意外な素顔

「意外な素顔」という表現がある。

「あの人気女優の意外な素顔が明らかに!」「強面格闘家Yの意外な素顔とは?」

意外な素顔。表立った印象とは全く異なる性質、人格、習慣。

たしかに意外かもしれない。清楚な女性が爬虫類マニア、強面のムキムキがお化けが苦手。ああ、意外意外。

意外な素顔があれば、「意外じゃない素顔」もあるだろう。スタイル抜群の女性の日課がヨガ、犬の散歩をするおじさんの好きな動物が犬。ああ全然意外じゃない意外じゃない。

ここで考えてみたいのだが、ひとは「意外じゃない素顔」を「素」だと思うだろうか?翻せば、「素顔」とひとが言うとき、すでにその「素」には「意外さ」が含まれているのではないかということである。そうであれば、「意外な素顔」というよくメディアが使う表現は、「頭痛が痛い」や「馬から落馬」と同型の重複があることになる。

「犬の散歩をするおじさんの好きな動物が犬」という事実に対して、ひとはそれを「素顔」と言われて納得するだろうか。

私たちは、何かその人の「意外な」部分を掘り当てるまでそれを「素顔」とは呼ばない。表面的な「キャラ」とは異なる「本当の」、「素の」顔がある、という人格観。しかしその「意外な」一面が「素」だと言える根拠は一体どこにあるのだろうか。その一面もまた別様の「キャラ」にすぎないかもしれないのに。都合よく他者の「素」と「キャラ」を切り分ける、切り分けられるという傲慢が、「意外な素顔」という言葉からは滲んでいる。

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