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”なんとなく”のススメ vol.1

今日は立春。

だんなさんが作ってくれる朝ごはん。
ゆでたまごをリクエストした。

小笠原孝次著『言霊開眼』によると
立春の朝餉の中央に卵を立て、お神酒を供える慣わしがあるらしく、
年に一度、年の初めの真似事をしてみたくて。

立春は日本の神代暦の一月一日である。元日の「一」は物の初めの「一」である。鶏卵は大きな単細胞であって、鶏卵を斎くことは宇宙の「一」を祭る行事である。鶏卵は初めの「一」であって、宇宙そのものの始原の姿である。

小笠原孝次著 七沢賢治監修『言霊開眼(新装版)』(和器出版)

宇宙そのものの始原の姿
宇宙の「一」を祭る。
しびれる✨

そのあとこの本では、言霊(ゲンレイ)において、黄身とは、白身とは、胚子とは、、、と繋がっていく。

黄身。

3年前、白川鳳胤(たかつぐ)先生の「ヤマトコトバ講座」でヤマトコトバに触れた。

※これは私のnoteなので
 白川先生の話を聞いて、
 私なりに咀嚼して感じてることを
 ワタシ発で書いていくけれど、
 ぜひみなさんには白川先生から
 直でヤマトコトバに触れてもらいたい。

漢字が入ってくる前、私たちが発していた「音」。
きっとわたしたちは
コトバとしてではなく
その音の"響き"を共有していた。
漢字が入ってきて使っていくなかで
「この漢字の意味するところって、わたしらが使ってたこの音のことだよね?」
っていうことで使われたのが漢字の"訓読み"なんじゃないかと私は思ってる。

ヤマトコトバで
キとは、兆しのキ
ミという音は、実・身という漢字に当てられていることでもわかるように、「カタチ現れるもの」
キミとは、キからミに至るイ行相(キシチニヒ)を通り(くわしくはまた今度)無から生まれた有が実態化固体化していく過程。

キミを訓読みに持つ「君」「黄身」。

『言霊開眼』で引用されていた日本書紀の一文

「古に天地未だ剖れず、陰陽わかれざりしとき、混沌れたること鶏子の如くして、溟涬にして牙を含めり」

いにしえにあめつちいまだわかれず、めをわかれざりしとき、まろかれたること とりのこのごとくして ほのかにしてきざしをふふめり

(日本書紀 巻第一、神代上、天地開闢)


ふと、見てみたくなった今私の居るこの場所の景色。
なんだか狭く感じる。

観光客が何組かやってきて
写真を撮ったり、雪玉ぶつけあったりして帰っていく。
中国からきた親子もいた。

 それぞれ、ひとりひとり、
 自分の宇宙を生きてる。
 例え親子であっても
 自分の顔は鏡に映さなければ見られない
 世界を生きている。

そんなことを考えていた。

そして感じたのだ。

 キミ

混沌 宇宙が生まれる前 身となる兆し

キミとは、すべての始まりの初動。

立春に卵を立て
自分が今いる此処を眺めて感じた
私の"なんとなく"。

すべてのはじまりの兆しからカタチとして現れた身
卵を立てるということは、
一宇宙に一人、凛として立つということ。

そこから始まっている ということ。

ひとり一宇宙。
私のマルチバース論をこの立春を機に
ここに書き散らしていこうと決めた。
だれが何と言おうと、ここは私の宇宙なのだ。

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