虚を構築する快感

どうして上手に立ち回れないのだろう。

Facebookをこまめにチェックしていいねを押して、思わず鼻が高くなってしまいそうなちょっと大袈裟なコメントを書く。会った人にはその日のうちにメッセージを入れて、ちょっと大袈裟な謝辞の中にお願いを盛り込む。いいなと思った人にはこまめに飲みに誘う。喜ぶ言葉をかけて、喜ぶ眼差しを送って、真面目な話の中にも相手が気づかないくらいの馬鹿っぽさを織り交ぜて無意識下にさり気なく花を持たせる。相手がすこし年上なら指摘されない限り敬語は絶対崩さないように。自分が女性で、相手がある程度以上年の離れた男性である場合は、だんだんすこし砕けた喋り方に変えていく。別れ際は自然な範囲でちょっと大袈裟にお礼を述べて、帰宅したらメッセージも入れる。"使える"人だと思ったらたとえトークがさほど楽しくなくとも「また行きたいです」を「行こう行こう詐欺」で終わらせず、定期的に繋いでおく。「慕ってくれている後輩」を思い浮かべるとき、自分の名前が3人目までに出てくるように。誕生日にはメッセージを欠かさず、近い日付に会う機会があるのならプレゼントを持っていく。女の武器を使う場合は、言葉と軽いボディータッチだけでやれることがたくさんある。

………とかとか。相手によって十人十色、いろいろいろいろ。どうしてどれも、立ち回りのために行為することができないのだろう。

相手を喜ばせることのできる、たやすい言葉や立ち振る舞いは手に取るように分かるのに、心じゃなくて脳でこしらえた調度品を差し出す自分と、そういうエネルギーの使い方をして疲れる自分を想像するとかなり滑稽に思える。そうやって喜ばせた相手との距離を近く保っているのは、虚構で補強された音楽の鳴らない橋だとしか思えない。そういう橋を戦略的にたくさん架けた方が、人生楽で得だとわかっているのに、ひとつもできない。第一、答えのあるコミュニケーションなんて無味乾燥でなんの面白みもない。

でも都会で生きていくのだったら、そんな虚構は快感に変換できた方が絶対に生きやすいのに。もっと楽に得に生きたらいいのにどうしてもできないので時々自分を殴りたくなって、殴りたくなった後は、静かな山奥か少数民族の地に行ってしまいたくなる。

私がどうしようが、世界は虚構だらけなのにな。

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月坂架 絃 (Ito Tsukisaka)

フィドル奏者、化学者、薬学者、物書きを称する東京大学学徒が、本郷の小さな喫茶店で綴る編著作。WHO WE ARE (https://note.mu/ifname_i/n/n50774dab8065)

薫風日誌

つれづれなるまゝに、日暮らし、硯に向ひて、心に移り行くよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、怪しうこそものぐるほしけれ。我を知らずして外を知るということわりあるべからず。されば己を知るものを知れる人というべし。ひとり灯のもとに文をひろげて、見ぬ夜の貴君を友とするぞ、こ...
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