複眼(小説:ショートショート)

玄関の扉を開けると、静まり返った空気と下駄箱のゴムが擦れたようなにおいが、鼻腔を突いた。

リビングに入ると蛍光灯に照らされたテーブルが出迎えてくれた。テーブルの上には、「おかえり。晩ご飯は冷蔵庫にあります。」とメモ帳をちぎったような紙が1枚心寂しげに置かれていた。

あたりを見渡すと、昼間の妻と子の格闘の様子が散らばっていた。

寝室にいくと妻と子どもたちは寝息を立てて寝ていた。網戸越しに虫が小さな音色を奏でていた。その音色を扇風機がかき消し、汗でびっしょり濡れた子どもたちの髪を揺らしていた。

リビングに戻り、晩ご飯のおかずを冷蔵庫から取り出して、発泡酒を喉に流し込んだ。時計を見ると天井間際だった。

蒸し暑く、電子レンジを使う気にもなれなかったので、冷たいまま口に運んだ。

3年前、この建設会社に転職してから毎日こんな生活を送っている。世間では男性の育休や働き方改革なんて言葉を聞くが、自分をはじめ、同僚なんかもどこ吹く風だ。

大して高くもない給与をもらい、帰宅時間は夜中。朝も早く、妻も最近は育児で疲れているのか起きてこない。

どこか一つのねじが外れたら、歯車は壊れ、脱線することは時間の問題だということが目に見えていた。

たばこを吸いにベランダに出ると、星が少し見えた。煙を燻らせ、目を瞑り、天を仰いだ。妻や子どもの顔が脳裏をよぎり、その顔は笑っていた。

明日もあるから風呂に入って寝ようと、ベランダから戻り、食器を片づけようとすると、そこに一匹の蠅が手をこすり、こちらを見上げていた。

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