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三冠ヘビー級王者、曙


2015年10月、全日本プロレスが大阪の四条畷で大会を開いた際に、当時三冠ヘビー級王者だった曙の記念撮影会が行われ、当初は三冠ヘビー級ベルトは用意される予定ではなかったが、「ベルトがあったほうが記念になるでしょ」と曙が提案したことでで、急遽ベルトを交えて記念撮影会となった。
この時は”サービス精神があっていい人だな”印象を受けたが、曙は1ケ月後に秋山準に敗れて三冠ヘビー級王座を明け渡し、全日本プロレスを退団した。

曙が格闘家としてデビューした2003年は格闘技ブームが頂点に達しており、「K-1 Dynamite!」「RRIDE男祭り」「INOKI BOM-BA-YE 2003」の三つのイベントがTV局を巻き込んでの興行戦争が勃発していた。「K-1 Dynamite!」はボブ・サップvs曙をメインカードにしていたが、夜11時にもかかわらず裏番組の紅白歌合戦より瞬間視聴率をマークし、興行戦争も「K-1 Dynamite!」の一人勝ちになった。この時はサップも人気を呼んでいたが、曙も元横綱というネームバリューもあり、一般受けしたことも一人勝ちした要因だったと思う。

しかし、格闘家としての曙は結果を出せず、K-1覇者であるレミー・ボンヤスキーとも対戦した際にも前のめりで倒れてKO負けしたことで、野球解説者だった張本勲からも「横綱なのに情けない」など批判を受けた。

その曙がプロレスに挑戦するときも、これまで元横綱である輪島大士や北尾光司が大成しなかったこともあり、K-1での試合ぶりもあって好意的に見られていなかった。だが格闘技だと動きは制限されるせいか、体格を生かせず、欠点となってたが、プロレスだと欠点であった体格が長所となっていかせた。また格闘技で負たことも、大きな要因ともなって、真面目にプロレスに取り組んだ要因にもなったと思う。

曙は元々横綱時代にも相撲を辞めて天龍源一郎のWARに入るつもりだったという。結局断念したが、曙自身ももっと早くにプロレスに巡り合えていればと思っていたのではないだろうか…

全日本プロレスでは三冠ヘビー級王者となって、元横綱で初めてプロレスラーとして成功した例を作った。これも曙の大きな功績でもあり、プロレスでも名を十分に残したプロレスラーだった。

ご冥福をお祈りいたします。

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