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僕らは毎夜、小さく自殺している

エーリッヒフロムの著書『愛するということ』の中で、「自分を信じることができないから、不眠症になる。」みたいなことが書かれていて、なんか分かるけど、分からないような、認めたいけど、認めたくないような、そんな気持ちだった。

この言説に対して、ずっとそのようなふわふわとした理解・態度だったのだけど、突然スッと理解できたので、僕の考えを書いてみようと思います。

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まず、眠るという行為は結構やばいと思う。皆、基本的に毎日眠るわけだけど、生きている中で、意識を失う時間があって、それも数分とかじゃなくて1日の1/3くらいは眠っているわけだ。何がやばいって、第一に無防備すぎる。意識を失って、身体も動かない状態でいるなんて危険すぎる。いとも簡単に殺される。子孫繁栄を主目的にプログラムされているのであれば、あまりにも理にかなってなさすぎる。不可解すぎる。と思う。まあ、現代人にとって、生命の危機に瀕することがだいぶ遠のいているので、これはまあ良しとしよう。

もう一つ僕がやばいと思うのは、"入眠"である。語弊を恐れずに言えば、"小さな自殺"だと思う。無論、自殺と眠るという行為は別のものだ。ただ、意識を失う、身体から離脱する、という点で共通している。再び目覚めるか否かの違いしかない。と、言うとまああれやこれやと異論はあると思うけど、ここでは一旦そういうことにしよう。

でだ、自殺には自信が必要ない。むしろ自分を信じることができなくなった時選ぶ道だと思う(自殺したことないので本当のことはわからないけども、死にたいと思ったことはあるから少しだけ、なんとなくわかる)。一方で、眠るには自信が必要だと思う。何故か?"小さな自殺"だからである。頭の中に???が浮かんでると思うのだけど、もう少し焦らずに、聞いてほしい。

"小さな自殺"について説明しよう。繰り返しになるが、自殺も入眠も、意識と身体を手放すと言う点で共通している。ただ、目覚めることを前提に行うか否かの違いがある。目覚めないことを前提に自分を手放すことはめちゃくちゃ怖い。想像を絶する勇気がいると思う。じゃあ目覚めることを前提に自分を手放すことには勇気が必要ないのか?僕は要ると思う。小さな勇気が必要だと思う。また目覚めるとは言え、一時的に自分を手放すのだ。考えてみれば、それなりに恐ろしい行為を日々行なっているわけだ。ただ、入眠と自殺ではその(恐ろしさや必要な勇気の)程度が違うので僕は入眠を"小さな自殺"と呼んだ。原理は似てるけど、スケールが違うみたいな感じだと思って欲しい。

で、自殺には自信が必要ないのに、"小さな自殺"にはなぜ自信が必要なのだろう。答えは簡単で、また目覚めると知っているからだ。もう目覚めないとわかっているならば、もうどうでもいい、なんとでもなれと、自暴自棄に、全てを放棄すれば良い。一方で、また目覚めるとなるとそうはいかない。私は明日もまた生きるのだ。まだ死ねないのだ。だから一時的に手放すけれど、また還ってこないといけないのだ。でも怖いことには変わりないから、自分に言い聞かせるんだ。大丈夫だよ、と。そっと背中をさすってやるのだ。それが自分を信じるってことだと思うのだ。そうやって自分を信じることができてはじめて、本当の眠りにつくことができるのだ。

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これが僕のフロムの言説に対する理解です。要約すると、入眠ってのは実は結構恐ろしい行為なので、自分を信じることができないと本当の眠りにはつけないよね。ってことです。書きながら思考を整理していったので、だいぶ荒々しい論理展開でしたが、こんな感じで僕は理解しました。ここまで読んでくれた方がいればありがとうございましたm(_ _)m

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