もしも化石になれたなら

死について、こういう形で受容できるようになったのは、まったく最近のことだと思う。

いつか死ぬ、ということがこわかった。
幼い頃、布団の中でおそろしくてたまらなくなって「ねえ、お母さんもいつか死んじゃうの?いとちゃんもいつか死ぬの?そしたらぜんぶなくなっちゃうの?いとちゃん、お母さんと離れるのやだよぉ」と、母にぎゅぅっと抱きついて泣いたことが何度かあった。

そんなとき、私は生きたまま化石になってしまいたいと思った。
愛する人がいなくなってしまった世界で、変わらない明日が繰り返されてしまうのがおそろしかった。そんな世界で幸せに生きていける自信がなかった。美味しいご飯を食べていても、友達と楽しい時間を過ごしていても、好きな音楽を奏でていても、何をしていても、傍らで絶望が私を凝視していて、逃れることができない。それが一生つづいてゆくのを耐えなければいけないのがおそろしくてたまらなかった。

自分で命を絶つことは出来ない、したいとは思えない人間だと自覚していたから、大好きな人を失う「いつか」が必ず来て、そのまま生きてゆくことが逃れられないのだと思うと、いとおしい人といとおしい幸せの時間とを抱きしめたまま、化石になってしまいたいと思った。
私にとって感じられる時間は「今ここ」しかないのだから、それなら時間の進む分だけ逆さまに歩いて永遠に「今ここ」に留まってしまえば、私を置いて時間が進んでしまっても、私は置いてきぼりになんてされない。「今ここ」というのは「点」である。みんなにとっての「点」の集合は、進んでいく時間軸をなぞり線を描くものであっても、その線がどこかで突然プッツリと切れてしまうのなら、私にとっての「点」の集合は「今ここ」の一点だけで良いと思った。幼い夜のこと。

大きくなって、泣きじゃくる夜はなくなった。でも、どこかずっとこわかった。
私が生きた時間。私が大好きな人と生きた時間は、どうなってしまうんだろう。
命が「消失に向かう『今ここ』の連続」を強いられる存在ならば、命は何のために生じるのだろう。もしも命が生じる理由・生きる目的を「種の保存・命の継承」とするならば、その保存と継承の先には終わりはないのだろうか。たしかに継承の先にあるのは終わりではなく「変化」で、人間はそれを「進化」と呼ぶようになった。でも、果たして本当にその進化のために私たちは生まれ死んでゆくのだろうか。
きっと多くの先人たちが問いかけ、答えようとして、できなかったことだ。

大きくなってもやはり、ぼんやりと、死について「こわい」と思っていた。
こわいもののことは、なるべく考えないようにしたいものだ。

しかし、歳を重ねていくと、否が応でも死に遭遇する。
そうしていくうちに、いつのまにか受容できるようになった。自分がこういう形で死を受容し、生を願いながらも死を恐れなくなるとは中々の驚きだ。

自分が死んで、自分を愛してくれている人が悲しむのは胸が張り裂ける思いだけれど、自身が死んで消え去ること自体は、おそろしくない。
大切な人が死んでしまうことはやっぱりちょっと、いや、すごくおそろしいけれど、でも、大好きな人を失ってなお続いてゆく明日を美しいと言える自信がついてしまった。
そのことにたった今気づいて、驚いている。

学校帰り、いつも挨拶をするおじいちゃんを見かけなくなった。秋になると椅子を出して、拾った銀杏の皮を向いていたおばあちゃんのお庭に、今年は誰もいない。すこし立ち止まって、違う場所にいやしないかときょろきょろ見回すことも、やがてしなくなる。いつも綺麗なレースの服にきらりと光るアクセサリーをつけて美しく長髪を結っていたおばあちゃんを久しぶりに見かけると、歩きやすい服装に短くした髪をざっくりと結って、介助用の手押車を引いてゆっくりと歩いていた。いつも綺麗に染めてあった赤茶にはきらりと光る白髪がたくさん入り混じっていた。しゃんとしていた背筋が、旦那様に支えられてすこし寂しそうに、でもやっぱり幸せそうに曲がっていた。そのおじいちゃんやおばあちゃんが、死んだ。お年寄りのほうが多い土地柄、おじいちゃんやおばあちゃんたちが、もっとおじいちゃんになって、もっとおばあちゃんになって、死んでいった。

大好きな祖父が死んだ。筋肉が死んでゆく難病で、だんだん身体が動かなくなって、痛くて堪らないはずなのにそれを一言も言わずに死んだ。祖母や母や私のことを、風邪引いてないか?気をつけて帰れよ、と案じて愛しながら死んだ。家族や友人にいつまでも愛されて、ありがとうと言って、笑って死んだ。

大切な部活の仲間が死んだ。バイトの帰りに、トラックに巻き込まれて死んだ。新しい夢を見つけたばかりだった。

恩師が死んだ。多趣味で溌剌としていて、たくさんの人々に慕われ、囲まれて、誰よりも「自害」という言葉から遠い存在のように思えた恩師が、首を吊って死んだ。鬱病だった。

一番仲が良い、と呼べる友人のひとりが死んだ。一人暮らしの部屋で、死後数ヶ月が経過した状態で見つかった。死因はおそらく心不全。

想いを伝えてくれた部活の後輩が死んだ。高速道路でハンドルを切りそこなって死んだ。大切な人ができた、とメールで報告をくれた、その彼女を隣に乗せていた。

死にたい、と言いながら、本当は生きて幸せになりたいと心で叫んでいる人たちと対話を重ねた。生の選択をしてよかったと言っている人も、死ねないけれど生きることはつらいと言っている人も、死にたいと言っている人も、今はまだそれでも、生きている。

「どうして自分の子供が障害をもってしまったんだろう、産まなければよかったかもしれない」と思ってはその自分を嫌厭し涙してきた人たちと、一緒に子供と遊んで、たくさん話し、聴いた。ハグをした。

生まれつき自分で食べ物を口に運ぶことも座ることも話すこともできない友人は、いつも、つき合いたての恋人に負けないくらいとびきり嬉しそうな笑顔で私を迎えてくれて、車椅子に座って気持ち良さそうに町を歩き、音楽に合わせてハミングをして、流れる時間を抱きしめている。

研究棟の隣の病院の広場では、七夕になるとたくさんの短冊が揺れる。「早く家に帰れますように」「運動会に行けますように」「あなたが毎日笑顔で過ごせますように」「誕生日にディズニーランドにいけますように」選んだたった一つの願いが、たくさんの笹枝を揺らす。

別の広場のソファーで、患者さんと話すことがある。楽しかった人生の時間と、今の人生の楽しみを語ってくれる。まだまだ元気で生きなきゃねぇ、と言う人の中に、もう早く死にたいという人もあれば、まだ家族を残しては死ねないと話す人もある。

カンボジアのプノンペン大学の友人は「母や父の世代の人たちは少ない。僕たちが勉強をしていい国をつくる」と言う。1979年のポルポト政権崩壊後、残された国民の85%は14歳以下。約700万人だった人口のうち、4年間で200万人以上が死んだ。世界が記憶する最も新しい大虐殺。中でも知識人が皆殺しにされた。医者や教師はもちろん、眼鏡をかけている人、外国語が話せる人、本を読んでいる人、海外に渡航経験のある人も殺された。即殺ではなく、長い拷問を受けて殺された。トゥールスレン収容所を訪れた時に見た血糊は、それからまだ100年も経っていないのだということを明かしていた。収容されていた人々の写真の顔と、目を合わせて歩いた。1万4,000人を超える人々の中で、生き残ったのはたった8人だ。

たいていどの宗教でも「死後の世界での安らぎと幸福の約束」がある。宗教を深く知れば知るほど、何千年も変わることなく人々が本当に求めている幾つかのものが、皆同じであることがわかる。

パレスチナのガザ地区。フェンスで閉鎖されて、外に出ようと手をかける者は撃ち落とされる。私が知る限り最も残酷なその場所から奇跡的に脱して来た友人は、日本を世界一安全な国だと言った。彼は三度の戦争を経験して、一番新しいのは2014年。ほんの4年前に、彼の故郷ではフェンスの中で2400人が死んだ。彼の言う安全とは「戦争がないこと」だ。でも、私が先月参加した参加型の演劇では「これからも10年間、日本で戦争が起こらないと思う人」という質問に、その場にいた誰も「イエス」を知らせる合図を鳴らさなかった。さらに、スイスの再保険会社 Swiss Re が発表した「世界で最も危険な都市ランキング」「できることなら移住すべきではない都市」では、世界616都市の中で日本の5大都市がワースト10にランクインしている。1位に東京・横浜、4位に大阪・神戸、6位に名古屋。常に地震や季節風の危険にさらされていて、巨大地震が発生した場合は人口の約80%が確実に被害を受ける。特に東京・横浜は、河川の氾濫や津波、嵐のリスクも高い。「人の力ではどうしようもない危機に常にされらせていて、しかもその場合、高確率で死ぬ」という環境は、特殊なものだ。(インフラ整備や犯罪リスクの指標のみで評価づけられた調査には東京を世界一安全な都市としているものもある)

イスラームでは自殺が禁じられている。生きながら殺されているような環境の中で、絶望の生から逃れたいと切望し "殉死" を遂げようと身ひとつで銃口に向かう若者たちがいる。母親が止めても、わざと撃たれようと向かっていく人がいる。
銃を構えている或る兵士たちは、重装備をしている自分に向かって裸で直進する人の群れに “恐ろしさ” を覚え、おそろしくて銃の金を引くのだと言った。

煙が上がっているところに、人が走って騒いでいる。何だろう。人の頭が燃えていた。青年の頭に爆弾が当たって煙が上がっていた。その青年の手脚を掴んで、叫んでいる人々の声だった。

世界にとってはほんの一瞬だけれど、私にとってはけっこう長い時間を生きてきたように思う。その中で、多くの人もそうであるように私も、決して少なくはない死と遭遇した。もしかして、きっと、どこかで、まだ少し、幸せな瞬間を掴んだまま化石になりたいと思っている。いつか、これぽっちもそう思わなくなる日が来るのだろうか。

死について簡潔に語ろうとするなら、きっとたくさんのものがこぼれ落ちる。何十枚も原稿用紙を渡されても、書き尽くすことはできない。
………いや。書き尽くせないのは「他者の死」についてだ。もっと言うと「他者の死を受けた自分について」だ。死は命の数だけあって、生は命の時間のぶんだけあるのだから。それらはもしかして一意なのかもしれないけれど。
とにかく、その書き尽くせないと言ったものは「死自体の経験」ではない。死そのものについては自分の死によってしか分かり得ない。だから一言だって書けやしない。測り得ない。予測不可能な物事に対して不安を大きく見積もって怯えるのは、人間の脳のわるい癖だ。それが分かってからもまだ私が恐ろしかったのは、愛する人がいなくなってしまった世界で変わらない明日が繰り返されてしまうことだったのだ。そんな世界でも生きていかなければいけない、その日が訪れるのが恐ろしくて仕方がなかったのだ。恐怖が払拭される日が来るとは思いもしなかった。払拭されたのは、ひとりの人が死んだ後の世界がそれでも美しいこと、命の数だけある生きる苦しみと生きる希望を知ったこと、といったところだろうか。どうだろう。

今日は母の誕生日だ。
お母さん、生きていてくれてありがとう。産んでくれてありがとう。 愛していてくれてありがとう。

今朝電話をしたら
「いとちゃんが60歳になった時にも、お母さんは毎年いとちゃんおめでとう、生まれてきてくれてありがとうって言えるように元気でいたいよ」
と言ってくれた。
「親は年を取るし先にいなくなるけど、いとちゃんが60歳になっても毎年変わらず忘れずにいとちゃん誕生日おめでとうって伝えてくれる友達がいてくれることがお母さんの願いだよ」
とも。

いつまでも一緒に生きていたいという願いと、きっとそれはできないのだという確信とが共存した祈りは、私も同じです。化石になりたいと思って「お母さんはずぅーっと生きててね。死なないでね」と泣きついた私を、眠るまで抱きしめていてくれてありがとう。私はせめてお母さんよりも長生きをするから、お母さんも元気に笑顔で、うんと長生きをしてください。それが叶うように、真摯に生きてゆきます。

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