過去を振り返ることについて、表現者がそうだからまあいいのか、と思った話 2018/04/06

この前、「過去を振り返ってばかりだと精神衛生に良くない」みたいな話を見かけた。確かに、よくなさそう。というか、精神があまりよろしくない時に懐古は捗る気がするので、因果関係は怪しい。ともあれ、過去を振り返っているときの精神の状態はたしかに明るくはないだろう。

さて、自分を省みると、過去のことばかり考えている。いろいろなことを懐かしむのが好きだし、あのときああしていたらどうなっていたかな、といった反実仮想もよくする。とにかく考え事をするときはほとんど過去のことを考えている。最近それに拍車がかかっているなあと思っていたところに先の話を見かけ、ああちょっとこれは気をつけよう、未来のことを考えよう、という意識が出た。

そういうことを考え出していた矢先、なんとなく、映画館で「田園に死す」を観た。寺山修司の言わずと知れた代表作である。内容は寺山の自叙伝のようなもので、幼少時の寺山自身の原体験としての故郷(青森)をイマジナルに描いていた。作中では大人になった寺山が過去に戻って子供のころの自分に直接語りかける場面もあり、寺山がかなり直接的に「過去」と折り合いをつけようとしているのを感じた。

そういえば、同じような演出を前にも観た。アレハンドロ・ホドロフスキーの「エンドレス・ポエトリー」である。この作品もホドロフスキーの自叙伝で、「田園に死す」と同じように、過去の自分に今の自分が直接語りかけるシーンがあった。ホドロフスキーも、過去を作品に昇華させることで何かを「消化」しているように僕には感じられた。

そこまで考えて、映画を観ながら、ああ表現者は創作を通して自分の過去をどうにかしようとしているんだな、と思った。過去と自分なりに折り合いをつけるために、疼くトラウマを鎮めるために、みな何かをつくっているのではないか。だとしたら、過去のことばかり考えてしまうことこそが表現へのエネルギーになっているはずだし、過去のことばかり考えてしまう自分が研究を通じて何かを表現しようとしていることにも合点がいった。そうして「寺山修司もそうなら、まあいいんじゃないか」と思った。



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