活きながら生きる世界

問1:

「幸せってなんだろう」
ひとりの人間の幸せは、彼にしか実感することができず、人の数だけ幸せの形がある。
「幸せってなんだろう」
という問いの答えは従って、文頭に「私にとって」とつけてやらないと、誰にも答えられない。

しかしその中で、ひとつだけ確かなことがある。

幸せな命は、活き活きと輝いている。
そして、輝いているのは、今自分が歩いている世界を「愛している」と言えるからだ。

ここで言う世界とは、自分が歩いている道のことである。その道を共に歩いている人のことである。その人と共に見る、或いはあなた自身が見つめる、目的世界への夢、または現在の日常の存続に対する夢である。
私たちは、いつだってやめられるし、いつだって始められる。私が今送っている日常は、私がしつづけている選択の集合だ。

ここで言う愛とは、ある時は木漏れ日がつくり出した陽だまりのように穏やかで、ある時は烈火のように熱いだろうけれど、いずれも健やかな愛である。

健やかな愛のもとでは、他者による束縛から解放されている。自分が本当にしたいことに、いのちの時間を費やしているはずだ。そこに搾取や "設計された" 規制はそぐわない。

健やかな愛のもとでは、自らの正義を堂々と掲げ追求していると同時に、他人の正義に対して寛容だ。己の追究と追求にも、他者との接触にも、四肢と心頭はいつもしなやかである。
幸せの数は、正義の数でもある。自分の正義に相応しくない正義は、手放してしまえばいい。手放すことと憎むこととは違う。憎しみも迫害も、居心地の悪い場所に私を縛るだけなのだ。
真にすべての人が相容れない正義を手放し、自分の実現したいことを見つけ、見つめ、健やかな愛を手に幸福を追求した時、世界は平和になる。

健やかな愛の器が満たされたとき、人は幸せを感じる。
健やかな愛の器が溢れたとき、人はそれを分け与えようとする。

幸せってなんだろう。それは「私はどんな器を持っているのだろう。その中で最も満たしたい器はどれなのだろう」という問いと同義である。

器の大きさは、道を歩くためのエネルギーの限界値だ。そしてその器が、歩む道に対する愛で溢れていなかったら、全力で駆けることはできない
従って、器を見つけ、大きくし、溢れさせることが必要だ。

難しいなら問いを変えて、私が最もエクスタシーを感じることは何か?と考えてみよう。私たちなら例えば
ifname_letter は、文章を書いて人の心を震わせられたとき。
ifname_chem は、人類の叡智の礎に触れたとき、その上に自分の新しい閃きを重ねたとき。
ifname_fiddle は、誰かと一緒に音楽を奏でひとつになったとき。
ifname_pharm は、世界で一番愛する人の隣で心を繋ぐすべての瞬間、そして彼から愛を受け取るとき。

子供の頃好きだった絵画の楽しさ、休日に友達と集うスポーツの爽快さ、めまぐるしく変わる世界への好奇心、携わっているプロジェクトへの情熱、大切な人と過ごす時間の安らぎ…

なんだっていい。いずれにせよ、その時間に命を充てているとき「器が愛で満ち溢れている」こと、そして「夢中になって費やす時間、費やせるエネルギーが格段に大きい」ことが重要だ。

問2:

「私は何のために生きているの?」
貴方は、貴女は、幸せになるために生きている。活き活きと生きるために生きている。

「自分を大切にすること」は難しい。
自分を大切にすること、とは「自分の心と身体を健康に保つよう管理すること」そして「大切なものを大切にすること」
これは、とても難しい。だからこそ考えて向き合いつづけなければ、命の時間は

「あっ」

という間に過ぎてしまう。それを繰り返して、いつか「あっ」と思ったときに、その炎は消える。

「本当に大切なものは何か」
「幸福とは何か」
「正義とは何か」

自分の人生に向けるこの問いは、すべて同義だ。

問いつづけることは、苦しみを伴う。他人について分からないことより、自分について分からないことの方がこわい。
たとえば、胸に手を当ててみると、私はモノでも金でもなく、意味が欲しかったのだと判るかもしれない。意味には実体がない。とらえどころのない己の欲求の本質に、まるで生きる意味を見失ったように感じて途方に暮れ、耐えられず目をそらしてしまう人は多い。

でも大丈夫。貴方は、貴女は、幸せになるために生きている。何人も、生まれたときから、生きる意味は与えられている。

だから、問いつづけよう。活きて、生きるために。
自分が満たしたい器を問うて見つけ、それらが満ち溢れるよう、命の時間を費やそう。

アクション:

今の資本主義経済のゲーム、今の中央集権的なシステムの中では「健やかな愛」はどうも保ちにくい。

民主主義は崩壊し、中央集権はまるで「私が国家だ」と言わんばかりだ。賢い人々がそれに気づかぬように、目の前の仕事を山盛りにし、キャッチーな情報のコピーをランダムにばら撒いて、余白が生まれぬよう埋め尽くす。真面目な私は目を覚ましている間中、それらに従事し翻弄されつづけている。活きて生きるのではなく、生を消費され、最悪の場合、生を消耗している。

そうしているうちに、"設計された" ルールの縄はどんどんとキツく締められていく。そのようなルールは然るべき規則ではなく、搾取であり、規制である。その大きな歪みに気づかぬように、小さな誰かの相容れない正義を己にとっての不義として見つめよと無理矢理に頭をホールドされている。外部に敵を作り、外の他人に固執するよう教育されて、憎しみや迫害を生むよう促されている。本当の問題はダミーにすり替えられ、本質は言い換えられ、姿を霞ませる。

しかしこれから、さまざまな人・分散型台帳を含むさまざまな技術が開けた風穴から、霧を吹き飛ばすための風が吹いて、世界を晴らすはずだ。
そのとき、晴らされた世界を見よ。もしかすると私は絶望するかもしれない。でも、怒り狂ってはだめだ。
風を立てた人々の声に耳を傾けてみると、彼等もまた絶望に遭遇した人々なのだと分かる。しかしそれでも行く先の世界に希望を見て、顔を上げて突き進んでいる人々だと分かる。
自分はどうすれば良いのかと、能く善く考えればいい。変えられるのは「今」が創る未来だけなのだから「遅すぎる」ことなんて、存在しない。今やるのか、やらないのか、それだけだ。

活きた生は、絶望のもとでは死んでしまう。
だからそれらに触れたとき私たちが取る行動は 3 択で、そのまま死んでしまうか、幻想の世界に逃避行をするか、絶望を別のものに変換するか、だ。変換は、復讐への怒りか、世界を変える希望への変換だ。

私たちは見ているものを信じているのではなく、信じているものを見ている。
絶望に死んではならない。逃避してはならない。絶望を怒りに変換してはならない。希望に変えよ

共通の器:

生きている意味とは何か。幸せ。活きた生を殺すのは絶望だと言った。
生そのものの殺人についても触れておこう。

人は、孤独のもとでは死んでしまう。
だから、希望を見出だし歩むように、世界との繋がりを求める必要がある。
絶望の反対が希望であるなら、孤独の反対は世界との繋がりだ。
希望の形は人の数だけ器の形があるから私はそれを自分で見つけなければならないけれど、世界との繋がりに関しては安心して良い。
なぜなら、世界との繋がりは、皆が求めている共通の器であるからだ。皆が持っている器が「世界との繋がり」である。従って、健全な愛のもと手を伸ばせば、私は必ず世界に接続するのだ。
生活のためだけに生きるのではなく、自分のためだけに生きるのではなく、大切な人と寄り添い合うこと、人々に与え感謝を受け取ることを、私たちは求めている。
世界との繋がりを求め手を伸ばすことを、ひとつの希望と呼ぶのだ。

「世界との繋がり」の器を満たし、自分固有の器を見つけたとき「健やかな愛」を保てる世界が来る。

風:

たとえば、分散台帳技術が開けた風穴は、世界中のひとりひとりが、自分が良いと思ったものを評価できる、風をも吹き込む。
つまり、あなたが自分固有の器を満たしたとき、それを世界に明かし共感が得られれば、それが形となって届くのだ。たとえ地球の裏側に住むたった一人の共感だったとしても、それはあなたの手のひらに確実に届く。
新たな歴史に残るのは、教科書に書かれる “権力者” の名前ではない。石像に彫られる偉人の名前だけではない。残るのは、トランザクションに刻まれる我々一人一人の意志・我々一人一人の "正義" の記録である。
そこでは、appreciation(良いものを良いと評価すること、その評価)が価値の主体となり、貨幣は価値そのものでなく、appreciation を届けるツールとなる。その貨幣は国家にも銀行にも縛られない。

「あなたの声が世界を変える」
疑問に思ったことはないか。ちっぽけな私の声をいったい誰が聴くのか、ちっぽけな私の行動がいったい何を変えるのかと。
不安に思ったことはないか。大声で叫んだ私の正義は誰かに迫害されないのか、私は暴力を受けないのかと。
でもこれからの世界では、迷わなくていい。あなたを支配し、搾取し、迫害する "大きな者" はいなくなる。だから、大声で叫べばいい。共感を得られれば、形となって届き、その記録は世界中に開かれた形で永遠に残る。

しかも IoT と AI の技術が進めば、人がやるべき仕事は限られる。これらは人間から奪うための技術ではない、人間に自由な時間を与える技術だ。

己を搾取されながら働く必要はない。ただ消費され、消耗していた時間を、本当に価値のあることに費やして生きよう。
自分にとって本当に価値のあることなんて、そんなに多くはないのだから。

正面から愛や幸福を語るとき、後ろめたい気持ちになると言う人が多くいる。でも、これからの世界では堂々と言える。

愛を全うし、愛を果たそう。
私たちが「活きながら生きる」世界を造るのは、私たち自身だ。

ここまで読んでくださった方へ感謝を込めて

最初の投稿で以下のように書いたのは、これで一旦お終いです。

そのうちそれぞれの専門の学問やら関係のないことを話し出すかもしれないが、何度かに分けて、僕たちが分散台帳技術に見る世界を、これから検証していく仮設を、記そうと思う。 プロフィール文の中の、2 つの確信に関してだ。1. 歴史は繰り返さない2. 誰もが愛や純粋な appreciation を通貨に変換し、手のひらに直接届けられる時代がやってくる

ここまで読んでくださってありがとうございます。7 年間の思考遍歴を凝縮した文章だったので、たいへん長かったことと思います。

これから分散台帳技術およびブロックチェーンに関係のないことを話し出す可能性大ですが、これからも、どうぞ変わらずご贔屓くださいますよう願う気持ちです。(無理矢理なことは書いていませんが、着地点を分散台帳技術に持って来るために、網羅性や普遍性にかけたバイアスのかかった文章になっていることを明言します)

大切な器たちが満たされて、それらが絶えることなく注がれるようにと、離れていてもいつも思っています。
明日からの毎日も、あなたとあなたの大切な人にとって、健やかで温かく豊かな時間でありますように。

2018 年 5 月 20 日 喫茶店談話にて

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