキっているし私にもこましゃくれた青二才の部分が多分にあるけれど、最近の若者が、そこに若者らしくない自信を備えてしまっているのは、ここ5年の特有だと思う。「囃し立てる文化」の弊害だな。




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