自称・金津嘉徳

自称・金津嘉徳

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疎外の時代とアイデンティティー・人類廃絶論

現代は疎外の時代である。それは病の時代である。 人々を苛む病、「自らの人生に価値があるかどうかが分からない」の正体は何だろうか。 人間は秩序と真理、普遍性と無窮を求める精神と、個別的、具体的、一時的であることを先天的に定められた頭脳と肉体を持つというギャップがある。それが「疎外」「嘔吐」、あるいは「生の不全感」「虚無的な絶望感」の正体である。様々な理由で、あるものは怠惰から、あるいは道徳からか、あるべき姿、なるべき存在が漠として内心に示されているのにもかかわらず、そのものに

    • それいけぼくらのメアリー・スー!  キャプテン・アメリカ!

      マーベルのヒーロー、キャプテン・アメリカおよび映画「キャプテン・アメリカ/ザ・ファースト・アベンジャー(2011)」は現代アメリカのいち指標として非常に興味深い作品だ。もちろんこれはフィクションであり、ごく限定的な判断基準にしかならないことは強調しておく。しかし1941年から現在まで続く古株であり人気のあるキャラクターであることは否定できない。 以下ストーリーと結末を論じるので未視聴のかたは注意されたい。 映画「ザ・ファースト・アベンジャー」では第二次世界大戦中のアメリカ

      • 都市の神

        ええ、その通り。この町には神がおわします。 この町の人草が生きるあらゆる場面を、髪呂市立伊津野大間見神(かむろしりついづのおおまみかみ)がご覧になっているのです。 例えばあの満員電車を見ていただきたい。7時10分発・紫景台行・10両編成のクハE631。 電車に乗る前に、人草は満腔の怒りや絶望ではちきれそうになっており ます。通勤、謝罪、いつ終わるとも知れない苦役、まるで圧縮された火薬のようです。何が起こるかはすぐに分かりますよね? あれなる満員電車に女、男、老人、病人、

        • いのちの授業

          「先生は豚を育てて、最後にはクラスのみんなで食べようと思います」 髪呂(かむろ)市立伊津野小学校6年1組では、風変わりな特別授業が行われることになった。一年間クラスで豚を飼育する。そして卒業前にその豚を食肉センターへ送り、生徒と担任で食べるという内容である。授業には食肉の生産過程への理解と生命倫理教育をうたい「いのちの授業」という名がつけられた。 新任教師の担任・新庄健一は、同じく実践主義にして教育熱心で知られる瑞樹篤子校長のバックアップのもと、この授業を成立させるべく予算

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          悪魔

          「あくまさん」少女は物おじせず『悪魔』に語りかけた。 「なんだい?」 「あくまさんはどうして、にんげんがそんなにも、にくらしいのですか?」「それは人間を見下しているからだよ。かつてわたしは娼窟に棲みついていて、どうしようもなく困窮して絶望のどん底にある女の人を二束三文で売っていたんだ。売られる女に買う男、同様にみじめだから。一石二鳥でね。 わたしはなるたけ多くの人に、永く、ほんの少しずつでもいいから、みんなにみんなに苦しんでほしかった。ひろく、あまねく、いやしめてあげたかっ

          北大路魯山人 大家による芸術の定義

          北大路魯山人による芸術の定義は心術、感情熱情、入神的、自然美からの学びなど曖昧ではっきりとしない。直截にいえば広範すぎて厳密な定義には失敗しているし、ま新しいものはない。ゆえに明確に誤りようもない。 芸術というのは心術だといった方が解り易いのではないかと思うのであります。これは心の置きよう、感情熱情で出来たところのもの、それが芸術であると解してはいかがと思うのであります。元来、この「術」のつくのが問題なのでありまして、美術とか技術とかいずれも「術」がつくのでありますが、この

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          戦略的「レプティリアン排外ヘイト」反対声明文

          親愛なるなごやトリエンナーレ運営諸君。 私は貴兄らの超芸術と砂漠化思想を全面的に支持する。 それゆえにパートナーシップ事業である、10.13「種族主義による」排外ヘイトデモへの反対を表明する。 https://twitter.com/LU3nEwJJ4onbZeg/status/1180030642639097856?s=20 種族による排外主義はレプティリアンの親人類派を強硬派に転じさせ、反体制派危険分子と協力することを不可能にする。思想をもって連帯し共に砂漠化を目指す

          戦略的「レプティリアン排外ヘイト」反対声明文

          原理は覇権を行使する

          2019年9月26日文化庁があいちトリエンナーレへの補助金を交付しないと発表した。https://www.huffingtonpost.jp/entry/aichi-triennale_jp_5d8c4af3e4b0019647a2fb1c 今もSNS、マスコミを問わず議論が盛んに行われているが、国が公費を使い文化事業を経営する際、必ず論じられるのは以下の三点である。 ①憲法二一条に則り表現の自由を守り、検閲してはならないという国家原理 ②公金の支出は大多数の民意に沿った

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          アート・反アート・死・嗤うメフィストフェレス

          やあ破産者諸君!元気にアートやっているのかな? さっそくだがお伝えしよう。アートはすでに死んでいる! いま君たちが腐心しているもの、それは趣味か商売にナルシシズムをぶちまけた別の何かだ。断じてアートではない。 どうも君たちは忘れっぽいらしいし、耳が遠いふりをしているので、何度でも言おう。 アートは死んでいるし、君たちのなめまわしているそれはアートではない。 死の泉芸術の死はマルセル・デュシャンの偉大なる小便器「泉」(1917)によってもたらされた。彼は絵画や彫刻といった視覚

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          表現の不自由展:「二項対立」しか 選べないひとたち

          表現の不自由展によって二項対立と分断が顕在化した、とみな嘆いている。 私はこの反応の一様性に違和感がある。なぜ、美的センスに優れているはずのアーティストや芸術愛好家、および反対者は同じようなことしか言わないのか? アートや表現活動が本当に創造的・触発的・挑発的・多様であるのならば、なぜ一様に「暴力によって表現の自由が侵されたのが悲しい」や「国民の税金を使って反日作品の展示は許されない」といったお決まりの二項対立しか観測されないのか。 例えば、「私は作品を自ら警備する、テロ

          表現の不自由展:「二項対立」しか 選べないひとたち

          あいちトリエンナーレ、アーティスト・ラン・スペース「サナトリウム」無効論

          ここで論じるアート無効論は「弱者排除社会」と「官製芸術展」の文脈より始める。 弱者排除社会と排除「アート」排除アートというものをご存じだろうか。都市の高架下や広いスペースにオブジェ、置石といったものを配置し、ホームレスの居住を防ぐものである。あるいはベンチを寝そべることのできないようデザインしたり、不自然な傾斜をつくるというものである。アートが弱者排除の偽装として利用されているという批判はあれど、いまだ社会に数多く存在する。 写真:早川由美子氏 リンク参照 もちろんこん

          あいちトリエンナーレ、アーティスト・ラン・スペース「サナトリウム」無効論

          善という半神【Demigod】

          善と規律 善は形而下においては規律であり、「~せよ」「~してはならない」という「命令」と「不可能性(禁止事項)」の定義群と体系で表現される。   命令に虐げられ不可能性を押しつけられたものは反逆と可能性を求めるが、それゆえに悪と呼ばれる。 つまり悪は善の規定に対する反逆のため、主体的内容を持たず反動的従属物としてしか存在しないという側面をもつ。 (後述するが、悪も「~せよ」「~してはならない」命令と不可能性を  他者へ押しつけることがあるので善が反逆を起こし反動的従属となる

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          美しき砂漠の原理 なごやトリエンナーレ

          あいちトリエンナーレ「表現の不自由展」にて昭和天皇の肖像が燃やされた作品に対して批判が高まり、脅迫を受けたとして展示が中止された。芸術にせよ、憎悪表現にせよ、なぜ天皇陛下の肖像を燃やす作品が問題となり、展示を取りやめることになったのか。そこに一貫した原理があったのか考察したい。 そして、最後に芸術弾圧プロジェクト「なごやトリエンナーレ」について言及する。 まず、表現のために焼いてもよい写真を選んでいただこう 日本人女性・黒人男性・ヒトラー・宅間守・安倍晋三・トランプ・昭和

          美しき砂漠の原理 なごやトリエンナーレ