言葉じゃなくても

6月25日のできごと

わたしは体温が高い。
手のひらはさらに熱くて、夏は押し入れにしまっときたいね、なんていわれることもある。
「人間ハロゲンヒーター!ウイイーン」といって人に手をかざすと、
「あっつ!あっつ!ほんとにやめてー!」と笑いながら逃げられる。

今日も暑かった。
21時過ぎの駅のホームだ。
からだを冷ましたくて、涼しそうな車両に乗る。
しばらく乗っていると、席が空いたのでそこに座った。
わたしは携帯をとりだして、楽譜をみながら小さく鼻歌を歌っていた。
データで楽譜をいつでもみられるなんて、便利な時代になったなぁ。

電車は次の駅に到着する。
何人か人が乗ってくる。

気がつくと、車両内に少し緊張が走っていた。

「なんだァおい、アァ?」
乗ってきたひとりの男性が、おだやかでない語調で意味不明なことを口走りながら、よたた、よたよた、と近づいてくる気配がした。というのも、この間わたしは右手の楽譜から目をはなさずにいたので、わかるのはそのなかでみたり感じたりしたことだけだ。

アルコールの匂いがぶわりとかかる。その酔っ払いの男性は、空いていたわたしの右隣の席にどっかりと座った。
足をがばっと広げ、腕もまるでひじ掛けでもあるかのように大きく突っ張ってこちらを圧迫してくる。終始落ち着きなく、何かにつけて文句をいうような口調でぶつぶついって、さらにからだを動かす。
わたしは周りの乗客たちが、いったいどうなるのかとこちらを見守っているのを感じていた。

わたし自身、このままなにかがこの人の気に障ってからまれたり、暴力を振るわれたりして怖い目にあったらどうしよう、と思ってすこし緊張しはじめていた。

だけど同時にこのとき、
「今日は素晴らしい日になる」
と思った。
近ごろ、自分があたたかくなる言葉を言ったり思ったりすると、いいことばかり起こってる、または何があってもいいことのように思っちゃう、おめでた人間になってるかのどちらかだ、どっちでも幸せならいいわな、わはは。なんてことを考えているのだけど、
このときももはや癖で、
「今日も引き続き、素晴らしいことだけが起こる」
と瞬間的に思考したのを覚えている。

わたしはひとまず、自分のバッグを膝に置きしっかり持って、自分のスペースにはいってこられないようにガードすることにした。
でもその人はますます気に入らなさそうに、動きをやめることもなく、わたしはバッグごと押されるだけだった。

どうしたものかと思っていると、急にある言葉がわたしのなかに浮かんできた。

「自分で自分をほんとうに愛している人のことは、なにものも傷つけることはできない」

これは吉本ばななさんが昔付き合っていた人との間に起きていたことを回想した記事の、

「なによりもまず自分を愛していれば、愛のない人は近づけない。それが自然の力だ」
―吉本ばなな note どくだみちゃんとふしばな「順番と自然の法則 おーるゆーにーどいずらぶ」より

という言葉からだと思っている。

詳細は割愛するけれど、その話は、

昔自分を傷つけ否定ばかりする人と付き合っていて、その人とは離れた。今はありのままの自分で、愛する家族と暮らす。「今日一日の私の選択が愛のほうを選ぶかどうかということだけが、私を今後も救っていくのだろう」と思っている

というような話だったと思う。

この話は主に恋愛をトピックスにしていたから、直接のつながりはないかもしれないけれど、
直観で連想して、

「わたしが今”わたしをほんとうに愛してて許している心とからだ”でここに座っているかぎり、この人はわたしを傷つけることはできない。だからわたしは安全。大丈夫だ」

と思った。
だから、大丈夫だから、バッグでガードするのをやめた。

わたしは胸があたたかくなってきていた。
その人の言葉や圧迫も、まぁいいよいいよと思えてきた。

すると、またひとつ思いついた。

「わたしの手はすっごくあったかい。この人は今刺激がすべて不愉快で苦しいのだろうな。この人の胸もこんなあたたかだったら、すこし楽になるかもしれない」

今思うとほんとうに奇妙な思いつきだけど、わたしはこっそり左の手をパーに開いて、右隣のその人の胸のあたりに向けてみた。
もちろんこの行為がとても風変わりなこととはわかっていたから、バッグに手を休めているようにみせてまわりの人も気づかない程度に、遠くからこっそりと、だ。

わたしの手はいつもどおりアツアツだったし、なにしろ人間ハロゲンヒーターなわけだからすこしくらい離れていても大丈夫、あたたまるだろうと思っていた。
そして心の中で、

「いいよ、いいよ。ここに居ていいよ。押してもいいよ。座って、居て、いいよ。生きてるっていいね。それだけで素敵だよ。居てくれてありがとう。愛してるよ。好きなだけここに居てね」

とその人に話しかけた。
まるで手からその人の胸につながっているかのように。わたしの左手はますますあたたかく、わたしはほっとして、安心感に包まれてきた。

すると、変化が起きてきた。
その人はばたばたしたり、ぐいぐい押すのを弱めて、落ち着いてきていた。
その人の態勢が、ほんの少しわたしに寄り添うような体感もしてきた。

わたしはさらに思いついて、右手に携帯を持ったままだったのを置いて、その手を自分の胸の方にさりげなくかざした。目も閉じていた。
なんとなくそのほうがいいと思った。さらに伝わると思った。

そしてしばらくそのまま話しかけ続けていると、なんだか、胸に悲しみのようなものがはいってきた。
なんだろう、悲しい―

するとその人が突然、
「あやまって@*%$#&”\\%」
と怒ったようにつぶやいた。

あやまって―いろいろな可能性が考えられる言葉だ。
あやまってくれ、あやまってたら、あやまっても……

でもわたしは「あやまってるのに、なんで」という、悲しい、悔しい思いの言葉だと直感的に思っていた。
胸にある思いは、それだと思った。罪悪感。
自分はあやまらなくてはいけない、と思っている。許されたい、と思っている。
いったい今日なにがあったのか。こんなに深酒をして……
わたしはその悲しみをわかりたいな、と思った。

だからわたしは、

「そうだったんだ。悲しかったね。つらかったね。大丈夫だよ。あやまらなくていいよ。あやまらなくても、生きてていいし、そこに居ていいんだよ。いまのまま、愛してるよ」

と話しかけた。

しばらく続ける。
するとだんだん、胸に満ちていた悲しみ、罪悪感が消えていった。
かわりに、じんわりとやさしい温泉につかるような、あたたかさが胸からあふれてきた。
はーいい気持ち。

余談だが、ここで同時にちょっとおもしろいことが起こっていた。

わたしはずっと右隣の人にはたらきかけていたのだけど、なぜか左隣の人もわたしの方にほんの数ミリずつ近づいてきていて、最終的にその人もほんの少しわたしに寄り添っていた。
話しかけたの君じゃないんだけど、と思ったけれど、まぁいいかと思って放っておいた。
両隣に寄り添われて、なんだかおかあちゃんにでもなったような心持だ。

そして、しばらくすると電車が車両点検のため一時停車した。
右隣の酔っ払い男性は、「なんだァ」と身を動かし、怒って文句をいうような気配を見せた。
わたしはすかさず、心の中で「大丈夫、大丈夫。愛してるからね」と話しかけた。
すると、その人はすぐにおとなしくなって、また静かに寄り添っていた。
わたしは「そうそう、大丈夫。よかった」と思った。

電車はふたたび動き出した。
左隣の人は、もうすでに下車していた。

ついに、あと三駅でわたしの最寄り駅となった。
わたしはもうそろそろ降りるけれど、このあとどうなるのかな。まぁ、なりゆきに任せてみよう。

そんなことを考えていた矢先だった。

突然、その人がばっと立ち上がった。
そのまま歩き、何の迷いもなくまっすぐわたしの目の前に立った。

そして彼は、
「ありがとうございました」
といって、90度以上、深々と頭を下げたのだ。

「ほんとうに、ありがとうございました。ありがとうございました。迷惑かけることしちゃってすみません。ほんとうにありがとうございます。ありがとうございます、ありがとうございます」

何度も何度も、一生懸命に頭を下げて礼をする。
まるで毒気が抜けたかのようにすっきりとした顔で、あんなにふらふらだったのに、とてもしっかりとした意思のある目でこちらをまっすぐ見て立っている。

わたしは唖然としていた。

わたしははじめに携帯の楽譜をみていたところから胸に手をかざして目を閉じるまで、ほかに目を向けることは一切なかったので、彼の姿をちゃんとみたのはそれがはじめてだった。

50歳前後にみえる小太りの男性だ。頭は少しはげていて、スーツは乱れてよれよれ。
相当深酒をしていた様子で、まっすぐ立つのにかなりの努力が必要そうだ。

わたしに礼をいっている間に電車は次の駅についていたので、危うくドアにはさまれそうになりながら、彼はあわてて電車を降りた。

そして、電車を降りてからもホームに立って、口の動きで「ほんとうに、ありがとうございました」といいながら何度も何度も、電車が行ってしまうまで繰り返し頭を下げていた。

驚いたのは車内の人たちだ。
わたしは無論、今まで一言も口をきいていない。動きといえば自分の腕を移動させたことくらいだ。その人が暴れながら乗ってきたのを、はじめから見ていた人もいる。みんなキラッと目をまんまるにして、いったいなにが起こっていたのという顔をしていた。わたしのことを、まじまじと見ている人もいた。

次の駅がわたしの最寄り駅だったので、わたしはまわりの視線を感じながら、電車を降りた。

ホームに立つ。
電車が出発し、背中に風を受ける。

わたしの胸はあたたかく、とても充ち満ちていて、頬は上気していた。

人間ハロゲンヒーター
夏の使用用途ができる、の巻……

✌️

おわり

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