Plastic Tree『doorAdore』ー明日の朝は海へ行こうか

ひと月以上遅れの亀更新ディスクレビュー(的なサムシング)、二本目。前回のKEYTALK『Rainbow』と同じ日にリリースされた、こちらも永遠の憧れであるあのバンドのアルバムを。

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「adore」と言う単語を、僕は知らなかった。

辞書を引くと「敬慕、崇拝」と言う意味らしいが、奇しくも僕にとって誰よりもこの言葉が相応しいロックバンドは、プラスティックトゥリーだ。

もう10年近く憧れ続けているプラも、気がつけば去年で結成二十年。二十年!?目を疑うが二十年である。だってもう皆さん出会った時から全然顔変わってないもん。こわい。そんな彼等の二十年記念(彼等はバンド名に因み、敢えて「樹念」と表記している)イヤーを締めくくるアルバム、『doorAdore』。相変わらずと言うべきか否か、とても美しくセンチメンタルで、そしてなんだか前向きなアルバムだった。

二十年の集大成、だからと言ってかつてを回顧したりはしていない。そこにいたのはまさしく今現在のプラだった。


一曲目、『遠国』から一瞬で心を掴まれる。意味深なタイトル、遠くの森から迫ってくる葉の揺れる音のようなイントロ、目の前には玉虫色に輝く羽虫が、群れを成して飛び交う。目も眩むような遠国の森の景色が一瞬にして広がるその音には、滲み出すやるせなさと染み出す甘さに彩られた叶わぬ恋の詩が乗っている。

森を抜けると、気がつけば朝。どうやら切ない悪夢を見ていたらしい。ベッドから出て街に出かけると、そこはたくさんのヒトと、鉄と、思念の匂いに満ちた都会。
疾走感溢れるギターロックやテクノ、フュージョン、何処となく代官山のカフェで流れてたらグッときちゃいそうな雰囲気の楽曲が中盤では存在感を増してくる。『恋は灰色』や『エグジスタンシアリスム』なんか、ヴィジュアル系そんなに知らない最近の邦ロック好きの若い子にも薦めたいぐらいに、めちゃくちゃカッコイイ。

シングル曲のアレンジも秀逸。音がライブっぽくなってたり、雨音のエフェクトが入ってたりして情景が想像しやすい。


一見不規則で複雑だけれど何故か心地よい不思議なビートに、唐突に繰り出されるテクノ調サウンド。音も毎度攻めまくりである。特にギターのアキラさんが凄い。嘆きや遠吠えのような狂おしくも雄々しい攻め攻めの弾き倒しギターが小気味よく切ないが、一方で打ち込み職人としての腕前は一流と言って差し支えないし、『サーチ アンド デストロイ』での作詞作曲者としての凄まじさよ……この凶悪なタイトルを良い意味で裏切る静謐で禍々しい音に、タイトルを真正面から裏切らない凶悪な歌詞が最早発明品。ドラムのケンケン氏だって勿論負けちゃいない。特に『残映』『いろつき』に顕著だが、彼は実験的なのに何処か懐かしい、「プラっぽい」曲を作るのがとても上手だ。一番最後に加入して一番最後に作詞作曲を始めた彼は、きっと誰よりもプラのファンなんだろう。

ケンケン氏の加入によって、プラが「プラっぽさ」と改めて向かい合うきっかけにもなったんじゃないか、とも思う。そして僕はこのアルバム全体からとても強く「プラっぽさ」を感じた。

それは、優しさだ。


プラの曲は、どんなにわけわからんカオティックパンクでもなんとなく優しい。このアルバムにもサブコンポーザーでありベースの正さんによる『scenario』と言う凶悪なナンバーが収録されているが、サビメロのキャッチーさと何処か拙い少年の独白のような歌詞に安心感すら覚える(僕だけかもしれないけれど)。
それは作詞作曲者正さんの元々のひとの善さでもあり、センスでもあり、そして多分、彼が最も影響を受けたミュージシャンであろうボーカル、そしてメインコンポーザー有村竜太朗のお陰でもあるのだ。


有村さんは昔から優しい言葉を歌うひとだった。そりゃあ「狂ってる僕にカミソリを!」とか歌っちゃう時代もあるさ、ヴィジュアル系だもの。しかしそれでも、そこにあるのはいわゆるアングラバンドメンの凶暴性ではなく、病んでるひとに寄り添って一緒に病んでくれる優しさだったと思う。
あの頃からだいぶ姿かたちを変え、初期衝動こそなくなったけれども、いつまでも彼等は若々しく優しい。そしてそれは、ひとえに有村さんの、特に作詞が持つ優しさの影響が大きいのではないか。

発明家のアキラさん、プラが大好きなケンケン、そしてどんなタイプの楽曲でも優しさを隠さない(隠せない?)正さん。絶対にキャラ被りしない個性的な三人の楽曲が同じアルバムの中で「プラっぽい」存在感を示せるのは、そんな有村さんの優しさに三人が影響を受け、そして、お互いの事をミュージシャンとしてリスペクトし合っているからなんじゃないだろうか。どんな熱心な海月(ファン)よりも、きっと彼等はお互いの、そして有村竜太朗のファンだ。

絶望にさえ寄り添って一緒に嘆いてくれるプラの優しさ、「プラっぽさ」はずっと健在だ。しかし、それは明らかに形を変えてはいる。そりゃあそうだ、だって彼等も大人になり、歳をとる。外見変わってなくたってヒトとして成熟するもんだ。それがとあるひとには合わなくなるかもしれないし、そこの君には更に好みになるかもしれない。それはわからない。でも、僕は前向きに捉えたい。だって今のプラはとても美しいから。だってまさか、プラの楽曲からこんなにも「前向きさ」を感じるとは思わなかったから。


最後から二曲目の『ノクターン』で、僕達は夜を迎え、また悪夢の森の奥に舞い戻る。今度は眩い羽虫の群れさえ見えない真っ暗闇の森で葉音を聞きながら、何処へ向かうのでもなく彷徨う。

今までのプラだったら、ことこの二十年を経る前のプラだったなら、ここでこのアルバムは、物語はおしまいだっただろう。でも、今の彼等はここで終わらせてくれない。哀しみに陶酔する事を許してはくれない。

『ノクターン』の歌詞に、次のようなフレーズがある。

「離れ焦がれ 気が遠くなる
ふらりふかい森にいるようで
胸も腕も ひとりぼっちだと解ったら
明かりのつくドアを探そう」

「まさしく天使」だと思う程愛おしかった恋人を失った、途方もない悲しみを描いた歌詞。いつか来たる「喪失を認めなければならない瞬間」を想うこの歌詞は、次のドアを探さなければいけない=失ったひとを忘れ、前に進まなければならない、と言う残酷な摂理を描写しているようだ。だけれど、悲しく残酷であると同時に、とても前向きだとも取れる。

その証拠に、最後の一曲『静かの海』は物悲しくもとても清々しい別れを描き出すバラードだ。シングルB面だった曲だが、まるでこのアルバムのために最初から用意されていたような不思議な曲。この曲が最後を飾る事によって、まるで夜明けと共に深く暗い森の奥にあるドアを開き、しらじらと明ける朝の海に辿り着いたようなカタルシスが訪れるのだ。

かつて絶望にただただ寄り添い、一緒に嘆いたり暴れたりするだけだったプラは、気がつけば僕達を新しい朝へ導いてくれようとしている。


いつも変わらぬ優しさで包み込むような音楽を鳴らし、しかし変化する事を恐れない。退かぬ媚びぬ省みぬ、それでいてメンバー皆がお互いを尊敬し合う関係にある。プラスティックトゥリー、理想のロックバンドすぎて憧れるしかない。「adore」を冠したアルバムに、改めてそう思わせてもらえた。

ドアの向こうの朝陽を浴びた海は、どんな色なんだろう?そしてその海の向こうには、どんな景色が見える?
僕は敬慕する事しか出来ないし、そんなものは彼等のみぞ知る事だ。だけど、きっととても綺麗な景色なんだろうな、とは思う。

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