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美しき砂漠の原理 なごやトリエンナーレ

あいちトリエンナーレ「表現の不自由展」にて昭和天皇の肖像が燃やされた作品に対して批判が高まり、脅迫を受けたとして展示が中止された。芸術にせよ、憎悪表現にせよ、なぜ天皇陛下の肖像を燃やす作品が問題となり、展示を取りやめることになったのか。そこに一貫した原理があったのか考察したい。
そして、最後に芸術弾圧プロジェクト「なごやトリエンナーレ」について言及する。

まず、表現のために焼いてもよい写真を選んでいただこう

日本人女性・黒人男性・ヒトラー・宅間守・安倍晋三・トランプ・昭和天皇・ヒラリー・ムハンマド・赤ちゃん・イルカ・筆者・チンギスハン・レオポルド2世・キリスト・たぬき

どの写真なら表現のために焼いてもよいのかを問うた場合、一貫した返答としては「すべて焼いて構わない」か「すべて焼くことは許されない」の二択しかありえない。全米の街頭で今日もトランプは焼かれている。昭和天皇は焼いていけないといいうる立場は存在しない。よってすべての写真は表現のために焼いて構わない。それに反対、批評、抗議することも表現であるから妨げられない。

芸術表現のため焼くのは許されるが、憎悪表現のためには許されないというのは発信者の内心をはかる手段がない以上、一貫したルールにはなりえない。文脈を鑑みて判断する、というのは単発の事象に対応できないし、大量に不特定の情報が行き交うインターネットにおいては無力であるから、やはり万能ではない。もちろん事実を精査し、文脈や意図を鑑みて判断できる事例であればそれを実行するべきであるが、多数派の納得を作り出すための猿芝居になってしまうならば意味がない。判断材料にはなっても、基準そのものにはなりえない。

だからといって文脈を否定するわけではない。
メルカリで天皇陛下の写真集は転売されている。焼き芋の時に使った新聞には陛下の写真が使われていたかもしれない。新聞に陛下の写真が掲載されていたら焼却処分することはできずいつまでもとっておかなければならないのか。
こういったことは誰も非難しない。生活することができないからだ。写真は写真であり、本人とは違う。それによって侮辱する意図などないと分かっているからだ。

特定の重要人物のみ扱いを変えるということを認めるのは、重要でない人物はどう扱っても構わないということを意味する。ムハンマドとシャルリ・エブドの関係を見るように、ある人物に関しては激烈な反発や物理的攻撃の可能性があるが、その損得の判断とは無関係に原理は存在するはずだ。攻撃を受ける心配のない者ならばどんな憎悪表現も許されることになるからである。
必要なのは「原理的基準+個々の件に関する事実と経緯を確認すること」である。

その原理とは「あらゆる表現についてその自由を妨げるものではないが、その表現に対し非難、罵倒、反対、批評、嫌悪の表明、妨害運動などあらゆる否定的反応も自由である。脅迫と殺傷を含む暴力のみそれを行ってはならない。」というものだ。
この原理に照らし合わせて事実確認を行い、結果擁護や反対運動の内容と質、具体的行動を決定するというのが、良識的な落としどころなのではないだろうか。

拝金主義下の芸術の不可能性
では、その良識から外れた領域の話もしなければならない。資本主義的な観点からすれば、パトロンと雇われ芸術家の間で雇用関係が存在する以上、出資の意図を外れた作品から手を引くのは正当とも思える。民間の一企業なら問題はない。民間イベント開催の目的は私益であり、公益ではないからだ。

今回の件は愛知県が主催である。「税金を使って運営している以上、国を貶める表現は展示させない」ということは、「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」憲法第二十一条はその雇用関係を上回ることができないと宣言しているようなものだ。つまり国家原理たる憲法より雇用契約における正当性を優先させたことになる。芸術監督の津田大介氏は「脅迫によるスタッフの安全の確保のため」中止すると発表したが、その決定はあいちトリエンナーレ自体の資金提供が取り消される可能性を計算に入れてのものである。大勢の「税金の反日利用」反対派と同じく、ここで幅をきかせているのは金の使い道に対し民意を尊重せよという要求である。
津田氏は暴力による脅迫が中止の唯一の原因であるとして、この問題から目を逸らせようとしているようだが。

美は美のため、芸術は芸術のために存在する
問題なのは、芸術が資本主義における商品であり金の従属概念、交換価値、換金できる媒体になっている時点で表現は存在しないということである。もし美の創造を至上とするのなら、パトロンの都合や意図と関係なく芸術家は作品をつくるはずである。それができないのは芸術家が「食っていくため」に作品を商品として売るということが、他の労働と商品生産の関係となんら変わりないということをしめしている。
表現の自由を守るために、公金の使用を作品内容によって左右し操作するべきではない、という批判は芸術が商品であるという絶対的否定に対し全く異議を唱えていない。

日常生活に奉仕する芸術という枠組みのなか原理を放棄し、雇用関係を維持することを目的とする世界には、芸術と表現は存在していない。拝金主義に値札を貼られた追従笑いする侏儒のオブジェ、それが現在の芸術である。存在しないものを擁護・迫害することはできない。よってあれら騒動はお互いの言語空間における争奪戦、権力闘争に他ならない。原理なき権力闘争は無内容なので、「あいち」では何も起こっておらず、新しく生まれるものは何もなかった。

もし、この状況をまるごと否定するのであれば、そこには上で論じた良識的原理とは別の原理が必要であろう。拝金主義と日常を下から奉仕する芸術を否定するためには現在の世界、拝金主義と日常を含む全て、人間の在り様を否定せねばならない。

長々とこの文を書くきっかけになったのは、表現の不自由展にまつわる情報収集のなかで、「超芸術監督」自由流襟座或(じゆうる・えりざある)氏らによる「なごやトリエンナーレ/無上の時代」というプロジェクトと8.2「表現の不自由展」粉砕行動声明文を知ったからである。

https://www.nagoyatriennale.info/
https://www.nagoyatriennale.info/8-2-kogi
(現在サイトリンク切れ)

筆者は関係者と全く面識はないが、事の本質を押さえた声明を読み、触発され自分の考えを整理するためこの文を書いた。ぜひアドレスから一読をおすすめする。一貫したロジックといい、アクロバティックな発想といい、凡百の芸術作品をはるかに凌いでいる。

開催目的には「新たな乾燥地帯の創造・拡張により、名古屋の砂漠化に貢献します。」とある。明らかに「あいち」に対するアンチテーゼ、カネと生命維持に無化されたゲイジュツモドキに対する弾圧を目的としている。砂漠化とは、日常の、人の在り様の否定に他ならない。

そもそものコンセプト=原理からして「なごやトリエンナーレ」は、思想において「あいち」のそれに勝利している。
「あいち」が問う事すらできなかった問題をはじめから包含し砂漠化という答えを提出しているからだ。
名古屋の砂漠化を志向する虚無主義(ニヒリズム)が、拝金主義の丁稚というism(原理)なき虚無の信奉者に対して勝利した。
美しき砂漠の原理を掲げた「超芸術」が、原理のない砂漠たる「ゲイジュツ」に勝利した。

このことをかくも分かりやすく、観測しやすくしたことで、表現の不自由展は大成功であったといえよう。

それに砂漠はとても綺麗だし。


追記

現在なごやトリエンナーレのサイトは終了とともに消去されている。その後の経緯を含め、山本桜子氏、東野大地氏『メインストリーム』編集部によるまとめを参照していただきたい。
https://sites.google.com/site/organmainstream/others/nago

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