はかなき寄辺をはなれて〜大辻隆弘『景徳鎮』書評

 前歌集『汀暮抄』から五年、大辻隆弘の第八歌集『景徳鎮』が刊行された。一見平明にも思える歌のかずかずをよく見てみれば確かな技巧が幾重にも重ねられており、深みを増した文体とともに独自の境地へ辿り着こうとしているようである。
 五十代後半の茂吉について思いを巡らせたり、その茂吉の本歌取りをしたりと、どこか自身の年齢を意識している印象のある本歌集であるが、背景としてやはり死を前にした父の姿があるだろう。この一冊には生を終えようとしている父との日々があり、父の死を経て、父亡きあとの生活が描かれている。
  粘着ける入歯を外しやりたれば頬(ほ)のゆるぶまで病み呆けにけり(P66)
  壇上に写されてゐしわが面(つら)の老い弛(ゆる)びたる頬に驚く(P133)
 死ぬ間際の父に向き合って老いてゆくさまをつぶさに見つめていたその視線が、人生の折り返し地点を過ぎた自分の、それまで気づかずにいた老いを発見していることに気づく。
  稀勢の里の取組ももう見なくなり北窓の部屋に父はまどろむ(P62)
  平らかになりにし父の胸に射すきのふ雨水(うすい)を過ぎたる陽ざし(P92)
 老いさらばえた姿を晒しながら、父は一歩また一歩と死に近づいてゆく。そしてそれを見つめる大辻は、時おり父との過去への往還をしながらも感情を露わにすることはせず、萎えた脚が辿るその歩みをただ見つめ続ける。
  静かなる父の寝息を聞いてをり吾は少年の心となりて(P96)
  文庫版『水廊』のなかにひしひしと壮年の身を叩く父立つ(P101)
 やがて父は亡くなり、大辻は元の日常へと戻ってゆく。そんな中、喪ってもなお、いや、喪ってこそ立ち現れる父の姿は、それまでに歌われてきた姿よりも幾分やさしい。人は、亡くなることによってようやくその人を懐かしい気持ちで思い出すことができるようになるのかもしれない。
  薄寒く暮れゆく梅の花みえて父ならきつと好きさうな窓(P183)
  東京に来て逢ふ秋の寒き雨父に苦しき恋はありしか(P163)
 父に纏わる歌に注目してここまで書いてきたが、集中には日々の生活に寄り添うように流れる川や、父の好きだった梅をはじめとする花や樹の美しい歌、そして右に挙げたような相聞歌も見受けられる。作者のもつ技法を信頼し、安心してその調べに心を預けることができる。歌集を読む上でこれ以上の幸福はあるだろうか。
  曇り日のみづぎはに立つ朴の木のほの白かりし幹の反照(P14)
  橋脚ははかなき寄辺(よるべ)ひたひたと河口をのぼる夕べの水の(P187)
  火が燠となりゆくまでを見てをりぬ晩(おそ)く知りたるひとを思ひて(P162)
 父の背を見送ったこれよりあとの日々、大辻の眼前にはいったいどのような光景が広がるのか。それは次の歌集で明らかになることだろう。
  夏の川みづ行くことも寂しくてやがて一人に還らむこころ(P198)

初出/未来2017年8月号

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