孤独を生き抜く3つの決心

私は社会人を20年ほど経て、その後7年ほど引きこもっている。

一番の楽しみの時間は何かと言えば、眠ること。

でも、これは本当で、夢の中のまどろみの中で、どれだけ心が癒されているのかを実感している。

私は、母親と仲が悪かった。母はもう天国にいるけれど、それでも、今も喧嘩したりする。

夢の中では、母は優しくて、僕は1歳の子供に戻り、ハイハイをしながら母の膝の上を目指す。「母さん、母さん」と僕は必死に前に進む。母の膝に到着すると、母はとっても優しい笑顔で僕を抱きしめてくれる。

あまりにも稚拙な夢で、人に語るのは恥ずかしい。だけれども、僕はこの夢に浸るからこそ、この世に対して感じる居場所の無さという「おかしな病」から治っていくように感じる。

 

私はずっと母が好きだったのだ。どうして嫌いになったのかというと、こんなに好きなのに、僕が思うように愛してくれないから。そんなことにやっと気がついた。

いいじゃないか。好きなら好きで。たとえ振り向かれなくても。好きを貫けばいいじゃないのか。

私の恋愛も、好かれないと、いつしか私の恋は終わり、相手を憎むようなそんな恋愛。人を好きになる自分を信じればいいのだ。愛されないと不安になる私は、人を愛し抜くエネルギーがなかったのだ。

 

それは孤独についても同じこと。孤独を生きることがあるから、人はオリジナルを生み出していける。孤独を生きられないと、いつも正解は人の中、世間の中にしかない。自分がどう思うか。自分が何をしたいかは、自分の心に問うしかない。

私は、孤独に耐えきれずに、恋をしていくし、友を求めていく。いわば承認欲求の塊である。でも、承認を人に求めるのでは、いつまでたっても、私という人間はいないままだ。

孤独を生きる決意。これは、やせ我慢を宣言することではない。一つには、自分の心の中に自分の故郷を持つことだ。私で言えば、夢の中で母に向かっってはいはいをしていくこと。なぜか、これを思うと、心に希望が湧き、胸に安心感が広がっていく。人から見ればマザコンかよと馬鹿にされそうだけれども、そう呼びたければ呼べばいい。私にとっては、仲が悪く、生きている中では愛しあえなかった母と結ばれていることが、涙が出るほど嬉しいのだ。

母も悩んで生きていた。世の中につまはじきにされて、病んだ時期もあった。その苦しみが当時子供だった私には何もわからずに、病に伏す母を許せなかった。本当は誰も悪くないのに、母を攻め、運命を攻め、未成熟な自分を責めていた。

 

今私の人生にとって大切なことは3つ。

一つは、母を愛する夢を大切に、その世界に思い切り浸ること

一つは、孤独の寂しさを耐え抜けるように、自分の心の中に太陽を灯すこと

一つは、結果がどうであれ、やってみたいことに勇気を出して挑んでみること

 

世の中には、私と同じようにいい年をしながら、自分に全く自信を持てない人が大勢いる。だからこそ、そうした人たちと手を繋いで、この人生を投げ出さずに歩き抜きたい。

 

そう、私の人生課題の一つは、この人生を投げ出さずに歩き抜くこと。

絶望に投げ出したくなることがあるけれど、だけど、転んでも転んでも。きっと絶望に耐えていけば、きっと希望に心が照らされる日もある。

私は、世の中を嫌っていたけれど、世の中を好きになりたい。振られても振られても、好きな人を嫌いにならないでいる力のように。ストーカーのように自分のために人を愛するのではなく、愛することを生きること。


今日の日を、生きるんだ。今日の日を生き抜く。

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