SMAPの「オンリーワン」とBUMPの「凡庸さ」

BUMP OF CHICKENの『花の名』の歌詞は、SMAPの言わずと知れた名曲、『世界に一つだけの花』と対照的だと思う。なんとなく聴いていて、気づいた。『花の名』の歌詞を少し見てみよう。

あなたが花なら 沢山のそれらと変わりないのかもしれない そこから一つを選んだ 僕だけに歌える唄がある あなただけに聴こえる唄がある

SMAPはたしか、「花屋の店先に並んだ花」が「一つ一つ違って」、「みんな綺麗だ」と歌っていた。「一人一人がもともと特別なオンリーワンだ」というようなことも歌っていた。僕たち私たちが「世界に一つだけの花」だと、そう言っていた。

しかし見ての通り、BUMP OF CHICKENは、「あなた」はたくさんのそれらと変わりないのかも」と歌う。そのうえで、「だがしかし、その大差ない花の中から他でもないあなたを選んだ僕」に”唯一性”を見出す。これが面白いところだ。

いうなれば、SMAPは存在そのものに、人それ自体に”唯一性”を見出す。はじめから私たちはオンリーワンだと。
 一方、BUMP OF CHICKENは、人それ自体は凡庸であるという立場に立つ。「あなた」は「たくさんのそれらと変わりない」のである。そしてそのうえで、その複数の凡庸の集まりから「この」凡庸なものを選択するという「行為」に”唯一性”をみる。いわば、SMAPの歌う唯一性が”静的”なものに向かっているのに対し、BUMP OF CHICKENのそれは”動的”である。「選択」という一つの動的な営みに唯一性をみる。

このように対比したうえで、両者の表現する唯一性をさらに融け合わせて考えることができるように私は思う。いわば、SMAPとBUMP OF CHICKENの弁証法である。

そこでひとまず、存在論的に(存在そのものへの認識として)、BUMP OF CHICKENの側に立ちたい。つまり、「どの花も大差ない」=「みんな存在自体は凡庸」であると考える。そして「選択」(=動的な過程)に唯一性をみることにも乗っかろう。問題はここからだ。

ここで少し視点を変えて考えてみる。自分の大好きなミュージシャンの新譜を、アルバイトで稼いだお金を貯めてようやく手に入れた青年のことを想像してみよう。
 たとえば、彼はCDショップで「何枚も並んだ」その新譜CDから、一番手前にあるCDを取っただろう。「複数の同じもの」の中から「それ」を手にした。そしてそのCDには彼の手垢がつき、部屋に飾られ、友人に貸され、また部屋に飾られ、眺められ、「バイト代で手に入れた”この”CD」になる。同じCDを持っている友人が「こっちの方が綺麗だから」と交換を求めてきたとして(どんな友人だ)、彼はその要求をともすると断るだろう。「このCD」にはもう「代わり」はない。それは世界で”唯一の””この”CDなのだ。

さて、いまわれわれが見てきた例は、”唯一性”におけるSMAPとBUMP OF CHICKENの融合の可能性を示唆してはいないだろうか。

まずはBUMP的に考えて、彼が数多くの「おなじCD」から「このCD」を選んだ彼自身の行為には唯一性があるだろう。注目したいのは、その「他でもない選択」によって選ばれたCDに、いつしか「代え」のきかない”唯一性”が生まれていることである。もう彼の中で、そのCDは”この”CDになっている。そう、CD「それ自体」が特別な価値を帯びているのである。
 まさに、SMAP的な「存在それ自体の唯一性」がここに見出される。つまりこれが、BUMP的な「存在の凡庸さ」「選択の唯一性」を経由してSMAP的な「存在の唯一性」に到達する回路であり、「唯一性」についてのSMAPとBUMP OF CHICKENの弁証法である。



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