中編小説:あたし、朔!

旧タイトル「姉は絶対に猫に戻さねばならない」。色々事情あってタイトルを変えていましたが、元に戻しました。
※結構長いです。文庫本1冊分くらいあります。
 お時間のあるときにどうぞ。

なお、手づくり製本の「紙版は」、Stores.jpで販売中です。
表紙だけでも見ることが出来ますので、良かったらアクセスしてみてください。
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               ……

 ビシャーンバリバリ!

 深夜、俺は雷で目が覚めた、いや、俺に雷が落ちた?死ぬ?その瞬間に考えたことは、愛猫の朔。毎晩俺の左腕を枕にして眠る十四歳の白三毛猫。朔!朔が居ない!雷のせいか?俺はまばゆいばかりの光に包まれている。光?それもどうでもいい、朔!どこへ行った!

 ドッスン!

 左腕に何かが落ちてきた。朔?いや重い。朔じゃない、ってぇ、人間?髪が長い。甘い匂い。女子?近頃は匂いを嗅ぐだけで痴漢になるらしいぞ?いやそんなこたぁどうでもいい、この子、誰?同級生くらい?女子の腕枕なんて生まれて初めて。本来なら喜べるシチュエーションだろうが、大切な朔がいないことが心配でならない。朔!朔!どこへ行った?そして女子!お前は誰だ?

 ……

 高一の春休み、俺は「一人旅」に出た。
 といってもたいそうなものじゃない。
 夜行バスに乗って、島根県の雲州大社に向かった。
 神奈川県湯河原町から、一人で雲州大社にお参りに行く高校生というのは珍しいかもしれない。本音を言うと、遠くならどこでも良かったが、北海道とか九州は遠すぎて旅費が足りない。
 まあそれに何だ、何の用事もなく旅行に出るのは後ろめたい気持ちがしたので、島根県出雲市にある『雲州大社』に参拝するという、いかにも立派な名目を立てた。何しろ日本でも有数の立派な神社だ。そこにお参りに行くことが悪かろうはずがない。山陰方面への夜行バスの終点の一つが、たまたま『雲州大社前』に設定されていたということもある。俺は夜行バスは初めてで、色々不安もあった。だが、不安の一つ「寝過ごし」については、終点まで乗るなら消滅する。
 で、雲州大社。大きな神社だ。とにかく広い。鳥居をくぐって拝殿まで結構な距離があった。ちょっとした森林浴だ。俺は夜行バスで凝った背中を伸ばしながら、参道をのんびりと歩いた。拝殿というのは、お参りをするところ。銅板葺きの屋根から下がる米俵のようなしめ縄。巫女さんが三宝を持ってしずしずと歩いていた。
 それから雲州大社の境内を一回りしてみた。神さびた静かな境内。悪くない。住宅街に住む俺にとっては非日常。その途中で俺は、ちょっとした発見をした。境内の草むらに勾玉が落ちていた。それは太陽の反射でつるりと光っていた。プラスチックだろうか?あまり高い品物には見えなかった。出雲には勾玉にまつわる伝説が色々あることは、ネットで検索して知っていた。拾い上げてみると意外に重い。ガラスかもしれない。半透明の、くすんだ緑色。「雲州大社の境内で見つけた」というのは縁起が良さそうに思えた。緑色というのも気に入った。俺は緑色が好きなのだ。拾得物横領って罪名が一瞬脳裏を掠めたが、こんなおもちゃ、草むしりの際に見つけられてもゴミとして捨てられてしまうだろう、という訳で、俺は「善意のゴミ拾い」をした。拾った勾玉は「お守り」代わりに、ズボンのポケットに入れておくことにした。
 それから宝物殿にも入ってみた。クラシックな資料が並んでいるだけで、面白いというほどではなかった。
 帰りの夜行バスも雲州大社前からの発車だったが、神社で一日過ごすのも退屈なので、一畑電車という私鉄に乗って松江の町まで出た。
 駅に行く途中で気づいたのだが、このあたりでは勾玉は結構な人気商品(お土産)らしい。あちこちで売っていた。一個数百円。なるほど。これを買って落とした人がいたのだろう。気の毒なことではあるが、人生がひっくり返るというほどのダメージでもないだろう。
 松江の街に着いた俺は、歩いて街を一回りしてみた。それなりに楽しかった。コンビニはあるし郵便局もあるし牛丼屋もあるし、湯河原と大して違わないような気もしたが、銀行は「山陰合同銀行」というごっつい名前だったし、クラシックな日本的街並みも少し残っていた。

 ……

 旅行から帰宅して最初にやったことは「朔ちゃんお面かぶり」。
 仰向けに寝転んで朔を持ち上げ、そのおなかを顔に乗せる。これが「朔ちゃんお面かぶり」。うーん、気持ちいい。むくむくのふわふわ。でも呼吸は出来ない。ほんのちょっとの幸せタイム。
 朔を開放すると、朔は迷惑そうな顔をしながら部屋の隅に行って、毛繕いを始めた。
 毛繕いの前に、ちらりと僕のことを鋭い目で見たような気がした。旅行でまる一日会えなかったことがご不満だったのかもしれない。

 その夜。俺はいつも朔と一緒にベッドに入った。朔は俺の布団に入り、顔だけ出して俺の腕枕で寝る。左腕がちょっと重いけれど、その重みが、生きているっていう実感のような気がして、ある種の心地よさにもなっているのだが……

 そして深夜、俺をたたき起こした異常事態が、雷?もの凄い光の中に俺は居た。
 次に来たのが、左腕の女子。

「んあー」

 女子は眠りながら声を挙げた。雷は止み、光は収束していた。でも机の上が明るい。勾玉?雲州大社で拾ってきた勾玉がほんのりと光っている。
 女子は白三毛模様のパジャマを着ている。白三毛?朔と同じ?ちょっと「ぽ」。太め。胸が大きい。さ、触っていいかな?つ、つ、つつつつつん……

「シャアアアア!」
「す、すみません!」

 俺は慌てて女子から離れて、ベッドの上に正座した。
 女子は面倒くさそうに起き上がるとベッドの上であぐらをかいた。

「あの……君、誰?」
「あたし、朔!」
「朔?」
「君が拾ってきたマガティで、人間に転換出来たわ!ありがとね!」
「は?」

 女子が猫と同じ「朔」を名乗った。

「朔とお前と、どういう関係だ?なぜ朔を知っている?」
「だからぁ、あたしが朔」
「朔は猫だ」
「ちがう、猫人間」
「ネコニンゲン?」
「あたし、朔!さっきまで猫やってた」
「猫やってた?」

 そうだ。
 俺には一つの考えが浮かんだ。こいつが朔だというなら……

「おい、お前、黙って俺の目を見ろ」
「いや〜ん!コクるぅ?ベッドの上で?きゃー恥ずかしいわぁ!どぉしよう」
「訳の分からんこと言うな。瞳を見せろというんだ」
「……」
「……」
「……何か言ったらどうなのよ」

 困った。こいつが朔であるという証拠を一つ見つけてしまった。
 猫の朔は、左目が青、右目が薄茶色のオッドアイ(左右の瞳の色が違う)。
 猫には割とよくあることだが、人間、なかでも日本人のオッドアイというのは相当珍しい、というか、まず居ない。
 ところがこいつは、見事なオッドアイ、しかも、左が青で右が茶色だ。

「お前、その瞳の色について、自分で分かっているか?」
「知ってるよ。あたし結構気に入ってんのよ。かわいいでしょ?」
「かわいいとか自分で言うな。しかしそれを引き継いでいるということは、お前は……」
「朔よ」
「……わからん。なぜなんだ?」
「マガティ。君の拾ってきた勾玉よ」

 つまり朔が説明するところによれば、朔がなぜ女子になっているかというと、俺が拾ってきた雲州大社の勾玉が原因だという。

「ちょっとまて。あんなもの参道のお土産屋にいくらでも売ってる。お前の言うことが本当なら、雲州大社は女子だらけじゃないか」
「君、なに変な想像してんの?」
「変な想像って何だ?」
「雲州大社女子おしくらまんじゅう萌え大会」
「何の大会だよそれ。そういう話じゃなくてな、あんな勾玉、山ほど売ってるって話だ」
「だから君が拾ったのは、お土産物なんかじゃないってことよ」
「じゃあ何なんだ?」
「マガティ」
「伊豆のバナナワニ園で泳いでる奴か?小学校の遠足で見たぞ」
「それマナティ。そこにあるのは『マガティ』」

 俺は訳が分からなくなってきた。

「あのー、初歩的なことからおたずねしますが」
「何よ」
「君、誰?」
「朔」
「朔は猫だ」
「違う。猫人間」
「ネコニンゲンって、何?」
「私はもともと、ただの『猫』じゃない。猫人間。猫と人間の二つの性質を持っている。それが猫人間。今日、人間側の性質が目覚めて、人間に転換した。なぜだと思う?」
「知らねーよ」
「マガティよ」
「は?」
「さっきも言ったでしょ、勾玉。それがマガティ」
「この勾玉?」

 俺は机の上の勾玉を、もう一度目をこらして眺めてみた。
 春休みに雲州大社の参道で拾った緑色の勾玉。さっきは光っていたが、今は鈍い緑色をして、ちょこんと存在感を示している。轟音もない。大人しくしている。
 マガティ?

「さっきも言ったが、勾玉なんて土産物屋でいっぱい売ってた。雲州大社近辺にはお前みたいな奴が大勢居るのか?」
「君はホントに全然わかってない。君が拾ったのはそもそもお土産物なんかじゃない。雲州大社に古代から伝わるマガティよ」
「古代から伝わる勾玉なら宝物殿で見ような気がする」
「あれはダミー。本物がそれ」
「そんな馬鹿な話があるか。第一、それが本当だとしてなぜお前がそんなことを知っている」
「猫は何でも知っているのよ」
「何じゃ?そりゃ」

 マガティについて朔を名乗る女子は、さらに意味不明なことを言う。

「マガティは科学では説明の出来ない能力を秘めている。猫人間にはそれを引き出すセンスがある。それであたしは、猫から人間に転換した」
「転換?」
「猫と人間の性質を併せ持つ『猫人間』は、普通は一生を、猫の姿か人間の姿かのどちらかで過ごす」
「はあ?」
「やたら人間臭い猫とか、何となく猫っぽい人間っているでしょう?そういうのは猫人間」
「んなわけない」

 俺の否定を無視して朔は続ける。

「転換なんて普通は出来ない。けど、これが出来ると、猫モードの猫人間は人間モードに、人間モードの猫人間は猫モードに、それぞれ転換するのよ」
「なんでそんなことが出来るんだ?」
「超科学的な力のおかげ。他にも、超能力とか神様の奇跡とか、稀にあるでしょう?今回は私自身がマガティの能力を引き出した」
「ありまへん、そんなこと」
「君は非科学的なものを否定するタイプね。でも、あるのよ」
「ない。首をかけてもいい。そんなものは空想の産物だ」
「君はねぇ、夢も希望もなさすぎなのよ、とにかく話がややこしくなるから、今は『非科学的な事実』を受け入れなさい」

 しかし俺たちは、何て訳の分からない話をベッドの上でしてるんだろうな?
 俺は少し考えた。

「受け入れない。しかし話が進まないなら、とりあえず『保留』ということにしよう」
「それでもいいわ。で、そういう超科学的作用を使うと、猫人間の転換ができる。もちろんそんなチャンス滅多にない。ところが春休み、あろうことか君はマガティを拾ってきた」
「マガティってのがよくわからんが、勾玉を拾ったのは事実だ」
「あたしは驚いた。これがマガティなのね、と。これがあれば、あたしは人間に転換して、猫時代に出来なかったあんなこともこんなことも出来る。第一、寿命が延びる。猫は飼い猫でも十五年くらいしか生きられない。でも人間なら八十歳くらいまで生きられそう」
「そんなに長生きしたいか?老人みたいだな、お前」
「マジ老猫だったのよ。猫の十四歳って、人間の七十二歳相当なんだから」
「七十二歳?お前、高校生の姿をした老婆ってことか?」
「逆ね。ふふ。まんま十四歳なのよ。人間の十四歳っていいねー、体軽い!」

 十四歳にしては大人っぽく見える。体格が幸いしているのだろう。

「十四歳ってことは中学生か?」
「マガティ使って公文書を操作した。あたし書類上は十六歳」
「お前な、いくら非科学的手段とはいっても、それ犯罪だろう。それになぜ十六歳にこだわる?」
「妹の方が良かった?妹萌え?」
「訳のわからんこと言うな」
「本当はね、豆ちゃんと双子になりたかったから。双子のお姉さんってことで。だから君はあたしの命令には絶対服従」
「あのな姉弟ってそういう関係じゃないだろう?」
「ふふっ、本当はね、人間のことってよくわかんないことが多いから、なるべく一緒に居てもらって、色々聞こうと思って。電車の乗り方とか、教えてね。あと学校とか」

 豆ちゃんというのは俺のこと。てゆーか、そのあだ名を知っていることもまた、こいつが朔である証明となるのか。

「そうだ学校、学校はどうするんだ?十六歳って、高校の編入試験受けるには、編入前の高校の学籍が必要で……」
「マガティ使った。あたしはあたしに関する個人史を徹底的に修正した。公文書から人々の記憶まで。それがさっきの雷。学籍は豆ちゃんと同じ湯河原南高校に入れといた」
「雷?方法が何であろうと、それ、不正入学じゃないか」
「まあね〜」

 うーん……

「百歩というか一万歩というか、地球から月くらいまで譲って、お前が朔だとしよう、で、朔は人間になったと。それなら、ついでに教えてくれ、『普通の人間』と『人間に転換した猫人間』というのは、何か違うのか?」
「マガティの能力が引き出せる。あくまで『猫人間』だから。それで出来ることは、猫人間の転換のほかには、個人史の修正とか小物の移動とか、まあそんなとこかな。たいしたことは出来ないよ。でも『個人史の修正』ってのは使いよう。手間はかかるけど、豆ちゃんをやんわりと地上から消去しちゃうなんてことも可能だったりする」

 とんでもない奴が現れてしまった。
 こいつが朔なら、朔は猫に戻すべきではないか?
 しかし、そのためには一体どうしたらいいのだろう?
 朔が続ける。

「マガティの能力を引き出せるのは猫人間だけじゃない。勘の強い動物はマガティに気づいて利用する可能性がある。日頃から動物には愛情をね。でないと怖いよ」
「怯えながら愛情なんかもてるかよ」
「あと猫人間はねえ、尻尾がある。みんな隠しているから分からない」
「尻尾ねえ、それままあ、どうでもいいような気がするな」
「あとね、転換はあたしだけじゃないのよ」
「だけじゃない?」

 話が変な方向に発展しつつある?

「あたしの知ってるだけでも、猫モードの猫人間はこの近くにもう一匹いた」
「もしかして、それって隣の中嶌家で飼っている……」
「そ。『ちびる』よ」
「あれも猫人間?」
「そーよ。だって猫人間友達、折角なら一緒に人間になりたいじゃん?」
「勝手に決めるな!」

 うちと中嶌家とは隣同士だ。マガティのパワーとやらが届いてもおかしくなさそう。
 しかし、あれ、ちょっとまてよ?

「あのさ、中嶌家には子供がいるよな、俺と同じクラスに入っている、なっちゃん」
「知ってるよ、喋れない子でしょう?」
「お前猫だったんだから喋れなくても関係ないだろう。でもそれは事実だ。なっちゃんは生まれつき障害があって、耳は聴こえるし頭もいいけど、喋ることが出来ない。そのなっちゃんの他に、もう一人子供ができちゃったってこと?」
「中嶌家の事情はねえ、まあ詳しく説明すると面倒くさいんだけど」
「まさかとは思うけど『ちびる』を双子にとか、して……」
「したわよ。面倒くさいじゃん、学年とか違うと。みんな一緒に居た方が何かと便利そうだし」
「ヤヴァくないか?瞬時にして双子が二組って。お前、世間の情報ネットワークに何をした?」
「まあちょっとね。マガティって楽しいな!」
「楽しくない!」

 こいつは一体どれほどの情報を改竄したんだ?簡単そうに言うけど、事実としては凄いことやってる。とてつもない悪者かもしれない。悪者ならせめて猫で居てくれ。猫のする「悪いこと」なんてたかが知れている。こいつはやっぱり「猫」に戻すべきだろう。

 ……

 とりあえずその夜は、朔と寝た。寝たといっても誤解しないで欲しい。純粋に「睡眠を取った」という意味だ。というのも、ちょっと嘘。眠れたもんじゃない。人間に転換した朔は、思いのほか美少女だ。そして、形の良いふくよかな胸。こんな女子が隣にいて「眠れる訳がありません」。ある意味拷問。勘弁してくれ、朔、猫に戻ってくれ……

 全然爽やかでない朝、朔は開口一番、おはようの挨拶もなしに言い放った。

「ねえ肉!肉!」
「朝から肉か?うちの朝飯は和食だ。でもそこまで言うなら今度、学校の帰りモックに寄ろう」
「うわぁい!入ってみたかったんだ、ハンバーガーショップ」
「あー、確かに猫は入れないな」
「あたし、クオーターポウンダー食べたい、だって、肉じゃん」
「猫って本当に肉食なんだな」
「それとコーヒー」
「ちょっとまて、猫にコーヒーは禁忌じゃないか。コーヒーは猫の赤血球を壊して死に至らしめる」
「まあ、猫の体ならそうなるね、でも今の私は人間化しちゃってるから」
「そういうものなのか?」
「豆ちゃんいっつも、家で美味しそうにコーヒー飲んでるじゃん」
「コーヒーは好きだよ」
「いい香りだなー、あたしも飲んでみたいなー、って、ずっと思ってた」
「OK」

 いつか猫に戻さねばと思いつつ「人間・朔」を、なし崩し的に受け入れつつある自分が怖い。
 と思ったところで、この女子、母ちゃんにどう言って紹介したらいいのだろう?
 考えてみたけれど案が浮かばない。もういい。正直に話そう。
 俺は二階から朔を連れて階段を降り、キッチンでコーヒーを飲みながら食パンを囓っている母ちゃんに言った。

 「おはよう。朔が人間になった」
 「あ、そう。かわいいじゃない。学校は?」

 母ちゃん、出勤前で忙しいのは分かるけど、そんなに簡単に受け入れるなよ……

 「何でも勾玉の力で学籍を作ったそうで」
 「じゃ、始業式から二人で学校ね」

 てぇ!母ちゃん、それだけですかい!

 ……

 その夜は特に何も起きなかった。マガティは光らない。異常なことは何もない。
 だが、朔が「いつものように」素早くベッドに潜り込んでしまった。いつものように。それが問題。朔はもう猫じゃない。

「豆ちゃあん。猫の時みたいに一緒に寝ようよぉ。あたし豆ちゃんのぷにぷにした二の腕がないと眠れない」
「ぷにぷに言うな!あと、いくら姉弟でもそりゃ色々な意味でヤヴァ過ぎる!」

 俺は昨日で懲りた。見目美しく、ふくよかな朔。繰り返すが、十五歳の男子として、そんな女子と一緒に「眠れる訳がありません」。

「ねぇねぇ!あたし全然OKだからさぁ」
「何がOKなんだ、てゆーかそれ説明しないでぇ。暴走しそう」
「暴走してもいいのよぉ。だってあたしたち双子じゃん」
「あのな双子だったらなおさらヤヴァいだろう」
「猫にはよくあることよ」
「俺は猫じゃない!」
「そんなカタいこと言わないでぇ」

 俺は押し入れからキャンプ用のシュラフを引っ張り出した。
 ベッドの件はあきらめる。まあ畳の上だ。キャンプ場よりは寝心地がよい。

「もぉ。無理しなくていいのよぉ」

 せめてうちにもう一部屋あればなあ、と思うが、我が家の経済事情は厳しい。母ちゃんがお土産物屋の経理に働きに出ていているが、あまり給料は良くない。父ちゃんは鬱病。病身を押して自宅で内職的な仕事をしているが、微々たる収入にしかならない。ペット可築五十年の古家を借りているが、俺の部屋と父ちゃんの仕事場とキッチンと寝室で部屋は使い切っている。これでも家賃の支払いはキツい。精一杯。

 ……

 始業式の日、朔はちびると共に平然と「転校生」という名目でクラスにやってきた。ちびるはともかく朔の注目度は高い。クラスの男子の目は朔のオッドアイと胸に釘付け。そして俺と双子というのが、やんわりと嫉妬の対象になっている、ような気がする。いやだなー、男の嫉妬。

 始業式の翌日。湯河原南高は進学校なので授業のスタートが早い。シュラフ睡眠にも少しは慣れてきた朝。今日から午後も授業。俺は台所に行って弁当を作り始めた。うちは母ちゃんが仕事で忙しいので俺が自分で弁当を作る。今日のおかずは、ストックしてあった椎茸と人参の煮付けに、昨日の残りの角煮。サツマイモの煮物も。念のためレンジで温めて、それから、弁当箱の中で傷まないように冷ます。あとミニトマト。朔の分も作らなきゃいけないな。おかずは同じでいいだろう、てゆーか、同じでしか作れないよ、おかずのストックがない。
 いつもギリギリに起きてくる母ちゃんのためにコーヒーメーカーをセットしていると、朔が起きて来た。

「あ、お弁当作ってくれたんだ、ありがと〜」
「ありがと〜じゃない、たまにでいいからお前も作ってくれ」
「気が向いたらね〜」
「そういう気まぐれなところは猫そのものだな」
「猫じゃないもん猫人間だもん」
「もうまたそういう訳の分からない……早く顔洗ってこい、朝飯食って学校行くぞ」
「あいあ〜い」

 なんだか、俺が朔の母ちゃんになったみたいな気分だ。

 今朝は良い天気。俺たちは二人揃って家を出た。
 しかし、双子姉弟で登校って、何だろうな?しかも実に嘘くさい双子だ。中学の同級生に双子の男子が居たけれど、顔、声、体つき、どこをとっても本当に区別がつかないくらいそっくりだった。俺たち、顔も声も全然違うじゃないか。なぜか身長だけは同じくらい。俺は一六六センチ。朔は女の子としては大柄ということになる。もともと猫時代から、体の大きな猫だった。しかし……

「朔、お前、痩せたような気がするんだが?」
「ふふっ!わかるぅ?」
「何となくというか」
「ひ・み・つ」
「何?何?教えて!」
「てゆーか、本当は女の子にそんなこと聞いちゃダメなんだからね」
「え?そういう話?」
「サラシ巻いたの、お腹に」
「サラシって、あの、日本手拭いのこと?」
「そだよ。魔法少女のコルセット思い出して、ちょっと締めてみた」
「お前、覚えてるのか?あのアニメ」

 猫の朔は、俺がアニメを見ていると、膝の上に乗ってきて一緒に見ていることがあった。
 その「内容を理解して見ていた」とすれば、それも「猫人間」の証しとなるのだろうか?

「……しかしコルセットとサラシはだいぶ違うと思うが」
「昨日お母さんに相談したらサラシ貸してくれた。コルセットは持ってないって」
「締め付けてるのか」
「まあね。女の子はこうして毎日頑張って『カワイイ』と『モテ』を追求するのよ。君も少しは努力しなさい」
「大丈夫か?気持ち悪くならないか?」
「そこまで強く締めないよ。ダイエット成功したらやめる」
「おはよー」
(こくっ)

 隣の中嶌家から出て来た二人。栗色の髪をツインテールにしているのが、なっちゃん。なっちゃんは背が高いけれど細身で、顔立ちは幼く見える。くりっとした目が可愛らしい。
 そして、その後ろからついてくる、地味な栗色短髪の小柄男子。ちびるだ。猫モードの時からそうだったけれど、小柄だ。なっちゃんより背が低い。でも筋肉質。浅黒い。ちびるは黒猫だった。こいつも『転換』なのか。しかしだなー、なんちゅうか、またまた嘘くさい双子だな、本当に大丈夫なんだろうか?朔の言う「個人史の修正」とかいうのは。
 僕たちは揃って学校に向かう。
 朔がちびるをからかう。

「ちびる、去勢してたよね、玉、あるの?」
「人間に転換したら戻って来たよ!」

 朝からいきなりそういう話ですかい?爽やかですなあ。
 なっちゃんは首を傾げ、頭の上から「?」を大量に連発している。なっちゃんはもともと女の一人っ子だったから、知らなくても無理はない。去勢手術とかは親が手配を済ませたのだろう。
 と、その時、一匹の犬がちびるに吠え始めた。灰色のシーズー。中年の女性がそのシーズーを連れて散歩をしているところだったが、犬はともかく、飼い主の女性も怪訝そうな顔をしている。そりゃそうだろう。俺たちの会話はへんちくりんなものだから。
 飼い主が慌てて謝る。

「チクワちゃん!だめでしょ!よその人に吠えないで!すみませんね、本当にもう……」

 すみませんといいつつ、本気で謝っている雰囲気が感じられないのは気のせいではないだろう。
 ちくわちゃんと呼ばれたシーズーは、うす汚れていて不機嫌そうだった。虫の居所が悪くて、誰でもいいから吠えたかったのかもしれない。
 ちくわちゃんは吠えに吠え続けたが、飼い主に引っ張られて無理矢理俺たちから離されて行った。
 俺たちは俺たちの会話に戻る。

「それより、あのぉ、ちびるって名前、やめてくれないかい?僕の本当の名前は」

 朔が切り返す。

「子猫の時、あたしに追い詰められて物置でおしっこちびったから、ちびる」
「ちびる」
(こくっ)
「ちびる」
「自分で認めた人がいます。満場一致で『ちびる』に決定」
「しかし何だ?その太いズボンは。一九八〇年代か?」
「尻尾を隠してるんだ」
「そういえばお前の尻尾は長かったな」
「これなら尻尾が隠せるって訳さ」
「なるほど」

 朔が言う。

「それよりちびる、君を同じ二年C組にしといたのはあたしのおかげなのよ。個人史の修正は手抜かりなくね」
「あ、あー、そうなんだ、助かるよ」
「しかしなあ朔、あと、ちびる、お前たち本当に学校に通うのか?そんなに魅力的か?学校って」
「行くよ!だって行ってみたいじゃん、お弁当食べたり、自動販売機のジュース飲んだり」
「学校のメインは飲食じゃないぞ、授業だぞ」
「あたし大学行きたいなあ」
「進学希望か?」
「生物学勉強して、獣医になりたい」
「確かにお前は獣医さんにはご恩がある」

 朔は二歳の時にひどい猫風邪を引いて、それで死にかけたことがあった。

「そうよ。あの時、プリモ先生に助けて貰えなかったら、あたし死んでた。それでお医者さんて凄いなと思った。あたしも獣医になって、たくさんの動物の命を救うんだ。あと、儲かる獣医になって親孝行したい」
「野口英世みたいな発想だな」
「百年後、千円札の肖像はあたしよ」
「それは無理だろう」

 カプッ!

「鼻を噛むな!お前、牙が猫のままじゃないか!ドメスティックバイオレンス」
(ぷっ)
「なっちゃん、笑うな。マジ痛い。それと人間になった『ちびる』、お前は何になりたいんだ?」
「えーと、ラーメン屋さん」
「は?」
「ラーメン屋『にこり』で、こってり美味しい脂身もらってたんだ。チャーシューの端っこ」

 お前、猫時代に『にこり』の裏口に度々座り込んでいるとは思っていたが、そんなもの貰っていたのか。朔も呆れる。

「あのねえ、あんな分厚い自家製チャーシュー出すラーメン屋なんて滅多にないんだよ。それに、それはお客さんに出すモノだよ、君が食べてどーすんの」
「わかってるよ、だから修行して自分のお店を持つ。そしてしっかり味見をする。でも……」
「でも?」
「将来のことなんて、わかんないよね。僕たちがいつまでこうして人間の姿で居られるのかも、本当のところよくわかんない」
「珍しくまともなことを言ったわね……確かにそうね……」

 朔の顔色が少し曇った。
 俺は、正直言って微妙。ちびるはともかく、朔は刺激が強過ぎる。猫に戻ってもらった方が心穏やかに過ごせる。

   ……

 一時間目の数学が終わって、休み時間。朔は言い放った。

「授業ってこんなもんなの?」
「え?こんなものといいますと?」

 朔の感想は「笑っちゃうくらい簡単」という。

「あのね、授業中ヒマだったから教科書先読みしてたんだけど、こんなの、公式さえ覚えちゃえば簡単なんだよ」
「へ?そういうもの?」
「公式覚えて、あとはその変形、変形で、何とかなっちゃうのよ。高校の数学なんてそんなものよ」

 もともと賢い猫だとは思っていたが、朔がそんなに頭いいとは知らなかった。本当に獣医さんになれるかもな。

「早くお弁当食べたいなあ」

 俺の作った残り物弁当だけどな。
 だが食後に異変が訪れた。五時間目は体育。

「うー、おなかいたい」
「保健室行くか?」
「てゆーか、体育のたびにおなか痛くなるって、ダメかな?」
「サボりたいのか?」
「実は……尻尾が」
「尻尾?そういえばそんなこと言ってたな。短いカギ尻尾?」
「見たい?」
「見たいな」
「スケベ」
「スケベと言われると『エッチ』と言われるより傷つくのは俺だけでしょうか?」
「くだらない質問してないで、君も何か考えてよ!」
「マガティの能力で、一時的に消せないのか?」
「消せない。尻尾は猫人間にとって、エネルギーの貯蔵場所なのよ」
「猫人間のエネルギーって、おならみたいなもんなんでしょうか?」
「ふざけないで!あたし深刻なんだから」
「そうだな……くるんと巻いて股間に隠すとか出来ないのかな?」
「やだ格好悪い、女の子の股間が膨らんでるって勘弁して」
「じゃあなるべく平べったく広げて、お尻が少し大きくに見えるくらいにするほかなかろう」
「それも格好悪い、やりたくないなあ……」

 本当に気のすすまない顔をして、朔は更衣室に向かっていった。
 だが、朔が体育を嫌がる本当の理由は尻尾ではなかった。
 朔は頭はいいが、運動音痴なのだ。体育館内で女子の授業をチラ見して分かった。
 まず長時間走れない。息が切れる。持久力がない。毎日ごろごろして暮らして来たからだ。バレーボールはボールがホームラン。反射神経も鈍いらしい。
 ちびるは運動神経がいい。背が低い割にジャンプ力があって、バスケでチームにかなり貢献していた。長い尻尾は丸めて隠している。あいつは確かに猫の時から、外に出ては、よく虫や鳥を捕まえていたからな。最大の獲物は鳩だった。
 ちなみに、なっちゃんは至って普通だ。運動能力に何ら問題なさげ。どうして喋れないなんて運命を背負ってしまったんだろうな、気の毒だとは思う。
 体育の後、朔が落ち込む。

「うー、あたしの優等生キャラ崩れちゃう」
「そんなに気にするなよ、誰だって苦手科目の一つくらいあるもんだ」
「猫はもともと、長距離走やバレーボールなんて向いてないんだよ」
「ここでまたなぜ猫に戻る」
「ところでなっちゃんの、あれ、気づいた?」
「は?なっちゃんて運動は普通じゃないか?」
「そうじゃないわよ!あれ、っていうか、あのさ、てめぇ!女子に何言わせんだ!」

 カプっ!

「痛いやめろ鼻噛むな!おい俺まだ何も聞いてないぞ!一人で興奮するな!なっちゃんの『あれ』って何だ?」
「本当に何も気づかなかった?背中とか」
「背中?胸は小さいと思ったけれ」

 カプっ!

「このスケベ!もういい!知らないならそれでいいんだから!」
「怒るな、てゆーか、なっちゃんの『あれ』って何だよ教えれ」
「スケベには教えない!」

 俺には朔が何を怒っているのかさっぱりわからない。「なっちゃんの『あれ』」?

   ……

「豆ちゃん、昨日モック行かなかったよね」
「あ、ああ、覚えていたか」
「覚えてるわよ」

 小遣い節約のため、うやむやに誤摩化そうと思っていた。だが甘かったようだ。まあ仕方ない。いつかは行かねば朔は納得するまい。

「僕も一緒に行っていい?」
「ちびるも来るか?」
「僕はチョコレートサンデーがいいな。なっちゃんも来るって」
(こくっ)
「ちびる、本当に脂肪分が好きだな、それに猫にチョコは禁忌だったな」
「うん、今なら食べられるはず、食べてみたいんだ」
「いいだろう」

 放課後。
 四人でハンバーガーショップに入る。

「いらっしゃいませ」
「じゃあ、まず、ホットコーヒーのL。それから、クォーターポウンダーと、ビックモックとテリヤキツインスペシャルと」
「ちょっと待て、誰の夕食だ?それ」
「うるさいね、まだ注文終わってないよ、それから魚もいいねフィレアフィッシュ」
「マジすか?」
「甘いものも欲しいな、スイートアップルパイ。あとポテトの2L。支払いは弟がします」
「し、支払いって、なんか涙でそうなんですけど」

 朔は振り向いて小声で言う。

「だってここで『銀スプ』とか売ってないでしょう?」

 九八円の猫用缶詰『銀スプ』で済んでいた猫時代が恋しい。

「あ、あと、じゃあ俺はチーズハンバーガーとコーヒーのSで、おいくらでしょうか?」

 店員さんの返答に、マジ泣きしそうになる。俺の一ヶ月分の生活費が……。
 ちびるは予告通りチョコレートサンデーを頼んだ。
 なっちゃんはメニューの中のスムージーを指さした。

 カウンターから山盛りのオーダーを持ってテーブル席に着く。朔はまず、クオーターポウンダーを二口で飲み込んだ。続いてビックモック。テリヤキツインスペシャル。次々と朔の胃の中へと吸い込まれていく。

「うまっ!やっぱ肉って最高よね」
「他人の財布で食べる肉はさぞうまかろう」

 フィレアフィッシュをわしづかみにすると、これも二口で食べる朔。

「あぁ、魚もいいわぁ。他人じゃないでしょ、双子よ双子。あと、あたしお小遣いまだ貰ってないし」
「それこそマガティで何とかしろよ」
「あたしはATMじゃないんだよ」
「それ、俺のセリフ」

 ちびるが呆れ気味に言う。

「さっきから思ってたんだけどさ、二人って、仲いいね」

 ちびるがチョコレートサンデーを舐めながら、俺と朔を見て言う。
 なっちゃんは、ぺろぺろとスムージーを堪能している。

「まあ、ずっと一緒に暮らして来たというのはある」
「コーヒー苦っ!砂糖とミルクをドシドシドシ!」
「モックのプレミアムローストにもったいないことをするな」

 ちびるがさらに指摘する。

「豆ちゃん、美人のお姉さんが出来て嬉しそうだね」

 ちびるは俺をうらやんでいる。なっちゃんのような『可愛い』タイプより、朔みたいな『美人』タイプの方が好みらしい。

「いや、ちょっとまあ、そういう話ではないっていうか」
「うきうきしてるよ?」
「複雑というか」
「いやぁん、スイートアップルパイの甘みが炸裂するぅ」
「一人で美食に走ってる人が居るようです」
「豆ちゃん、朔ちゃんのこと好き?」
「コーヒーにミルクあと三個入れちゃおう!やっぱアブラよアブラ」
「いや、好きって、えー、一応朔は姉でして」
「なに難しい話してんのよ?あたしは豆ちゃん大好きよ!ほら!素肌!ナマおなか!」
「あ、何を」

 朔は俺の手首を掴むと、ブラウス下、ウエストに巻いたサラシのそのさらに内側に手を導いた。お、女の子の生おなか、柔らかい、神様、理性がとろけそうです……
 なっちゃんは目を丸くし、ちびるは真っ赤になって怒り出す。

「ちょっとちょっとちょっと!いい加減にしないと、」
「……そ、そうだ朔!だいたいお前みたいなデブなんか」
「なに?」

 朔が俺の手首を押し戻す。強く、放り出すように。

「で、で、で……」

 朔がみるみるうちに涙を溜め始めた。マズい。

「あ、いや、ちょっと『ぽ』入ってた方がいいかななんて」
「酷い、こうなったのも豆ちゃんが毎日美味しいごはんくれたからなのに」
「いや太めが好きかな、なんて」
「太めっ!あたしが一番気にしていることを……」
「ごめん、ごめんよぉ、口が滑ったというか、本気でそんなこと思って」
「思ってるんでしょ!酷いよ!誰がホイップおなかよ!誰がおへそが横線よ!」
「いやまだそんなこと言ってないですけど、」

 朔はいきなり立ち上がると、両手で顔を覆ったまま店を飛び出した。

「あ、ちょっと待て、ま、ままままま、あー!」

 そこは社会の動脈四車線道路、国道一三五号線。フルスピードで観光バスがやって来た。
 朔!
 ぎゅををををーーーーー!
 悲鳴を上げてバスが急ブレーキを踏んだ。

「熱ちぃ!」

 ポケットがチリっと熱くなった。マガティが反応?と同時に朔の姿が消えた。いや、消えたのではない、一瞬、小さな猫に戻ったような……
 バスが通過すると、道路に「人間の姿」の朔が倒れていた。傷一つ負っていない。どういうことだ?
 急停止したバスから血相を変えて運転手が降りて来た。

「だだだ大丈夫か?生きてるか?怪我してないか?」

 運転手はアロハシャツにサングラスという出で立ちで一瞬ビビったが、案外いい人のようだ。

「大丈夫です。気絶しているだけです」

 ちびるが断言した。ちびるは、いつの間にか店から出てきていた。
 なっちゃんは頭の上に両手で大きなマルを作っている。大丈夫よ、というサイン?

「いやー、おっかしいなあ、今の完全にやっちまったと思った」
「バスの床下をくぐりぬけて、どこも打っていないです、僕、見ていたから」
「床下?このバス、客席の下に荷物室があって、床が低いんだぞ?」
「大丈夫です」
「名刺渡しとく。後遺症とか出たら大変だから、何かあったら会社に連絡をくれ」
「ありがとうございます。かえってご心配おかけしてすみません」

 ちびる、なぜお前がこの場を代表しているのかわからない。でも、ちびるのしっかりとした口調から察するに、今はちびるを信じてよいような気がする。
 俺は朔を背負って道路を渡り、歩道に朔を降ろした。朔は気を失っているけれど、呼吸はしている。脈もある。

「ちびる、今のは一体、何だったんだ?お前マガティ使ったのか?」
「違うよ、ほら、あそこ」

 ちびるが指差した先、歩道の隅に一匹の猫が居た。

「クリ目!」

 灰色の縞模様に青い瞳。
 俺が普段「クリ目」と呼んでいる野良猫だった。

   ……

「まずは礼を言う。ありがとう。よく分からないけど、これはクリ目のおかげなんだね」
「お礼なんかいいニャ。危なかったニャ」
「君が一瞬の間だけ、朔を、猫に戻したっていう理解でいいのかな?」
「そうニャ。このくらいマガティ使えば何てことないニャ」
「お前もマガティが使えるのか?だいたいなぜお前、マガティを知っている?」
「いちいち質問が多いニャ、君は」
「すまん。何より朔を助けてくれたのは事実だ。何かお礼がしたい」
「また君の家に遊びに行った時に、カツオブシかニボシが貰えればいいニャ」
「クリ目、もし良かったら、うちの飼い猫にならないか?」

 クリ目は、時々うちにやってくる雄の野良猫だ。
 このあたりのボスらしく、野良の割には堂々とした体型をしている。

「お断りだニャ。野良猫にとって、自由を捨ててまで欲しいものなんか何もないニャ」
「それはそうとして、なぜ俺は今、君と会話が出来るんだ?こんなの初めてじゃないか?クリ目も猫人間なのか?」
「ただの猫だニャ。普通の人間は僕の言葉を聴き取ることは出来ないニャ」
「マガティのお陰なのか?」
「半分はそうニャ。だが残り半分は父ちゃんに感謝するニャ」
「父ちゃん?メンタルヘルス系の病気で在宅仕事を……」
「それは知ってるニャ。彼に『病気のトリガー』はあったのは事実ニャが、そもそもはある種の感受性について特別に敏感な脳を持っていたことが原因ニャ。まあ普通はそれを『体質』とか『遺伝』というだろうニャ。古代ならシャーマンになれたタイプだニャ」
「へえ、うちってそんな家系だったのか」
「親が病気だからといって必ずしもそれが遺伝するとは限らないニャ。ただ、君は運良く父ちゃんの『鋭い感受性』を引き継いでいて、マガティの刺激がトリガーになって猫と喋れるようになったニャ」
「俺って他の猫とも喋れるのかな?試したことないけど」
「それよりなっちゃんと喋ってみたかニャ?」
「は?なっちゃん、って人間じゃないか。ええと、子供の頃から障害で……」
「いいから何か喋ってみるニャ」
「あのー、初めまして、っていうのも変かな?俺だけど、分かるかな?」
「分かるわよ豆ちゃん。幼なじみじゃん。あたし、なつ。なっちゃんて呼んでね!ってゆーか、もう呼んでくれてるよね!」

 なっちゃんが喋っている!?

「なっちゃん、喋れるの?」
「クリ目さんと同じ理屈よ。マガティのお陰。あなたとは喋れるわ」
「クリ目、これはどういうことだ?」
「なっちゃんは元々『人間モードの猫人間』なのニャ。今までずっと気づかなかったのニャ?」

 気づくも何も「猫人間」の存在自体、つい最近朔から聞いたばかりだ。
 クリ目は続けた。

「ただ、なっちゃんは喋り声だけは猫のままの、不完全型猫人間だニャ。『ニャア』とか『ヘェ』とかしか言えないニャ。でもなっちゃんは賢いニャ。人前では混乱を避けるため黙っていたニャ」
「なっちゃん、そうだったの?」
「そうよ。あたしの両親は知ってるわ。あたしの本当の声。で、お外に出たら絶対に喋っちゃダメよって育てられたの。今だって他の人には『ニャア』とか『ヘェエ』とか聴こえるはずよ。あなたもそうよ。自分で気づいていないだけで、『ニャン』とか『ミョウ』とか喋っているのよ。だから、あたし達の会話は、クリ目さんや朔ちゃんやちびるには聞かれてもいいけど、他の人には秘密にね」

 へえ、つまり、なっちゃんが変わったんじゃなくて、俺がなっちゃんと会話出来るようになったってことか。マガティとやらの作用で。

「あのさ、なっちゃんのその秘密、実は猫人間だってこと、朔は知ってるのかな?」
「知ってるよ。猫語同士でお話も出来たわ。でもあたしは人間のお母さんのおなかから生まれて、最初から戸籍もあって、人間の両親に育てられた。相沢家の朔ちゃんの存在を知った時、あたしは驚いた。猫モードの猫人間だったから。あたしたち時々お外で遊んでいたでしょう?」

 そういえば確かに。朔は、なっちゃんによくなついていた。中嶌家の日だまりで、背中ばかりかお腹も撫でてもらっていた。しかし会話までしていたとは。

「じゃあさ、なっちゃんの個人史、っていうか記憶みたいなのは、朔は修正していない訳?」
「そうみたいね。私には猫時代の朔ちゃんと遊んだ記憶がちゃんとあるわ。猫人間同士事情は分かってるから、あえて修正しなかったんじゃないかな」
「ちびるのことも朔は知っていたみたいだけど」
「知っていたも何も、ちびるをあたしに紹介したのは朔ちゃんなのよ。ある日突然迷い込んで来た子猫が、あろうことか猫人間だった。猫人間が一か所に三匹も集まるなんて、ありえない。あたしも朔ちゃんも驚いた。それで朔ちゃんは子猫を物置に追い詰めて詰問したの。どこから来た?どこで生まれた?何しに来た?って。でも子猫は怖がるだけで何も答えられずに……」
「びびって、ちびっちゃったって訳か」
「そういうこと」

 俺は、ふと思い出したことがあったのでなっちゃんに訊いてみた。

「あのさ、ちょっと変なこと聞くけど……もしかしてさ、なっちゃんて尻尾がある?」
「あるわよ!細くて長いの。だから体育の時間にはお尻から背骨に沿って長く伸ばしてごまかしてるの」
「もしかして、朔の言っていた『なっちゃんのアレ』って、そのことかな?」
「朔ちゃんがそう言ってたなら、そうじゃないかな?」
「うーん、知らなかった……」

 俺は正直、驚いた。なっちゃんも猫人間だったなんて。そして、一言も喋らないと思っていたなっちゃんが、こんなにも饒舌であったとは。

「あのさクリ目、猫人間って実は結構メジャーなの?あとさ、猫人間って人間からも産まれるものなの?」
「メジャーではないニャ。ただ、湯河原の猫は地理的に他所から隔絶されているので、猫同士の近親婚が多いニャ。どこかから一匹でもやってくると、仲間内に広がりやすいのかもニャ。でも、なっちゃんみたいに人間のお母さんから産まれた例は、ボクも聞いたことがないニャ。極めて珍しいニャ」
「しかし朔も冷たいな、折角ならなっちゃんも、マガティで完全に人間に転換させて、誰とでも喋れるようにしてあげれば良かったんだ」
「そこまで手が回らなかったんだろうニャ。そうするにはなっちゃんと関係者全員の個人史もいじらなきゃならないニャ。ちびるや朔ぴょんは猫だったから社会的な記録や記憶は新しくでっち上げれば済むニャが、なっちゃんは人間だったために、多勢の親戚の記憶とか小中学校の記録とか、なっちゃんの個人史があちこちに食い込んでしまっているニャ。戸籍や住民票だけでなく病院の診察記録なんかも含めると、電子データだけでなく紙媒体にまで、多種多様なフォーマットで膨大な情報が蓄積されてしまっているニャ。そうなるとさすがに修正も容易ではないニャ」

 クリ目の口調に整合性のようなものは一応感じる。だがその内容たるや、科学と非科学がごっちゃになっている感じで、正直、ついていけない。

「あのさ、次々に訳の分からない話が出て来て俺ちょっと混乱してるんだけどさ、一番基本的な質問していいかな?そもそもクリ目はなぜマガティを知っている?」
「猫は何でも知っているニャ」
「は?それだけ?」
「そうニャ」
「ふーむ。マガティねえ……」

 俺はズボンのポケットに入れている勾玉を握りしめた。

「これ、どのくらい凄いものなの?」
「話せば長い説明になるニャ。ただ、乱用はダメニャ。あとパウンドドッグには気をつけるニャ」
「ハウンド?」
「犬には注意するニャ」
「犬?」
「公共の場で君と長く喋っていると怪しまれるニャ」
「まあそうだろうけど」
「では、バイバイなのニャ」
「ば、ばいばい……」

   ……

 俺は朔を背負って帰宅した。しかし……言っちゃ悪いが、重いな……お姫様抱っこで連れて帰ろうと思ったが、俺の腕力ではとても無理。おぶる。ふくよかな太もも。背中に二つのまろやかな感触。煩悩の嵐。
 帰宅後、とりあえず朔を制服のままベッドに寝かせて毛布を掛けた。
 朔が目を覚ましたのは、三十分くらい経ってからだった。

「うー、気持ち悪い。ここどこ?」
「俺の部屋。俺のベッド。どこか痛いところはないか?」
「全然。でもちょっと胃もたれ」
「そりゃ食い過ぎだろ」
「ハンバーガーショップ、また連れてってね」
「少し貯金してからでいいかな」
「いいよ……なっちゃんとちびるは?」
「帰ったよ。てゆーか家、隣だし。会いたければいつでも会える。呼ぼうか?」
「んー、ちょっと今、こっぱずかしい」
「どこまで覚えてる?」
「豆ちゃんの手をおなかに当てたあたりかな」
「猫ならいいけど、人間の女の子は、おなかなんて触らせてくれないんだぞ、普通」
「仲が良くても?姉弟でも?」
「姉弟というか、どういう関係であっても、昼間のハンバーガーショップではしない」
「じゃあお尻の匂いの嗅ぎっこなんかもしない?」
「お前、何でも知ってると言った割に、人間の習慣とか、そういうのあんまり知らないのな」
「だって猫として、猫なりの常識で暮らしてきたのよ。しょうがないじゃん」
「まあいいよ、これから人間の暮らしに慣れてくれれば」
「ありがとう」

 朔が落ち着いた表情を見せたことを確認した上で、俺は一つの質問を投げかけた。

「なあ、朔」
「なあに?」

 俺はポケットのマガティを取り出して机に置いた。
 マガティはまだほんのりと暖かかった。俺の体温ではない。きっとさっき発熱した名残だろう。薄ぼんやりとではあるが、光っているようにも見える。

「このマガティって奴なんだけどさ、もしかしてヤヴァい物体なんてことはないか?」
「え?そうなの?」
「俺の感想としては、こんな正体不明なもの、ほいほい使っていいのかと疑問にも思う」
「あたし平気。もう眠い。疲れた」
「今日は色々あったしな。それに、まだ人間の体にも慣れてないんだろう」
「ねえ、お願い」
「何?」
「腕枕、して」
「うん、あ、でも、……いいのかな、こういうの……」
「あたしね、豆ちゃんの腕枕がないとね、よく眠れないの」
「夏なんかトイレの床で背中冷やしながら寝ていた癖に」
「てへ。今日は甘えたいの」
「いいよ、ベッドに入っていいかな?」
「うん」
「朔、暖かいな」
「体温は猫時代と変わってないみたい」
「三十八度だっけな、お前の平熱」
「そだよ。ほら、生おなか触っていいよ。ここならいいでしょ?」
「あ?……、あ、あー、理性の限界」
「スー」
「スー?」

 寝ちまった。こいつは気楽でいいな……だめだ眠れん。同級生に「生おなか触っていい」と言われて眠れる男子生徒がいるだろうか?いたら出てこい。殴ってやる。あー、ちょっとだけね、おなかなんだし、いいよね……そっと手を……ん?ちょっとおかしいぞ……俺は急に冷静になって手を戻し、改めてブラウスの裾から手を入れてみる。サラシを巻いた朔のおなか、そのサラシの下には……そうか。そういうことか。
 朔は今でも部分的に「猫」だ。目とか歯とか尻尾とか、そういう外見だけじゃない。内臓も。
 猫には乳腺が六つある。朔にも。上の二つは大きい。それは見れば分かる。残り四つは、ちょっと違う。制服の上からではわからない。ちょっとお腹が太めかな、くらいに見える。でも、「腹」だと思っていたあたりにも、目立たない薄い乳腺があったんだな。四つ。お腹にさらしを巻いた本当の理由は、もしかしたらこれからもしれない。
 しかし、追加のおっぱい四つか……人によってはその方が嬉しいのかもしれないが……いやまて、そんなこたぁどうでもいい。なぜ合計六つなのか?
 俺は直感した。「多胎妊娠」。猫は一度に五〜七匹の子猫を妊娠するのが普通だ。
 朔の体は一見すると人間だけれど、そんな単純な話じゃない。尻尾、オッドアイ、牙、六つの乳腺。朔の体は人間でもあり、猫でもあるのだ。
 朔は避妊手術を受けていたはずではあるが、ちびるに玉が戻ってきた例から察するに、人間に転換したタイミングで、こいつにも卵巣が戻ってきている。
 その上、朔の体に猫の性質が残っているならば……猫は交尾と同時に排卵するので、ことを起こせば百発百中妊娠する。
 朔と間違いをおかした暁、産まれてくるのは猫なのか?人間なのか?
 猫ならごまかせるかもしれないが、人間だったらどうする?
 狭い町だ、高校生が五つ子なんか産んだら間違いなく町中どころか全国から注目を集める。
 いや、産む産まない以前に、妊娠だけでも大変な問題になる。まして、その相手が双子の弟だとしたら?
 退学処分ごときでは済まない。この町に住めなくなる。
 くわばらくわばら。
 朔は絶対に、猫に戻さなきゃならない。

 ……

 翌日もマガティは冷えた石だった。光も熱も出していない。お前は一体何なんだ?マガティ。
 それはそうとして、マガティより刺激的なのは朔だ。
 そりゃそうだろう。急に美人の姉が出来て、それは正直、嬉しい。だが、血の繋がらない双子の姉という訳の分からない関係にして猫人間。そして毎日が刺激的。うちは母ちゃんが忙しいので俺が洗濯とか掃除とかもする。最近の俺の家事の上での煩悩は朔の洗濯物だ。繊細な生地の下着にびくびくしながら洗濯物を干したりする。パンツなんか母ちゃんの2Lパンより一回り小さくて、よくこんなものにあのお尻が入るものだと感心しつつ、悶々としてしまう。
 なっちゃんとのことは、正直言って楽しい。ずっと喋れなかったと思っていたなっちゃんと、普通に喋れるんだから。なっちゃんは意外におしゃべりで、ちびるが未だにおねしょしていることなんかもこっそり教えてくれた。
 ただ、他の人が居るところでは会話禁止だ。これは朔にも注意された。なっちゃんはあくまで「ニャア」とか「ヘェ」とか「ギュぉ〜ん」とか、以前と同じことを言っているのだそうだ。そして、なっちゃんと喋っているときの俺もまたしかり。「ぎゃあ」とか「フニャア」とか間抜けな声を発しているらしい。マガティのお陰でなっちゃんと会話が出来るとは言え、それは他の人間が聞いたら、猫同士の会話にしか聴こえないそうだ。
 朔は完璧に普通の高校生になった。当たり前のように学校に通っている。
 目立ったことといえば、理科の小テストで朔が軽〜く一〇〇点を取ってしまったことくらいだ。マガティは一切使っていないという。お前、理系だな。
 俺やちびるやなっちゃんを除けば、朔には特に親しい友達はいないようだ。でも、それを苦にしている様子はない。単独行動を好んでいた猫時代の名残かもしれない。
 あと、どうしてもまたハンバーガーショップに行きたいというので、母ちゃんから小遣いを前借りして朔を連れて行った。どういう食欲なんだ?あと本当にお前、肉、好きだな。少しはうちの家計を考えれ。でも食べている時の朔は本当に幸せそうだ。朔は猫の時にも、山盛りの安いカリカリを一日で平らげていた。

 ……

 その日は朝からマガティが発熱していた。温度が少し上がっているような気がした。使い捨てカイロくらい?これは何かの予兆か?
 そして、案の定「何か」があった、といっても転校生が来たってことだけれど。
 担任の先生……彼はサッカー部顧問も引き受けている……が、朝のホームルームで、いかにも嬉しそうに紹介する。

「犬山大輔君。前の学校ではサッカー部の準レギュラーで『鋼鉄のストライカー』だったそうだ、ええ、彼は成績も優秀で知的プレーの期待される……」

 身長一八〇センチはあるな、肩幅があって胸板が厚い。水泳部の間違いじゃないのか?
 しかもこれでまだ二年だという。さらに成長するに違いない。理知的な目付き。頭良さそう。こんな大物が入部したら、うちのサッカー部も県大会準優勝くらいは射程に入るんじゃないか?先生がご機嫌なのも納得だ。
 犬山は短い茶髪が硬そうに、つんつんと上を向いている。彼は無口な性質らしく、黙って一例しただけで、割り当てられた席についた。
 それはそうとして、朔の様子がおかしい。気のせいか、こちらも髪を逆立てているような気がする。

「うーーー……うぅーーーー」

 猫に戻ったみたいな唸りだ。
 俺は朔に小声でささやく。

「おい、大丈夫か?腹でも痛いか?保健室行くか?」
「ウーーーー……ウウゥーーー」

 ダメだ、朔は今、外見は人間だが、中身が猫に戻っている。下手に刺激したら外見まで戻ってしまうんじゃないだろうか?
 なっちゃんを見ると、これまで見たこと無いような鋭い目つきで転校生を睨んでいる。何かを知っているようにも見える。
 ちびるに目をやると、彼はぶるぶる震え、明らかに怯えた目で転校生を見ている。お前、ちびるなよ……
 犬山の席は、俺たちから少し離れていた。
 一時間目は保健体育の講義。担任がそのまま授業を始めたが、朔は相変わらずウーウー言っているし、ちびるはぶるぶるだ。
 そして休み時間。火ぶたを切ったのは犬山。犬山が突然、ちびるに飛びかかった。

「マガティを出せ!」

 なぜマガティを知っている?てゆーか無口キャラだと思っていたら、それが最初の一言か?ちびるは固まった。ちびるはガタガタ震えながら机の下にもぐりこんだ。バカ、逃げろ!防災訓練じゃないんだ、早く逃げろ!なっちゃんが急いでちびるの腕を引いて逃がそうとするが、ちびるは怯えるあまり机にしがみついて動かない。そうこうしているうちに犬山がちびるを攻撃、太いズボンを両手で掴み、思い切り噛み付いた。

「ぎゃぁあああ」

 ちびるはズボンを食いちぎられただけなのに、我が身を切られたように痛がっている。
 いや、その通りだ。ズボンの中の尻尾を噛まれたのだ。朔は言っていた。「猫人間にとって尻尾はエネルギーの貯蔵場所」。急所じゃないか!俺は直感した。犬山、わかってやがる。尻尾の秘密を。

「タマだタマ、勾玉を出せこのくそネコ!」

 だから犬山なぜマガティを知っている?そればかりかちびるの正体まで知っている?訳が分からないが、ちびるの危機は明らかだ。

「やめろ!犬山!」

 と、俺が席を立つと犬山はターゲットを俺に切り替えた。

「お前か!勾玉持ってる奴は!」

 俺はビビった。身長一八〇cm、大柄の水泳部体型が俺の胸ぐらを掴んで締め上げた。

「なぜ勾玉を知っている!」
「ごちゃごちゃ言わずに出せ!」

 俺は直感的にマガティを守らねばならないと感じた。マガティはズボンのポケットの中。こちらもヤヴァい、発熱して火傷をしそうだ。だが犬山の腕力はただものではない。俺を締め上げるとぶんぶんと揺さぶり始めた。何という怪力!そしてズボンのポケットが犬山の太ももに当たった時、

「そこか!」

 犬山は叫ぶと俺のズボンに手を掛け、力の限り引きちぎった。
 ヤヴァい!マガティ!ズボンが破れ、マガティは犬山の手中に強奪された。逃がしてたまるか!離れようとする犬山の腕を俺は掴んだ。そこに朔が飛びかかった。

「シャアアアア!」

 朔の攻撃は容赦ない。机を飛び越えて犬山の頭に両手の爪を立てた。朔は爪も猫のまま。小さいけれど鋭い凶器。スポーツ刈りの犬山、額に血の筋。
 おいやめろ!朔、ここは俺が何とかする!今のお前は完全に猫だ!人間の姿をした凶暴猫だ!
 犬山も負けていない、俺を放り出すと朔の腕を掴み、胴を抱え込む。そのまま二人は、ごろんごろん転がり始めた。二人が机にぶつかると、大音響とともに机が弾け飛んだ。
 クラスメイトは遠巻きにしている。
 何と言う野性的な喧嘩だ。しかも女子と男子。朔は女子としては大柄だが、犬山に比べれば小さい。だが、その小ささを活かして、隙を見てはあちこち引っ掻いたり蹴ったりしている。
 朔が犬山の首に噛み付く。流血。そういえば朔は牙が猫のまま。もしかして頸動脈を狙った?マジか?
 だが、やはり力は犬山の方が強い。朔を腕力で排除してしまう。犬山は朔の頭を押しのけ、背後に回って朔の首に片腕の肘を掛けた。絞め技?
 これ、ヤヴァくないか?
 高校生のケンカを超えている、というか、民間人の喧嘩を超えている。格闘技、あるいは互いに殺人犯。

「やめろ!お前らマジ殺し合いする気か!」

 だが二人には俺の声など全く聞こえていない。
 朔がヤヴァい。豪腕に首を絞められ、顔から血の気が失せて行く。もう手段を選んでいる場合ではない。
 俺は手近な机に飛び乗ると、そこから飛び降りざまに犬山の頭に踵落としを喰らわせた。転倒する二人、犬山の腕が一瞬緩む、その隙を突いて朔が反撃、犬山の腕の内側に二本の牙を立てた。静脈。今度はピンポイントを外さない。犬山の腕から、どす黒い血が噴き出し、赤黒い斑点を床に描く。

「ギャウゥ!」

 犬山は奇声を発すると、腕を押さえながら教室から飛び出した。
 俺と朔は犬山を追った。

「あ?」

 俺は目を疑った。去って行くその姿は、体格こそ大きかったが、明らかに犬。ドイツシェパードの後ろ姿だった。もしかして、マガティを使って犬が変身していた?ドイツシェパードは、開け放たれていた非常口から飛び出した。あ?ちょっとまておいここ四階だぞ!犬山は非常階段の柵を飛び越える。

「オォン……」

 悲しい遠吠え。やがて、どさり、という落下音……が、しない。しない?遠吠えは虚空の中に吸い込まれて行った。犬山は消えた?
 俺と朔はどうすることも出来ず、ただ犬山の消えた虚空を見つめた。マガティは犬山ごと消えてしまった?いや、マガティより大事なのは朔、朔だ。教室に戻ると朔は床に座って目を血走らせていた。髪なんかぐしゃぐしゃだ。

「朔、大丈夫か?いくらお前の体格が良くても相手は大男、しかも『鋼鉄のストライカー』だぞ、いくら何でも無謀すぎる」
「あいつ許せない。ちびるを殺そうとした」
「マジですか?」
「奴の正体は犬」
「どうもそうだったようだな」
「捨て犬が人間の格好して学校に来た」
「もしかして奴もマガティ使いか?」
「そうかもしれない」
「なぜ奴はマガティの存在を知ったんだ?」
「わかんない。とにかく許せない。ちびるはあたしが守る」
「んー、確かに彼は自衛能力に問題があるようだな……」

 ちびるは高校二年にして、床におしっこの水たまりを作っていた。
 なっちゃんが彼を保健室に連れて行った。
 しかし困ったところを怪我したなあ、ちびる。尻尾の存在、保健の先生にどう説明したらいいのだろう?
 あと、高校の保健室ってパンツの替えなんか置いてるのかな?小学校じゃあるまいし。
 そして気になるのはマガティ。マガティは犬山の手に落ちてしまった。これは一体、何を意味するのだろうか?

  ……

 昼休み、俺は朔とちびるとなっちゃんを屋上に連れ出した。
 朔は面倒くさそうな顔をしたが、「いちご牛乳奢るから来い」というと、喜んで付いて来た。

「ちびる、尻尾は保健の先生に何て説明した?」
「保健室には誰もいなかった。保健の先生、今日は出張みたい」
「じゃあ傷の手当は?」
「なっちゃんに消毒してもらった。傷は小さかったよ」
「それは良かった、てゆーかお前、大袈裟過ぎ。で、朔。午前中のアレは、何だったんだ?」
「ズズズー(いちご牛乳)、奴は犬。それしか……」

 と、そこにクリ目がやって来た。

「クリ目さん!お会いできて嬉しいわ!」
「はしゃぐニャ!朔ぴょん!君にも責任の一端はあるのニャ!」

 クリ目にキツく叱られて朔はしおれた。

「どうやってこの屋上まで来たんだ、クリ目。マガティか?」
「普通に正門から入って、非常階段を上って来たニャ。湯河原南高校は警備が甘いニャ」
「いや警備はしてると思うけど、猫までは注意しない」
「そんなことはどうでもいいニャ。やっかいなことになったニャ」
「それってマガティ関連の話?」
「そうニャ。前にも言ったニャ、犬には気をつけろと」
「それなんだけど、犬山とかいう奴が現れてマガティを持って行かれて……」
「半分は国道でマガティを使ったボクの責任ニャ、でも個人史の書き換えとか学籍のでっち上げとか、朔ぴょんもマガティを酷使した責任があるニャ」

 神妙な顔つきでクリ目が語る。

「ボクらのマガティの乱用が、犬山を呼び寄せてしまったニャ」
「クリ目、何で犬山を知っている?」

 それには答えずにクリ目は続けた。

「マガティを使うとマガティは『気配の発信』をするニャ」
「もしかして、今朝からマガティが暖かかったんだけど、そのせいか?」
「そういうことニャ。パウンドドッグの犬山がマガティを使い始めて活性化したニャ」
「パウンド?そういえば国道で朔を助けてくれたとき、そんな名前を聞いたな、それと関係ある話か?」
「そうニャ。犬山の個人行動なんかじゃないニャ。パウンドドッグが組織的にマガティを狙ったのニャ」
「ハウンド?」
「違う、パウンド」
「あのさ、『吠える』の英語『ハウンド』じゃなくて、重さの記号の『パウンド』?」
「そうニャ」
「はあ」

 よくわからない話になってきた。

「犬には、捨て犬を中心とする『パウンドドッグ』というネットワークがあるニャ」
「何?それ」
「そもそも、なぜ連中が『パウンドドッグ』を名乗っているか知ってるかニャ?」
「知らん。てゆーかパウンドドッグって名前自体、クリ目から初めて聞いたし。パウンドドッグって、どういう意味?」
「彼らの希望、一生のうち一度でいいから『一パウンドの肉を思い切り食べたい』との願いニャ」
「は?」
「人間から放り出されて飢えと病気に苦しめられている捨て犬を想像するニャ!野良猫と違って人間に愛想を振りまく器用さもない上に、日本では法律で野犬を捕獲する制度まで定められているニャ!そんな彼らのたった一つの切実な思いが『一パウンドの肉』ニャ」
「あのさ、ここ日本なんだけど、なんで『パウンド』なの?日本で重さの単位といったら、普通、『グラム』とか『キログラム』じゃないか」
「パウンドドッグの創始者が、イギリス生まれのグレーハウンドと、アメリカ生まれのビーグルだったニャ。幸せに暮らしていたのに、ある日突然人間の都合で捨てられ、悲惨な野良生活に突き落とされたニャ」
「確かにイギリスとアメリカといったらパウンドだな。しかし捨て犬はいかんな、そりゃ人間が悪い」
「君は一パウンドの意味を知っているかニャ?」
「知らん、てゆーか、グラムの由来もよく知らんが」
「一パウンドは約四五四グラム、これは人間が一日に消費すると言われる大麦の分量ニャ」
「そうなん?欧米の食生活はよくわからん、うち日本食でお米だし。てゆーかなんで大麦の話になる?肉の話じゃなかったっけ?」
「一パウンドの肉といったら、大型犬でも満腹できる量だし、中型犬や小型犬なら事実上食べ放題だニャ。つまり彼らにとって一パウンドの肉というのは、満足と幸福を象徴するものニャ」
「はあ。で、彼らの組織は湯河原にも支部みたいなのがあるってこと?」
「パウンドドッグ湯河原支部があって、奴らは幕山の山林で群れを作って暮らしているニャ」

 幕山というのは、湯河原の北部にある山。

「そういえば人間が捨てた犬が野犬化して幕山に棲み着いているという話は聞いてるけど」
「それが湯河原支部ニャ。パウンドドッグを侮ってはいけないニャ。普段は生きて行くことで精一杯ニャが、人間への恨みは尋常ではないニャ」
「そんな物騒な事情になってるの?犬業界って」
「まあそういうことニャ」

 クリ目は面倒くさそうにぷりぷりと耳の後ろを掻いた。

「で、今日の犬山は、パウンドドッグが使わした刺客であったと?」
「そうニャ。狙いはマガティニャ」
「しかし最初はちびるが狙われていたぞ?なぜだ?」
「君たちは、マガティの話を犬に聞かれたということはないかニャ?」
「うーん、ないと思う」
「あるいは勾玉とかタマとか」
「……そういえばちびるのタマの話をしている時に、ちくわちゃんとかいうシーズーに吠えられたことがあったが……飼い犬だったぞ」
「もしかしてその犬、虐待を受けている様子はなかったかニャ?」
「虐待ってほどじゃないと思うけど、薄汚れていて、あまり可愛がられていない感じはした」
「それニャ。可愛がられていない犬はパウンドドッグの準構成員になるニャ。犬は耳をアンテナに、肉球をアースにして瞬時に仲間と連絡を取り合えるニャ」
「肉球?アンテナ?」

 何が何だかさっぱりだが、クリ目は遠慮せず続ける。

「ただ、犬山はマガティについて僅かな情報しか持っていなかったニャ。『何か凄いものがある』『それがあれば凄いことが出来る』くらいの情報しか持ってなかったんだニャ。上層部はもう少し情報を持っていたかもしれないニャが、犬山は上層部に命令されるがままにマガティを強奪したニャ。それでまず最初に犬山は、マガティを使って人間に変身して来たニャ。さすがドイツシェパードニャ、頭脳のキレと行動力に加えて霊的センスも半端じゃなかったニャ」
「話を戻していいかな?ともかくマガティは使うと気配を発信すると。で、犬山がそれを察知した。そしてマガティはパウンドドッグの手に落ちた、と」
「君の理解で正しいニャ」
「しかしだな、もう朔も人間に転換してしまったし、今後マガティがなくても生活に困ることもなかろうとは思うんだが」
「君はのんきすぎるニャ!マガティがあればこの世に不可能はないニャ!パウンドドッグの人間への恨みは深いのニャ!もう何が起きてもおかしくないのニャ!」
「はあ……で、どうすればよいのでしょうか?クリ目先生」
「マガティを取り返すニャ!」
「どうやって?パウンドドッグは幕山に居るんだよな、まさか幕山に行けとでも?」
「ボクに考えがあるニャ。精鋭を集めてマガティ奪還に向かうニャ。そこでお願いがあるニャ」
「何だろう?」
「ボクらを幕山に連れて行って欲しいニャ」
「ああ、猫の足では無理だな。バスに乗ろう。ケージに入って貰うけどいいかな?」
「頼むニャ。ケージはボクの分も含めて四つお願いだニャ」
「精鋭ってもしかして猫?なら俺たちも四人で行くよ」
「あと、精鋭達への謝礼をお願いしたいニャ」
「お礼?カリカリとか猫缶とかでいいかな?」
「上等ニャ。お腹いっぱいになるものがいいニャ」
「分かった。で、いつ決行するの?」
「今度の日曜日、時間を作って貰えないかニャ?」
「OK。クリ目、君を信じることにする。マガティ奪還、精鋭達と幕山へ向かう、と」
「くれぐれも謝礼は忘れないで欲しいニャ。精鋭達を集めるボクの信用にも関わるニャ」

 捨て犬は、何も湯河原に限った問題ではない。
 東京都心など大都会に住む人達は、日本に未だに「野犬」というものが存在していることを知らないかもしれない。それもそのはず、都心では犬が捨てられるや否や、所有者不明の犬として迅速に保健所の手で捕獲される。このため、都市部では犬が野良化して棲み付く例が、まず見られないのだ。
 だが、湯河原のように無人の山野を広く抱えるエリアでは、野犬は静かな社会問題となっている。夜中や明け方など人目の少ない時刻を狙って、車で山に犬を捨てにくる人が後を絶たない。
 生命力の弱い室内犬などは悲惨で、ほどなく病気に感染し、栄養失調と相まって命を落とすことが多い。
 だが、体力のある若い犬や、もともと野性味を残した性質の犬などは、皮膚病やフィラリア症などに悩まされつつも、何とか命をつないでいる。山には野生の果実があるし、小動物も棲んでいる。ごちそうとは言えないが、野犬が辛うじて命を繋ぐ程度の餌なら捕れる。でもそれだけでは足りないのだろう、時には里まで降りて来て、人間の出したゴミをあさったりしている。もっとも人前に姿を現すことは滅多にない。多くの野犬は人間を恐れる。それでも運悪く山菜採りに山に入ったお婆さんと鉢合わせしたりすると大変で、お婆さんが野犬に噛まれて大けがをした事件があった。湯河原だけじゃない。無人地帯を抱える地方なら、どこでも社会問題になっている。
 もっとも多くの場合、その自治体の財政赤字なんかの方がはるかに深刻で、あまり表立って議論されることはない。
 ましてや彼らが組織化されているなんて、人間達は知るはずもない。

 しかしだな、よく考えてみると、どうしてこんなことになったんだろう?猫に付き合って幕山までいかなきゃならない?マガティって、そんなに重要な物なのか?元はと言えば俺が雲州大社の草むらで拾った「拾いもの」じゃないか。
 それと、クリ目の言った「精鋭」。野犬の群れに立ち向かうのが「猫」って、本当に大丈夫なんだろうか?

  ……

 日曜日。

「クリ目、ちょっと来い」
「何ニャ?」

 俺はクリ目の連れてきた「精鋭」を見てむっとした。
 一匹は白猫。ちょっと痩せ型で綺麗ではある。おそらく雌。どことなく妖艶な雰囲気が感じられるが、妖術でも使ってくれるのだろうか?それならいいが……
 二匹目は茶虎猫。これがまた、なよっとしていて、雄なのか雌なのか分からない。栄養状態が悪いのか、毛が短くて薄い。いかにも弱っちい。
 三匹目は、辛うじて体格が良い。ボス猫っぽい雰囲気はある。だが、あまりにもボロボロ。耳は潰れてぺったんこ、全身傷だらけで薄汚れ、目は血管が浮き上がっているのか血走って見える。

「何が精鋭だ。へなへなのボロボロじゃないか!」

 だがクリ目は自信たっぷりに答えた。

「このメンツでしかマガティ奪還はあり得ないのニャ」

 朔がフォローした。

「クリ目さんが選んでくれたメンバーなのよ!大丈夫!絶対」

 俺は釈然としない。

「どう見ても大丈夫そうに見えないんだが。もうちょっとマシな連中は居なかったのか?」
「何を言うニャ!これがベストメンバーニャ!」
「しかし、なあ……」

 改めて、なよなよボロボロのメンバーを見て俺はため息をついた。

「分かったよ、とにかくここまで来たら、もう、行くしかないな」

 だが今度はクリ目が文句を言う。

「豆、ちょっと話があるニャ」
「何だ?」
「もしかして、背中のザックに入っている大きな袋は、安いカリカリかニャ?」
「よく分かったな。そうだ。腹いっぱいになるように、五kg入りの安いやつをたんまり買ってきた」
「猫をなめるニャ!お刺身とか鶏肉とは言わないニャが、せめて猫缶とか用意できなかったのかニャ!」
「す、すまん、あまり持ち金もなかったもんで」
「野良猫だと思ってなめるニャ!ボクらはこれでも食べ物は選んでいるのニャ!」
「すまん。そこまで考えなかった、今回はこれで許してくれ」
「まったく豆と来たら……まあしょうがないニャ、行くかニャ」
「よろしくお願いします」

 何だかなあ、出発からこんな調子で大丈夫なんだろうか?

 それから俺たちは、朔、なっちゃん、ちびると手分けして四つのケージにクリ目を含む四匹の野良猫を入れ、バス停に向かった。行き先は鍛冶屋。バスの終点だ。そこから歩いて幕山の裏手の林道に入る。これはクリ目が指定したルート。
 バスに揺られて二〇分。俺たちは幕山の入り口に立っていた。

「クリ目、本当にここでいいのか?」

 ケージ越しにクリ目が答える。

「いいのニャ。ここから林道沿いに山に入っていくニャ」

 幕山に入る林道は、本来は山林管理のために作られた道路で一般人は立ち入り禁止なのだが、今、俺たちはある意味「一般人ではない」というべき立場に居るのでよしとしよう。
 俺は、一番重そうなボス猫のケージを持った。
 朔はクリ目、なっちゃんは妖艶猫、ちびるは茶虎猫を持った。

 どのくらい歩いただろう。
 ふと、犬の遠吠えが聞こえた。
 クリ目が言う。

「このあたりから山に入るニャ。いよいよ連中のテリトリーニャ。気をつけるニャ」

 俺たちは林道を外れ、下草の生い茂る山へと足を踏み入れていった。
 針葉樹林で、春先なら花粉の酷そうな山だ。
 五分ほど進んだだろうか、木々が途切れてちょっと開けた日だまりのようなところに出た。
 そこで朔が叫んだ。

「犬の臭いがする!」
「本当か?」

 朔の嗅覚は猫のままなのかもしれないが、俺には森の匂いしか分からない。
 クリ目が呟いた。

「お出ましニャ」
「どこ?どこだ?」
「もうそこらじゅうに居るニャ。囲まれたニャ」
「へ?」

 俺には犬の一匹も見えない。クリ目には気配が分かるらしい。

「クリ目、どうしたらいい?」
「ボクらをケージから出して欲しいニャ」
「分かった」

 ケージの蓋を開けて、四匹を自由にする。
 と同時に、ざざっと音がして、周囲から野犬が現れた。本当だヤヴァい、二〇匹くらい居るんじゃないだろうか?
 クリ目が言う。

「さぁて、いよいよなのニャ!」

 クリ目はこの状況を楽しんでいるようにも見えるが……

「まず妖しいシロ子!」

 妖しいシロ子、とクリ目が呼んだのは、一番綺麗で妖艶な猫。猫ながら目つきが色っぽく、どことなく温泉芸者のような雰囲気もある。そういえば湯河原には昔から温泉芸者が居るが……
 妖しいシロ子は、たった一人で日だまりの中心へと進んだ。と、その時、

 ボン!

 妖しいシロ子が白煙に包まれ、白煙が風に流されるとそこには一匹の美しいヨークシャーテリアが立っていた。そして長く吠えた。

「おん♡おおん♡おおおおおん♡」

 するとどうしたことか、二〇匹の野犬のうち半分くらいが、妖しいシロ子(であったテリア)の前に集まって、皆おとなしく伏せてしまったではないか!
 朔が驚いて問う。

「クリ目さん、これ、何?」
「妖しいシロ子は妖術が使えるのニャ。美人犬に変身したのニャ」

 なっちゃんが言う。

「そんな感じはするけど……どうやって犬を説き伏せたの?」
「犬語で言ったのニャ。『大人しくしてくれたら、あとでエッチさせたげる』」

 俺は慌てる。

「おい、いいのか?そんな約束させて」

 朔が口を挟む。

「いざとなったらあたしも協力するから♡」
「せんでええ!」
「これで雄犬は全部、妖しいシロ子の言いなりニャ」

 クリ目が叫ぶ。

「次、マヒロ!」

 マヒロと呼ばれた猫は、一番弱っちい感じの茶虎猫だ。って、こいつ一体何の役に立つの?
 マヒロも日だまりの中心に向かうと、見事に「何もしない」。
 ただ、へなへなとしゃがみ込んで「ふにゃあ」と鳴いた。
 だが、それがどういう訳か、残りの犬を全部集めてしまった。犬たちは代わる代わるでマヒロに鼻を付けたり、ペロペロとなめてあげたりしている。マヒロを可愛がっている?

 ちびるが尋ねる。

「クリ目さん、これって一体……何の技?」
「マヒロはひ弱で軟弱だけど、母性本能をくすぐる天才なのニャ。雌犬はみんなマヒロにメロメロなのニャ」

 情けない作戦ではあるけれど、効果は認めざるを得ない。
 朔が喜ぶ。

「さすがぁ!クリ目さん!やっぱり頼もしいわ」
「頼もしい技を使っているようには、俺には思えんのだが」

 しかし、妖しいシロ子にもマヒロにも反応しない犬が一頭だけ居た。
 忘れもしない。その姿。ドイツシェパード、犬山。
 そして、彼の足下にあるのは……そう、マガティだ。
 俺はクリ目に問う。

「雑魚どもは処理したが親玉がビクともしないじゃないか!どうするんだ?」

 朔が言う。

「ここからがクリ目さんの出番なのよ」

 クリ目は丁重な言葉遣いで最後の猫を呼んだ。

「ポイ玉先生、お願いしますニャ!」
「あとは任せるギャ」
「ボクも協力しますニャ」

 ボイ玉先生。ボロボロ、でも体格は良い。時代劇に出てくる用心棒の浪人先生のようにも見える。汚れてはいるが、はっきりとしたグレーの縞模様をしている。洋猫系だろうか。案外血筋の良い猫なのかもしれない。
 ポイ玉先生とクリ目は、二匹でドイツシェパードの前に立った。ようやく奪還戦らしくなってきた……と思ったのも束の間。ドイツシェパードは逆に二匹に詰め寄ってきた。ポイ玉先生とクリ目は、じりじりと後ずさりを始めた。おい押されて負けてるじゃないか!俺は怖くなった。隙を見て俺がマガティを盗み出そうかとも思ったが、ドイツシェパードの反射神経に勝てる自信がない。
 ポイ玉先生とクリ目が後ずさりをするその先に、一本の太くて大きな楠が立っていた。針葉樹林になぜ楠が生えているのか謎だが、そんなことは今はどうでもいい。ドイツシェパードはポイ玉先生とクリ目を楠に向かって追い詰めているように見える。ど、どうすりゃ……俺たちはただ彼らの駆け引きを見守るほかない。
 そしてついにポイ玉先生とクリ目は、もう後ずさり出来ないところまで楠に追い詰められた……と思った瞬間、ドイツシェパードはまずポイ玉先生に飛びかかった!体格で明らかにポイ玉先生不利、ヤヴァい……
 だがポイ玉先生は、くるりと振り返ると猛烈に楠によじ登り始めた。クリ目がそれに続く。そうか、猫には鉤爪があるから木に登れるんだ!
 ドイツシェパードは木の下で吠えに吠えたが、木に登れないためどうにもならない。二匹は一番低い枝に移動すると、そこから突然ジャンプした。そうか、空から攻めるという手があったか!猫は高いところから飛び降りても、体が柔軟だから平気なんだ!
 クリ目はマガティに飛び降り、マガティを猫パンチで飛ばした。

 「朔ぴょん!受け取るニャ!」
 「任せて!」

 朔はマガティをキャッチすると素早くポシェットに入れた。
 同時にポイ玉先生はドイツシェパードに飛び降り、その額に、雑菌がたんまり詰まっていそうな汚れた鉤爪を思い切り立てた。ドイツシェパードは額から血を流した。そして血液が目に入ったことでパニックに陥った。ポイ玉先生、格闘の基本を分かっている。流血というのは大したダメージでなくともショックが大きく、しかも目に入ると戦意を喪失させるものなのだ。
 クリ目が叫ぶ。

「みんな逃げるニャ!人里まで降りれば安全ニャ!」

 妖しいシロ子はいつの間にか元の白猫に戻っていた。犬たちが吠えながら追いかけてくる。

「こんな時に何だがクリ目、あいつらなんて言ってるんだ?」
「雄犬は怒ってる。騙したな!だそうニャ」
「そりゃそうだわな。雌犬は?」
「マヒロちゃーん、行かないでぇって」
「人気だなマヒロ」
「そんなことより豆、朔ぴょん、なっちゃん、ちびる!お前ら足遅すぎニャ!速く走れ!」

 そうは言われても、下草の生えた森の中では、四本足の猫たちと二足歩行の俺たちとでは、どうしても俺たちの方が不利。そして運悪く、犬たちも四足走行である。まずい、じりじりと犬達の群れが近づいて……そうだ!俺は背中のザックを開けて、五kg入りのカリカリを取り出した。そして力の限り袋を引き裂くと、野犬の群れに向かってカリカリをぶん投げてばらまいた。

「ウォォォォ!」

 野犬たちは飢えている。突然のご馳走に狂喜乱舞し、俺たちのことなど忘れて、藪の中に落ちたカリカリを争うように食べ始めた。犬山ことドイツシェパードまでもがガウガウ言ってカリカリを漁っている。
 俺たちは転げるように林道まで出て、走りに走って鍛冶屋のバス停まで戻ってきた。ここまで来れば大丈夫だろう。

「クリ目、本当に世話になった。ポイ玉先生、妖しいシロ子、マヒロ、みんなありがとう」
「危なかったのニャ。しかしニャぁ、非常事態とはいえ謝礼を全部ぶちまけてくれたとは、ボクのメンツも少しは考えて欲しいニャ」
「すまん……」

 俺はふと、バス停の時刻表をチェックしてみた。
 しめた。次に来るバスは「お買い物バス」だ。

「みんな、またケージに入ってくれないかな?ちょっと寄り道をしたい」
「どこに行くニャ?ケージの長旅は勘弁して欲しいニャ」
「長くはならない。ちょっと、な」

 お買い物バスというのは湯河原町内を走る小さなバスで、鍛冶屋と海辺のショッピングモールとを結んでいる。それに乗ればショッピングモールのペット用品コーナーに行って、美味しい猫缶が買えるのだ。

 やれやれ。今度こそは高級な猫缶を買ってやらないとな。

 ……

 とりあえずマガティは、俺たちのところに戻ってきた。
 マガティは再び俺が預かることにした。拾ってきた当事者なので、何となく管理責任があるような気がしたのだ。

 翌々日、クリ目がうちに遊びに来た。夕方、俺が玄関先を掃き掃除していたら、やってきた。

「クリ目、こないだはありがとうな」
「こちらこそなのニャ。ショッピングモールで買ってくれた猫缶と高級カリカリは旨かったのニャ。マヒロなんか狂ったように食べ過ぎて、あとで吐いていたニャ」
「あいつは胃腸とかも弱そうな感じだったな」
「ポイ玉先生も妖しいシロ子も、こんな旨い食事は久しぶりだと言っていたニャ。ボクのメンツは大いに保たれたのニャ」
「あれはな、獣医さんから『いちばん食いつきのいいカリカリと缶詰』を教わっていたんだ、それを買った。喜んでくれて俺も嬉し……」

 と、突然クリ目が叫んだ。

「逃げるニャ!」
「は?どこへ?」
「家に入……」

 玄関のドアを開けて家に入ろうとしたところで、俺の左足に重い衝撃があった。太ももの後ろ。タイムラグの後、激痛。刺された?本当に大きな怪我をすると怪我をしてから痛みを感じるまで時差が生じる。触れてみるとズボンがべたりとしていた。血か?俺の?

「痛い、死ぬかも……クリ目大丈夫か……?」

 だがクリ目は既に去っていた。
 そして俺は玄関先に血だまりを作っていた。
 俺はスマホで救急車を呼んだ。

   ……

 外科の先生が言うには「噛み傷」だそうだ。犬か猿に噛まれたようだという。
 出血の割に傷は浅く、五針縫ったが入院するほどではなかった。だが傷口に土が付いていたということで、破傷風の予防注射を思い切り打たれた。あの注射、痛いのな。新型インフルエンザの予防注射より痛かった。怪我はするし、注射は痛いし、散々だ。飲み薬も貰った。抗生物質に加えて、痛み止めのロキソニン。俺はとりあえずそれらを飲んだ。

 夜、英語の予習をしていると、俺の部屋の窓をこんこんとたたく音がした。朔はすぅすぅ眠っていた。お前本当に勉強しないのに頭いいのな、いいなあ。
 カーテンを開けるとクリ目が居た。
 珍しいな、家に入れてくれなんて。
 俺は窓を開けてクリ目を部屋に入れた。

「どうも苦手だニャ。人間の家の中というのは、気詰まりなのニャ」
「そうだろうな、そういう顔をしている」
「手短に済ませるニャ。昼間の怪我は大丈夫ニャ?」
「ああ、思ったほどの大けがではなかった。しかし何だったんだ?犬山がまた来たのか?」
「犬山は元々中間管理職レベルなのニャ。こないだの失策でヒラに格下げになったニャ」
「まあそうだろうな。じゃあ誰?」
「湯河原パウンドドッグのナンバーワン、野犬になったプードル、ニャ」
「プードルがナンバーワン?弱そうな犬の代表格じゃないか」
「君はプードルとトイプードルを混同していないかにゃ?プードルは中型犬ニャ。プードルに独特のカットを施す理由を知っているかニャ?」
「可愛いからだろ」
「違うニャ。プードルはもともと泳ぎが得意な猟犬で、猟銃で撃った水鳥にトドメを刺すのが役割ニャ。あのポンポンのような尻尾は、泳いでいる時に水鳥と間違えて撃たないための目印ニャ。プードルは見かけに反してに勇猛な性質を持っているニャ。しかも今回やってきたのは、パウンドドッグ湯河原支部のトップなのニャ」
「しかしなぜプードルが?」
「捨てられて、人間を深く恨んでいるプードルが湯河原に居るニャ。そいつは勇敢なだけでなく面倒見の良さで仲間から信頼を勝ち得て、パウンドドッグ湯河原支部のトップにのし上がったニャ。そこが犬山との違いだニャ」

 犬のリーダーシップにも「人望」は重要らしい。

「もちろん彼女の狙いは『マガティ』ニャ。君が足を狙われたのは、ポケットにマガティを入れていたからニャ。あと少し仕事場に入るのが遅れていたら危なかったニャ」
「彼女?」
「雌で、老年のプードルだったニャ」
「よく観察できたな」
「猫の動態視力を舐めてはいけないニャ」
「すまん。で、ともあれ彼女は人間を恨んでいる」
「そうだろうニャ。たぶんニャが、酷い捨てられ方をしたニャ」
「人間の都合で飼われ、人間の都合で捨てられた、と」
「多分そういうことニャ」
「なんか可愛そうになってきた」
「そういう君の甘さは命取りになるニャ。野犬は容赦ないニャ。彼女の恨みは本気だニャ」
「本気になるとどうなる?『ワルプルギスの夜』でも来るのか?」
「君は『ワルプルギスの夜』を、魔法少女系アニメの創作とか思ってないかニャ?」
「違うのか?」
「元ネタは伝説に基づくヨーロッパのお祭りニャ」
「知らんかった。で、さっきの話だが、彼女が本気になってマガティを手に入れたとして、一体何をするつもりなんだろう?」
「それが、野良猫の間で面倒な噂が流れているニャ」
「面倒?」
「流石リーダーだけあって、今度はマガティの使い道を計画しているのニャ。それで彼女は町長になりたいらしいニャ」
「町長?町長って選挙で当選しなきゃなれないだろ?」
「マガティを使って自分と町長の心身を入れ換えようと画策しているニャ。そうすれば選挙は不要ニャ」
「町長って中学の時に学校に一度講演に来たなあ。疲れた顔してたぞ。きっと辛くて忙しい仕事なんだろうなと思った。そんな役職につきたい理由って、何だ?」
「彼女が町長を目指す理由は一つ、湯河原町を犬の町に改造することニャ」
「へ?」
「湯河原町を人間より犬を優先する犬社会に造り替えるニャ。といっても犬がそのままの姿で社会を作るわけではないニャ。マガティをフル活用して、町の人間を、町の野良犬と入れ替えるニャ。元・人間は、犬のしもべになるか、山に追放されて野良ニンゲンになるかニャ」
「ノラニンゲン?」
「彼女が町長の座を奪った後、今度は役場の職員をパウンドドッグの連中と入れ換えるニャ。それからは、一般住民は住み家を追い出されて、幕山で群れを作って、時折犬の家に残飯をあさりにいくようになるだろうニャ」
「それってつまり、今の野犬と人間の立場を逆転させて、野犬達が人間に復讐するっていうこと?」
「確かに復讐という意味もあるだろうニャ。だがパウンドドッグ湯河原支部のトップだけあって、仲間達にいい暮らしをさせてやりたいっていう考えもあるんだろうニャ」
「話が突飛すぎてわからん。犬が町長?何だそりゃ?それに前から思ってたんだけどさ、マガティって、なんでそんなに変てこな能力を備えてるんだ?」
「ヒスイだからニャ。ヒスイには常人には引き出せない特別な魔力があるニャ」
「ヒスイ?この曇ったガラス玉が?」
「曇っているのは君の目ニャ!それはヒスイの中でも最も質の高い『ロウカン』ニャ!」
「『ロウカン』て何?」
「緑色で透明感のある、ヒスイの中でも最高級とされるものを『ロウカン』というニャ」
「知らなかった」

 うち貧乏だから、宝石なんて無縁の世界だしな。

「しかもマガティは『ロウカン』の中でも、貴重な古代日本国内産ニャ。今では日本のヒスイは天然記念物に指定されてしまったので採掘が不可能ニャ」
「すまん、俺、ヒスイに限らず、宝石業界のことって全然わかんないんだ、それってどのくらい凄いことなの?今、宝石屋さんとかで売ってるヒスイってどこで採ってるの?」
「現代で高級なヒスイを産出するのは『ニャンマー』ニャ。その『ニャンマー』でも、『ロウカン』クラスのヒスイは滅多に採れないニャ」
「ニャンマー?農業用トラクターとか作ってる会社か?」
「それはヤンマー」
「マジ分からないんで質問してるんですけど」
「だから現代でヒスイの主要産出国は『ニャンマー』ニャ、新しいヒスイは、ほとんどがそこで採掘されているニャ」
「あのさクリ目先生、思ったんだけどさ、その『ニャンマー』って『ミャンマー』のことか?」
「ニャ、ニャ、ミャ、『ミャンマー』ニャ」
「ミャンマーの人が聞いたら気を悪くするぞ。でもクリ目でも間違えることがあるんだニャ」
「うるさいニャ!人の揚げ足とって喜ぶニャ!『ロウカン』のマガティ様に『曇ったガラス』とかいう暴言を吐いた君こそ、マガティ様に気を悪くされても知らないニャ!」
「あの、マガティ様が気を悪くされますと、俺、どうなるのでしょう?クリ目先生」
「君の鼻がもげるかもしれないニャ」
「マガティ様すみませんすみませんごめんなさい!気を悪くなさらないでください!」
「冗談ニャ」
「冗談になってないですクリ目先生」
「マガティは君のお詫びなんか聞いてないし、そのくらいの誤解で怒りだすほど短気じゃないニャ」

 クリ目にからかわれて、俺はちょっとムカチク。

「しかしヒスイって宝石屋さんで普通に売ってるだろ?ヒスイってそんなに危ないものなのか?」
「大なり小なりヒスイには魔力があるニャ。といっても多くは微々たるものニャし、それを引き出す能力を持つ者も限られているニャ。ただ、マガティの能力は特別に強力ニャ」
「マガティの能力っていうけどさ、朔は『個人史の修正とか小物の移動が精一杯』と言っていたぞ、犬が町長と入れ替わるなんて、そんな凄いこと出来るのか?」
「朔ぴょんがマガティの本当の凄さを知らないだけニャ。だいたい君は、マガティがどこにあったか知っていたかニャ?」
「雲州大社の境内の草むらだ」
「違うニャ。元々は古代から、雲州大社境内の大きな石の下に、銅器の戈(ほこ)と一緒に埋められていたニャ」
「そんな石、なかったぞ?雲州大社」

 俺は、一回りしてきた雲州大社の境内を思い出しながら言った。

「続きがあるニャ。その石は江戸時代に、境内を整備した時に撤去されたニャ」
「クリ目って江戸時代から生きてるのか?」
「馬鹿なことを言うニャ!先祖代々言い継がれて来たことニャ!」
「猫ってそんな伝承文化があるのか?」
「いちいち感心しなくていいニャ。マガティの話ニャ。そしてマガティは江戸時代に、元あった場所の地下百尺、つまり今でいう地下三〇メートルだニャ、そこに埋めて管理されることになったニャ」
「いや俺は雲州大社の宝物殿で見てるかもしれないぞ、その勾玉。勾玉があった。そっちの方がマガティより大きくて立派だったぞ」
「宝物殿にあるのは、宝物殿公開の時にミャンマー産のヒスイで作ったダミーだニャ。高級なヒスイではあるニャが、マガティのような能力は備えていないニャ。本物のマガティは地下に埋められていたニャ」
「ますますわからん、俺は雲州大社の境内なんてほじくってない」
「だろうニャ。なぜならマガティ自身が自ら、君の前に現れたからニャ」
「は?」
「マガティは、石の下に収めていた時代からそうだったが、時々『逃げ出し』をしていたニャ。手を焼いた雲州大社は四〇〇年前、松江藩の協力を得てマガティ管理方法の研究開発をしたニャ。それ以来、マガティは厳格な管理がなされるようになったのニャ。つまりは地下深くに埋められるようになったニャ。だがその管理も四〇〇年目にして破綻してしまったニャ。そして地上に現れたマガティは君を見初めたニャ」
「見初めた?」
「気に入ってくれたってことだニャ。君は『マガティを拾った』と思っているだろうニャ、本当は逆で、マガティが君を『選んだ』ニャ」
「クリ目、なぜそんなことを知っている?でたらめ言ってないか?」
「馬鹿にするニャ!人間と違って猫は何でも知っているニャ!猫を舐めるニャ!」
「それはすみません」
「ちなみに本物の、つまり今君が持ってるマガティは、さっきも言った通り、外国産ではなくて日本国内、高志国(こしのくに)奴奈川郷(ぬなかわごう)、今風に言うと新潟県糸魚川市付近で採掘されたニャ。古代日本では高級なヒスイが採掘され、そのヒスイで勾玉を作る技術もあったニャ」
「はあ。ミャンマー産出でシルクロード伝来、とかじゃないんだ」
「それにしても今回、マガティがなぜ雲州大社の地下から逃げ出してきたのかまでは、僕にもわからないニャ」
「もしかして、貧乏で拾いものとか好きそうな俺が通りかかるのを待っていた、なんて可能性はないかな?」
「そうかもしれないニャ。なぜならマガティはお茶目なイタズラ好きだからニャ」
「お茶目なんですか?マガティ……」

 小さな虫が飛んできて、クリ目はぶるぶるぶるんと首を振ってそれを避けた。

「何だかマガティという存在がよくわからなくなってきた。凄いのか凄くないのか。クリ目、君を疑うつもりはないが、正直言って話が大き過ぎて、すんなりとは飲み込めない。ただな、マガティについて俺が思うに、これ、そんなに危険なモノには見えないんだけどな」
「マガティが機嫌を良くして大人しくしているからニャ。君はマガティに気に入られたニャ」
「はあ。それは喜んでいいことなのかな。ともかく俺は、本物をポケットに入れたまま宝物殿でコピーを拝んだってことか?」
「そうニャ。昔の人と雲州大社の人は、マガティの本当の危険性を理解していたニャ」
「危険性ねぇ」
「とにかくニャ、彼女の画策、犬による湯河原町支配は何としても阻止するニャ。でないと君も幕山で路頭に迷うことになるニャ」
「本当に本当か?」
「猫の勘は当たるニャ。それに今回は情報も確かな筋から入って来たニャ。間違いないニャ」

 突飛な話だが、クリ目の言葉には力強さがある。

「で、どうすればいい?」
「彼女の手に渡る前に、マガティをもとあった場所に戻してくるニャ」
「すぐには無理。旅費もないし」
「君は野良生活をしたいのニャ?」
「そんなことないけど……俺、そもそもマガティを拾った時点で既に、もの凄く悪いことしていたってことか?」
「そうとも言えるニャ。ゆえに君が責任を取って、雲州大社に返しに行くまで、目を離さず確保し続けるニャ」
「宅配便で雲州大社に届けよう。送料なら払える」
「ダメニャ。あくまでマガティに気に入られた『拾った当人』が持って行くニャ。そうしないとマガティは途中で逃げ出すニャ。マガティはお茶目だからニャ」
「なんて面倒な奴なんだ。じゃあ返しに行くまで家に置いておこう」
「それもダメニャ。家を荒らされるニャ。今までの色んな家の被害は、多分『練習』ニャ」
「ちょっと待てよ?彼女に限らず、俺以外の第三者、たとえば君の言うプードルだな、そいつががマガティを手に入れても、第三者の手に渡った瞬間、マガティは『逃げ出す』んじゃないか?だって『拾った当人』とは別人なんだから。あとはマガティの行きたいところに好きに行かせておけば、そのうち巡り巡って雲州大社に戻るんじゃないか?」
「何のんきなことを言ってるニャ!それがそう簡単な話にはならないニャ!マガティは気まぐれな性質があって、『逃げ出さない』ときもあるんだニャ!それが彼女の手に渡っている時だったらどうするニャ!」
「ふーむ。手提げ金庫にでも入れるか?」
「手提げ金庫なんぞ無意味ニャ。金庫の外からでも使えるのニャ」
「俺が持ち歩くと狙われないか?」
「彼女も馬鹿ではないニャ。いかんせんプードルニャ。大勢の人間が居るところでは、多勢に無勢で捕獲されるニャ。だから君が大勢の人間の中でマガティを持ち続けるのが、とりあえず得策ニャ」
「しかしだな、なんで俺がそこまで」
「拾ったのは君だニャ。責任を取るニャ」
「責任責任って、簡単に言わないでくれ、俺はごく普通の高校生だよ、湯河原町民二万四千人の責任なんて荷が重過ぎるじゃないか」
「文句を言っても始まらないニャ」
「まあそうだが……ともあれ、今日はありがとう。クリ目には本当に色々お世話になるよ。カツオブシでも食ってくか?」
「人間の部屋は落ち着かないニャ」
「じゃあニボシを持ってくる。どこか好きな場所に持って行って食べてくれ」
「ありがたいニャ」

 ところが危機は案外早くやってきた。

   ……

 窓を叩く音で目が覚めた。
 時刻は夜の二時。

「うぅーん、だれぇ?」

 朔も目を覚ました。

「何なんだこんな時間に。クリ目か?」
「え?クリ目さんいらしてるの?」
「なあ朔、クリ目とはどのくらい親しいのか?」
「どこまでも親しくなりたいのよぉ!この辺で一番素敵な雄猫、クリ目さんよ!あーあたしなんで人間なんかになっちゃったんだろ?猫ならすぐにまた乗っかってもらって」
「あのね何を言い出すんですかお嬢さん」

 窓を叩く音が、だんだん激しさを増して来た。
 うち貧乏なんだ、ガラス割らないで欲しい。

「クリ目、何をする」

 カーテンを開けて唖然とした。
 窓を叩いていたのはクリ目ではなかった。
 老婆。ボロボロの着物をまとって、土色の顔をしている。強烈な赤の口紅。
 白銀色のウェーブがかった長髪が薄気味悪く絡み合っている。白銀色?それで思い出した!プードルだ!しかしこれはどう見てもプードルではない。遠野物語で読んだ山姥そのもの。クリ目の言っていたプードルが、マガティを使って山姥に化けている?
 その山姥がガラスを叩いている。左肩に担いでいるのは、斧?
 お巡りさん銃刀法違反の老婆です、一一〇番、いや自衛隊を呼ぼう、自衛隊の電話って何番だ?

「シャアアアアッ」

 朔が牙を出して威嚇する。
 ふと、山姥のノックが止んだ。何やってんだ?と思っていたら、山姥は担いだ斧を両手に持ち替え、重そうな刃先を振り上げた。おいまて窓ガラス、いやああああ!
 大音響とともにガラスが砕け、山姥が飛び込んで来た。
 マガティ!
 しまった、マガティは机の上だ。マガティは、ぼんやりと光を発している。やめてくれぇ!お前が光るとろくなことがないんだ!間違いない、マガティを使って山姥に化けたんだ、プードル。
 その時、もう一つの何かが飛び込んで来た。

「クリ目!」
「クリ目さぁん!」

 山姥の後ろで構えていたらしい。クリ目は山姥を追い抜いて机に飛び乗り、マガティを飲み込んだ。
 え?
 飲み込んじゃったよ、おい……一瞬のタイムラグの後、クリ目が閃光に包まれた。俺はまぶしくて目を閉じた。多分朔も。
 やがて光が引くと……

「あれ?君、ホントにクリ目?」
「クリ目さん!やっぱり素敵よ!肉球なめさせて!」
「なめてどうする」

 そこに現れたのは体長二メートル以上ある虎。だがその模様は黒と黄色ではない。灰色濃淡の縞。瞳は青。模様と瞳がクリ目の証拠。上あごから太くて長い牙が生えている。ただの虎じゃない。絶滅したサーベルタイガーって、こういう感じだっけ?

「クリ目、だよな……」

 虎は何も答えない。
 巨大な牙の虎と、斧を構える山姥。無言で睨み合う。山姥の斧の刃は人間の頭くらいある。

「クリ目、この山姥の正体、お前の言っていたプードルだよな?」
「……そうニャ」

 敵意むき出しで山姥が言う。

「人間にすり寄る半端者めが!」

 クリ目はともかく、なぜ山姥の犬語がわかるんだ?俺。
 クリ目は、俺にはもともと猫と話せる潜在能力があって、マガティのおかげでクリ目と話せるようになったと言った。だが犬語なんて知らん。なぜなんだ?俺の頭からは、夏の花火大会のように疑問符が大連発だが、遠巻きに両者を見守ることしかできない。朔はベッドの上で毛布を被って、目だけ出している。

「すり寄っているのは認めるが、これでも野良ニャ」
「お前に『野良』を名乗る資格は無い」
「町はみんなのものニャ。ボクらは勝手に町をひっくり返したりしないニャ」
「あたしを大切にしてくれたじいちゃんは子供達から見放されてひとりぼっちで死んだ。それからあたしは邪魔者同然で山に置き去りにされた。もう人間社会は嫌だ!この町を犬の町に作り替える!」
「気の毒だとは思うニャ、でもマガティは渡せないニャ」
「……」
「……」

 両者無言のまま睨み合いを続ける。部屋の空気が凍り付く。ただの睨み合いじゃない。この山姥も正体は野犬、野生同士の勘があるのだろう、互いの命を狙うタイミングをはかっている。
 山姥は斧を構えたままクリ目に対峙している。額に一筋の汗が光る。そりゃそうだろう、そんな重いものいつまでも持ちあげていられまい。
 山姥は早く決着を付けたかろうが、斧の刃が届く範囲は限られている。何より、一度は斧を振り上げねばならない。そして一度でも失敗すれば、再び斧を持ち上げるまでタイムラグが生じる。その隙にクリ目が飛びかかれば、太い牙は確実に山姥の喉を貫く。
 クリ目が距離を詰める。じりじりと。舌を出して、ぺろりと長い牙を舐めた。クリ目の下あごからねっとりとしたよだれが垂れる……

「キエーッ!」

 クリ目が斧の射程に入ったと見た瞬間、山姥が勝負に出た!斧を大きく振り上げた。すると、

 バァン!バリッ!ガッシャーン!

 山姥の斧が部屋の照明器具を直撃した。爆発音とともに蛍光管が飛び散り、傘が真っ二つに割れた。
 それでもひるまず山姥は斧を振り下ろしたが……

 バチッ!バリバリバリ!

 斧が傘の上の電線を引きちぎり、銅線をむき出しにした。山姥の斧を交流一〇〇ボルトが直撃する。フラッシュのような青白い火花。感電。白煙。焦げた臭い。驚いた山姥が斧を手放した瞬間、クリ目が飛びかかる。部屋の隅に逃げる山姥。クリ目は山姥を頭突きで押し倒し、前足パンチで山姥を仰向けにひっくり返すと、山姥の腹に跨がった。そして山姥の喉に牙!
 勝負あった!クリ目、そのまま一撃で刺し殺せ!
 だがクリ目は、山姥の喉に牙を立てたかと思うと顎を止めた。
 そして顔を一旦引き離すと、

「びっちゅぅ〜〜〜〜」

 クリ目は口を大きく開けて、山姥の顔をぱっくりと咥えた。顔を飲み込もうとするかに見える。長い牙が山姥の背中に回り込み、山姥の動きをロックしている。山姥はクリ目の口から離れられない。山姥がもがき始めた。酸欠だ。窒息死させるつもりか?しかし何でそんなまどろっこしいことする?刺せ!何のための牙だ!

「ちゅぅぅぅぅ〜〜〜〜」

 間抜けな音を立ててクリ目が何かを吸っている。
 やがてクリ目のお腹が強く光ったが、光はじわじわと弱くなっていった。山姥の様子がおかしい、少しずつ体が縮んでいる、手にも薄汚れた白い毛が生え始めている。そして、尻尾?
 クリ目は、大きく口を開けて、何となく縮んでしまった山姥の顔を解放した。

「豆、伝言があるニャ」
「何だ?」
「朝五時、勝手口の前、カツオブシの場所、そこに行くニャ、必ずニャ」

 それだけ言い残すとクリ目は、山姥から飛び降り、一旦距離を置いた。そして改めて飛びかかる姿勢を取った。その隙に山姥は窓から飛び出した。クリ目は山姥を追うが、動きが緩慢。わざと逃がしているようにも見える。窓から外を見ると、山姥の遠ざかって行く後ろ姿は、既に中型のプードルだった。二匹は屋根伝いに走って行き、やがて見えなくなった。
 俺の部屋には、焼け焦げた斧と砕けた蛍光管が残された。窓のガラスも粉々だ。

「まったく何て迷惑な連中だ、一気に不燃ゴミが増えたじゃないか。湯河原町は月に一度しか不燃ゴミを回収してくれないんだ。一体何だったんだ?今のは」

 毛布から顔を出して朔が答えた。

「クリ目さんは殺生をしたくなかったのよ」
「最後に飛びかかろうとした」
「あれはわざと逃がしたのよ」
「逃がしたらまた来るじゃないか」
「来てももう、ただのプードルよ。そこがクリ目さんだわ」

 朔がとろんとした目で言う。
 そんなに好きなのか?

「クリ目さんは、山姥に変身していたプードルを、マガティを使って元に戻していたのよ」
「何でわかる?そんなこと」
「お腹のマガティが光ったでしょ?プードルから変身能力を吸い取ってマガティに戻していたのよ」
「その目的もあってクリ目はマガティを飲み込んだのか?」
「まあそういうこと。多分」
「でも虎になっちゃったじゃないか、クリ目。はぁ、今日は山姥、明日は虎に襲われるなんてことになるのか」
「クリ目さんはクリ目さんよ。あたし達の見方」
「そう願いたいね、朝の五時だっけな、あと二時間半しかないじゃないか」
「あたし寝る」
「俺も部屋片付けたら寝る」

   ……

 朝五時。
 俺は朔と一緒に外に出た。ええと、勝手口の前だっけ。
 これは……
 激しく香ばしい猫のフンが、湯気を立てながら、ぼんやりと光っている。

「朔、割り箸持ってこい」
「あたし手で触れるよ」
「触らんでええ!」
「いや平気だから」

 朔は「いつものことよ」と言わんばかり手を伸ばし、人差し指でにゅるりとフンを突ついて押しつぶした。
 中から出て来たのはマガティだ。

「あい。手を出して」

 ?

「これ、大事にしようね」
「わぁ乗せるな!石鹸で洗いなさい!」

 だが既に遅かった。湯河原町民二万四千人の運命が、すっかり香ばしくなって俺の手に乗った。
 どうすりゃいいんだ。放り出す訳にもいかないし、かといってこれでは……ニオイが目に滲み始めた。

「とにかく洗え!」
「OK、あたしクリ目さんのうんこなら平気。舐めたっていい」
「レディはそういう言い方よせっ、てゆーか、舐めるな危険だ、食中毒起こす」
「あれこれうるさいねえ、ちょっと洗ってくる」

 朔は、うろたえる俺の手からひょいとマガティをつまみ上げると、玄関前の散水用水道に持って行った。俺も一緒について行った。朔はマガティを、俺は手を洗った。
 それから朔は、もう一度、家の洗面所でマガティを、薬用石鹸を使って洗浄した。俺ももう一度手を洗った。

   ……

 朔に洗ってもらったマガティを、俺は机の上に置いてみた。マガティは薄ぼんやりと光っている。昨夜の騒ぎの余韻だろうか?よくわからないけど、これって、またもや「気配を発信」してるって状態じゃないだろうか?また厄介な奴に察知されたら……

「なあ朔」
「なに?」
「これ、どうしたらいいと思う?」
「うーん」
「クリ目が言うには、これはとてつもないものらしいんだ」
「そうみたいね、何しろ飲み込むと虎になっちゃうんだから。犬山のこともあったし、あたしの転換にも関わっているし」
「いやそれがさ、クリ目の説明によると、そんな穏便な作用だけでないらしい」
「クリ目さんと話したの?」
「ああ」
「何であたしも呼んでくれなかったのよ!クリ目さぁん、クリ目さぁん、くりくりクリ目さぁああん!」
「あのねそのとき君は寝ていたの。起こすの悪いと思ってさ」
「こんど来たらあたしも呼んでね」
「それで、何でもクリ目が言うには」
「クリ目さぁん!君は、いつの間にそんなにクリ目さんと親しくなったのよ」
「いちいち『クリ目』に反応するな、あと、親しいというか、以前から勝手口の前でカツオブシとかご馳走してたんだ」
「本当に、今度また来たらあたしも呼んでね」
「それは分かった。頼む、話を戻させてくれ」
「あいあい」

 俺は一つ咳払いをしてから、話を続けた。

「そもそもこの勾玉は、春休みに俺が雲州大社の境内で拾ったものである。そのあたりはお前も何となく分かっているみたいだが、クリ目の説明によれば、俺たちが持っているべき性質のものじゃないらしい」
「どうすればいいの?」
「雲州大社に返しにいけ、という」
「ウンシュウタイシャ?」
「島根県出雲市にある」
「シマネ県イズモ市って真鶴より遠い?」
「無茶苦茶遠い。てゆーか真鶴と方角逆だし。お前、地理に弱いな」
「真鶴より遠くに行ったことないんだもん」
「これの名前『マガティ』を最初に教えてくれたの、お前じゃないか。雲州大社を知らないのか?」
「超科学的なもの、ということと、『マガティ』という名前しか知らない」
「ふーむ。ま、とにかく雲州大社ってところは、ちょっと朝、学校に行く前に、って訳にはいかない。新幹線乗って岡山駅で乗り換えて、行くだけで半日以上かかる。高速バスだと一晩かかる」
「面倒くさいなあ」
「でもとにかくマガティには危険な性質があって、扱い方によっては犬が町長と入れ替わったりする」
「そんなこと出来るの?」
「クリ目が言うにはそうらしい」
「クリ目さんの言ったことなら信じるわ、私」
「お前、教祖になれそうだな、クリ目教の」
「君ってクリ目教の経理担当して使い込みとかしようとしてるでしょ」
「俺、そんなに信用ないかな?凹むなあ……」

 ふと思ったんだけど、俺って一体、朔に何を期待しているのだろう?建前としては双子の姉だが、本当は血の繋がりのない異性……ヤヴァいヤヴァい、本当にもう、朔を猫に戻す方法はないものか……

「……いやいやいや冗談冗談、ごめんごめん、っていうか、ええと、それであたしたち何の話してたんだっけ?」
「すまん、俺も忘れかけてた。とにかく俺としては、マガティを早急に雲州大社に返しに行きたい」
「でも遠いんだよね、学校に行く前に早起きしてちょっと返しに行く、って訳にはいかないんだよね」
「そうなんだ。そこが問題だ。という訳でマガティは近い将来、雲州大社に返しに行くとして、さて、今月は中間テストがあるし、クラス対抗合唱祭も近いし、それが終われば期末テストだ。俺たちも結構忙しい。第一、旅費がない。うちは貧乏だ。小遣いを貯めるにせよバイト始めるにせよ、夏休みの終わり頃までは雲州大社まで返しに行くのは無理だろう。返すまでの間、どうしたらいいものか」
「今までどおり持ち歩くしかないね」
「それもどうかと思って。俺は今まで、これがそんなに重大なものだとは思わなくて、無造作にポケットに入れていた。でも、もしもだよ、ポケットに穴が空いたらどうする?俺、ポケットの穴に気づかなくて五百円玉落としたことあるんだ。あの悔しさは一生忘れない」
「五百円玉どころじゃないね、マガティ」
「そうなんだ。あと、体育の時間とか着替えている間はどうする?盗まれないか?確かにプードル山姥は学校には来なかった。でも、今まで無事だったのは奇跡かもしれない」
「悪い奴に狙われたりしたら、怖いよね」
「今回はクリ目が追い払ってくれた。けれど、いくらクリ目とはいえ今後も絶対に助けてくれるとは限らない」
「そんなことないよクリ目さんは」
「いや考えても見ろ、クリ目は常時俺たちを見張っている訳じゃない。彼には彼の生活がある。それに、たった一人の山姥でも、俺たちはクリ目の協力なしでは太刀打ちできなかった。相手は単数とは限らない。野犬が急に集団で攻めて来たらどうする。こっちのベストメンバーだってすぐには集められない」
「そこまで考えなかった。いくらクリ目さんでも守りきれないね」
「何しろマガティは、古代から現代まで厳重に管理されてきたし、これからも管理すべきものだそうだ。俺は本当に困っている」
「深刻だよね」
「そうなんだ」
「そんな危険なものを、どうしてあたし達が……あ、そもそも君が拾ったからじゃん、一番悪いのは豆、君だ」
「そんな責めないでぇ」
「君が責任をもって管理しなさい、返すまでの間」
「その責任の取り方というか、これ、どうしたらいいと思う?家に置いといて、泥棒に入られたら洒落にならない。さがみ信用金庫の貸金庫を借りればいいのかもしれないけれど、信用金庫の窓口が開いている時間、俺たちは学校に行かなきゃならない」
「お母さんに頼んで預けてもらおう」
「あのさ、信じてくれると思う?君が猫から人間に転換した、そのくらいまでは信じてくれたけれど、この小さな勾玉に町の住民全員の運命がかかってるなんて、信じてくれるだろうか?それに貸金庫って、一番小さい奴でも一年で一二九六〇円もするんだよ。うちは貧乏で、一二九六〇円といったら牛丼が三四杯分だよ?それに母ちゃんが貸金庫に持って行くまでの間に襲撃される危険性もある」
「うーん、発想を転換したら?」
「発想の転換?」
「返しに行くまでの間、豆ちゃんの首から下げといたら?」
「お前、俺の首に町民二万四千人の運命をぶら下げろっていうのか?」
「私の言いたいことはね、第一に、返しに行くまで肌身離さず管理すべきだろうってこと」
「ふむ、それは何となく納得が行く」
「第二に、君が襲われないためには、なるだけ多くの人が居て、いざという時に助けを呼べるところでマガティを持ち続けたらどうかということ」
「あ、それ!クリ目も言ってた。『君が大勢の人の中でマガティを持ち続けるのが、とりあえず得策ニャ』って」
「さすがぁ!クリ目さん」
「そうか、幸いこれは勾玉の形をしているというか、ほら、ここに穴がある」
「あるね」
「ここに紐を通して……やっぱり首から二万四千人ぶら下げるのは気が重いなあ……」
「ごちゃごちゃ言わない!男でしょ?クリ目さんなんて飲み込んじゃったんだよ!その間、短い時間だったかもしれないけれど、クリ目さんはちゃんと二万四千人を守ったんだよ!君も見習いなさい!」
「うん。命がけで山姥と戦ってくれたクリ目の心意気を、この首に下げて引き継ぐことにする」
「そうこなくちゃ!」
「でも紐っていっても、しっかりした紐じゃないとヤヴァいよな、切れて落っことしたら大変だ」
「お母さん、何か持ってないかな?ペンダント用のチェーンとか」
「ナイス。そうだ母ちゃんに相談しよう」

   ……

「……という訳なんだ。それで、何でもいい、首から下げるペンダントのチェーン貸して欲しいんだけど」

 俺は、まだ眠っていた母ちゃんを叩き起こして相談した。

「あー、あのね、チェーン持ってるけど、そんなもの下げたらチェーン切れるよ?」
「あ?そうなの?」
「学校の門にカギをかけるみたいなぶっといチェーンならともかく、ペンダント用のチェーンって細いのよ」
「うーん、それは盲点だった。朔、どうしよう」
「お母さん、革ひも持ってない?」
「あるよ。ちょっと待ってて」

 俺は「は?」としか言いようがなかった。

「革ひもって弱そうな気がする。やっぱり金属の方が強いんじゃないか?大丈夫なのか?」
「君は生物の凄さを知らないね、動物の皮っていっても色々あるけど、あたしたちの身の回りにある皮革製品っていったら、牛か豚でしょう、牛や豚の皮革製品は丈夫だし、汗に濡れても錆びないんだよ」
「そう言われてみるとそうだな、気づかなかった。さすが未来の獣医さんだ」

 母ちゃんは押し入れをしばらくごそごそやっていたが、やがて戻って来た。出て来たのは、幅三ミリくらい、厚さ一ミリくらいの細い革ひもだ。

「信用しない訳じゃないけどさ、ちょっと引っ張ってみていいかな?」

 朔は自信を持って答える。

「馬鹿力ださなきゃ大丈夫だよ。マガティ自体そんなに重いものじゃないでしょ?」

 俺はおそるおそる革ひもを引っ張ってみた。おお。これは意外に丈夫そうだ。

「ありがとう。これしばらく借りるよ」
「あとで返してね」
「OK」

 マガティの穴に革ひもを通してみる。
 朔がそれを手に取り、表彰式なんかの時に流れる曲を口ずさみながら、俺の首に掛けてくれた。

「うーん、何か大統領になったみたいな気分だ」

 朔が問う。

「大統領になったら何したい?」
「やっぱ、増税かな?」
「あのねもっと夢のある話は出来ないの?」
「大統領の給料は税金だろう?充分夢がある」
「政治家にだけはならないでね、日本がろくでもない国になりそう」
「まあそういう野望を持つようなタイプではないよ、俺は」
「てゆーか日本国大統領って何よ。ぷっ。馬鹿じゃない」
「あのねそのくらい知っててわざと言ってんの、日本国は議院内閣制で大統領制ではございやせん」

 母ちゃんがぼそっと言う。

「朝から仲いいね。で、豆。お腹、光ってる」
「え?」

 言われて見ると、確かにマガティがぼんやりと光っている。ペンダントにしたマガティは、Tシャツの内側に下げてみたのだけれど、Tシャツが透けている。
 ヤヴァいなあこれ。学校にこんなもの持って行っていいのかな?生活指導のカネコに没収されないかな?

「あのー、朔様」
「何よ」
「これどーしたらいーでしょーか?」

 そこでまた母ちゃんのツッコミ。

「豆、何か困ったことがある度に朔ちゃんに相談してない?」
「すまん、つい他力本願で」

 朔はさらりと言う。

「上着着ればいいじゃん」
「そうか。ブレザーのボタンを閉じれば見えないな。よしよし。ナイス」
「あんたたち本当に、仲いいね」
「……」
「……」

 母ちゃん、眉間に「ちょん・ちょん」と小さく縦じわ。昨日は残業だったし、今朝も朝っぱらからたたき起こされて機嫌がかなり悪くなっている。

「朔!母ちゃんにコーヒー!冷凍庫の新しいのを開けて豆から挽くんだ!」
「あいあ〜い、コーヒーメーカーね!」

   ……

 その日は少し暑かったけれど、俺はマガティのことがあるので上着を脱げずに一日を過ごした。やっぱり重いです、二万四千人。
 朔は「ボディーガード」と称して四六時中俺の側に居た。
 学校の帰り道、ふと思い出したことがあったので朔に訊いてみた。

「あのさ、朔って髪、長いよな、三つ編みとか出来る?」
「へぇ〜!豆ちゃん三つ編み萌えなんだ」
「いやちょっと思っただけで」
「三つ編み萌え!三つ編み萌え!いやーんエッチぃ!」
「何がエッチなんだ!」
「ご町内の皆さーん、三つ編み萌えの十五歳がやってきましたよ〜ご注意くださ〜い!」
「うるさい!ちょっと聞いてみただけだ!」
「そんでもって本当はおっぱい星人でしょう!あたし忘れてないから!人間に転換した時、つんって触ったでしょ!」
「すみませんすみませんそれだけは見逃してください」
「いやぁ〜ん豆ちゃん三つ編みおっぱい萌え!三つ編みおっぱい萌え!あたしここちょっと三つ編みにしちゃおっかな?!」
「うるさいなあ、もぉ、てゆーか恥ずかしいからやめてくださいお願いしますお願いします」

 キラーン!

「熱ちいっ!」
「ねぇかわいい?かわいい?」
「マガティ使って三つ編みするな!」

 朔が顔を寄せる。

「『かわいい』って言いなさい!」
「ヵ、かゎぃぃ……」
「今『キュン』ってしたでしょ!『キュン』って!」
「……ぅ、ぅん……あのぉ、ハグしていい……?」

 するりと身をかわして朔が振り返る。

「べぇ〜だ!君には二五六万年早すぎるのよ!ハグなんかしたら一〇〇万キロワット放電してやる!」
「何でだよ!腕枕はOKな癖に!」

 ……

 その日、マガティに関しては特に変わったことはなかったけれど、夕方、なんだかどっちゃりと疲れた気分で俺は家に帰って来た。
 畳に倒れ込むと俺は、制服を脱ぐことさえせずに眠ってしまった。
 朔も多分寝ていたと思う。朔の昼寝というかお夕寝は毎日のことだから。
 窓を叩く音で目が覚めた。
 また山姥か!?
 俺は全身の血が逆流した。
 勘弁してくれ、今日の昼間に窓ガラスを入れ替えてもらったばかりなのに。
 カーテンを開けて安心した。

「やあクリ目君、昨夜はお世話になった、ありがとう」
「馬鹿野郎!のんきなことを言ってる場合じゃないニャ!」
「朔、起きろ、クリ目が来たぞ」
「え!え!ホント!うわぁい!ウェルカムウェルカムクリ目さん!」
「はしゃぐニャ!二人ともそこに座るニャ」
「あ!クリ目さん……分かった、そうする」
「え?何が分かったんだ?」
「マガティすぐ返せって。雲州大社に」
「なんじゃ?そりゃ?夏休みじゃダメなのか?」

 クリ目が怒る。

「朔ぴょんはすぐに理解したようだが、君はつくづく馬鹿というか、いちいち説明しないと分からない奴だニャ」
「人間は言語を通じてしかコミュニケーション出来ないんだ、怒らないで説明してくれ」
「今すぐ湯河原駅に行くニャ!今日の夜行で雲州大社に行くニャ!」
「夜行?湯河原から雲州大社に行く夜行バスなんてあったっけ?」
「熱海まで各停に乗って、そこから今夜のJR夜行特急『サンライズ出雲』出雲市行に飛び乗るニャ!」
「明日学校」
「学校なんかどうでもいいニャ!それから朔!お前もマガティを知っているなら豆を今すぐ雲州大社に向かわせるニャ!」

 朔がきょとんとして言う。

「そこまで急がなくてもいいんじゃないかな?今日だって何もなかったし」
「お前は人間に転換して、魂が曇ってきたニャ!」
「どうせ人間は魂が曇ってますよ」
「拗ねてる場合じゃない!豆!大変なことになったニャ!マガティが強度に気配を発信してしまったニャ!」
「朔、今日、マガティ使ったか?」
「ない。使ってない」
「じゃあ……」
「ちびるニャ。上級生にいじめられそうになったのニャ。その時たまたま豆が壁の裏にいたので、マガティを使って巴投げを掛けたニャ」
「あの馬鹿、太いズボンなんかはいてるから目を付けられるんだ。それにしても巴投げって柔道の技じゃないか、ちびるの運動神経ならマガティなんか使わなくても出来るだろう」
「四人まとめて巴投げという、意味不明の大技だったニャ」
「あーそりゃマガティだな」

 やれやれ。

「とにかくちびるが、やっちまったニャ。君たちは危機感がなさ過ぎニャ!」
「はあ。で、ちびるの行動って、俺たちの危機感とどういう関係が?」
「君はつくづく説明しないと分からない奴ニャ!今度はパウンドドッグの連中がマガティを使って人間を拘束して、一パウンドずつのソーセージにして喰っちまおうとしているんだニャ!」
「またパウンドか?しかもソーセージ?なんだそりゃ?」
「ソーセージの方が骨付き肉より身があってウマいということニャ!」
「しかし何で一パウンド?五〇〇g弱なんだよな、人間の体重って平均五五キロくらいあるはずだろう?」
「まだ分からないかニャ?あまりにもエゲツナイので言わなかったのニャが説明が必要ニャ?なら言うニャ、人間の肉で一番美味しい部分をそぎとり、次に人間の臓器」
「待て!待て待て待て!やめろクリ目!俺そういうの苦手なんだ、スプラッタ系っての?さぶいぼが立つ」
「さぶいぼって何ニャ?」
「鳥肌ともいう」

 俺はふと、マガティがぼんやり光っていることを思い出した。

「あのさ、マガティの話に戻りたいんだけど、実は今朝から光ってたんだ、マガティ。それも何か問題だったかな?」
「マズいニャ!マズいニャ!マガティはもう気配を全国に発信しているニャ!もう湯河原支部レベルじゃないニャ!パウンドドッグの全国組織にマガティの存在がバレてしまったこと確定だニャ!何十万匹と居る日本中の野犬が結集するニャ!湯河原町民二万四千人どころじゃないニャ!日本国民一億二千万ソーセージの危機ニャ!」

 話が大き過ぎる。正直、怖いというより、お間抜けに聞こえる。
 ん?ちょっとまてよ?マガティは朝から光っていた?もしかして昨夜から光り続けていたのではないか?だとすれば……

「あのさクリ目、結局今日、ちびるがマガティ使って云々って、些細な問題だったんじゃないの?」
「黙れニャ!」
「いや黙らんぞ、ちびるの不始末より大きな問題が発生しそうで、それは昨夜、クリ目がマガティを使ってプードル山姥と戦ったことことが直接の原因だろう?」
「うるさいニャ!君は誰に助けてもらったと思っているニャ!」
「助けて貰ったのは事実だ、礼を言う。だがお前も失敗したってことだろう?マガティは既に、お前のお腹の中で強度に活性化してしまった。自分の失敗をうやむやにするために、ちびるの話を先に持って来るとは、クリ目も人間並みに姑息な奴だニャ」
「お前はこの緊急時に人の揚げ足しか取れニャいどうしようもない奴ニャ!豆は、もういい!朔、ボクの命令ニャ!豆を今すぐ駅に連れて行って、サンライズ出雲の切符を買わせて、マガティを雲州大社に返しに行かせるニャ!」
「アイアイサー!豆!行くよ!」

 あーこりゃダメだ、クリ目に「命令」なんかされた日には、朔は喜びのあまり、命令に逆らうはずがない。

「分かったよ。元々俺はそんなに几帳面な生徒じゃないんだ、明日の学校なんかどうでもいい。一億二千万の安寧のためだ、ということで、学校なんかサボってやる」

 俺、半分ヤケクソモード。
 と同時に、実はちょっと脳裏をよぎった、ことがある。
 マガティを雲州大社に返す?そうするともしかすると、朔は猫に戻るのではないか?

   ……

 クリ目に命令された後、俺は母ちゃんに相談した。小遣いを前借り出来ないか、と。
 で、結論から言うと、わずか一ヶ月分の前借りが限界だった。これじゃ出雲市まで行けない。
 しかも金銭問題が未解決のまま部屋に戻って見ると……

「おい、遠足じゃないんだぞ」

 朔、ちびる、なっちゃん。
 三人とも旅支度を整えて待っていた。

「仲間外れは許さない!罰金だから!」

 朔が言い放った。なっちゃんも言う。

「あたしも雲州大社って行ってみたい!雲州大社ってマガティの管理者なんだよね!それなら猫人間のことも何か知ってるかもしれない。あたし他の人ともお喋り出来るようにお祈りしてみたい!」

 雲州大社行きの話は、俺が母ちゃんに小遣い前借りの交渉をしている間に、朔が二人に話したらしい。あー田舎だなあ、隣近所プライバシー筒抜け。ただ、なっちゃんの理由は確かにちょっと切実かもしれない。

「ぼくも行っていいよね、マガティ使っちゃった責任があるから、旅行中の食事代はぼくが全部払うよ」
「ちびる!そもそもこうなったきっかけはお前が昼間に……てゆーか、偉そうに『セキニン』言うな、お前の本音は『セキニン』ではなく旅行の『メイモク』だろう!」

 朔が仲裁に入る。

「まあまあ、旅は道連れ世は情けと言うじゃありませんか」
「遊びに行くんじゃないんだぞ!」
「そんな冷たいこと言わないでぇ」
「よし、付いてくるのは勝手だ、来たらいい。そのかわり電車の切符代は」
「豆ちゃん持ちね!わーい!大統領!」

 朔が勝手に俺を、大統領という名の「切符代支払担当」に命じてしまった。お前ら、俺が本当に日本国大統領になったら、消費税百倍にしてやるからな。
 それから俺は、ネットで検索して湯河原から出雲市までの切符代を調べたのだが……たまげた。一人あたり往復約三万円。サンライズ出雲には「ノビノビ座席」という割安な席があって、その「特急料金」という名の宿泊料は大した額ではないのだが、電車の基本料金と言うべき「乗車券」が高い。
 そうだ父ちゃんだ!
 父ちゃんなら、現金は持っていなくてもクレジットカードを持っている。
 父ちゃんは今、在宅で仕事をしている。鬱病を患い、勤め仕事が出来ないからだ。その鬱病の原因は、バブル景気の頃に超ブラック系デザイン事務所に就職して扱き使われたことが原因。でもそこで一つだけいいことがあった。クレジットカードだ。ブラック企業とはいえ会社員なのでカード会社の審査が甘かった。だから利用限度額が高い。父ちゃんはそう言っていた。それしかない。俺は父ちゃんの仕事部屋に向かう。
 果たして仕事部屋で父ちゃんは、メルマガ制作代行の原稿書きで唸っていた。
 俺は正直に事情を話した。マガティのこと。クリ目のこと。山姥のこと。日本国民ソーセージ化の危機。そして、クレジットカードを借りたいということ。

「俺は非科学的な話を頭ごなしに否定するタイプではない。お前の切羽詰まった話し方から察するに、多分全部本当のことなんだろう。マガティとやらも。朔も人間になっちまったしな」
「信じてくれるだけでもありがたや」
「だがな、カードはダメだ」
「え?どうして?」
「今時はセキュリティが厳しくてな、クレジットカードは例え家族であろうとも他人名義では使えない。偽名もダメだ。高校生がクレジットカードを持っている時点で怪しまれる。駅員さんも馬鹿ではない。サインを求めるだろう。そこでバレる。薬で手が震える俺の乱筆を再現するのは不可能だ」

 俺は絶望的な気分になった。どうしたらいいんだ。

「だが、ちょっと待ってろ」

 父ちゃんはパソコンデスクから離れると、壁に貼ってある昭和の鉄道路線図をぺりぺりと剥がし始めた。
 それ父ちゃんの宝物じゃないか?
 剥がした鉄道路線図を裏返すと、そこに目を疑う風景があった。
 お札が貼ってある。一万円札が、一、二……十三枚?うち三枚にはホログラムが入っていない。いったいいつのお札?

「このお金、どうやって作ったの?」
「俺が何のために働いているか、お前は本当の理由を知らない」
「本当の理由?」
「そうだ。本当の理由だ」

 俺は俺なりに少しまじめに考えてみたが、これと言って思い当たる理由がなかった。

「やっぱ、少しでも母ちゃんを助けるため?」
「それは表向きの理由」
「じゃあ何?」
「裏金づくりだ」
「そちもワルじゃのぉ」
「こういう非常事態に備えて俺は、病気で眠いのを我慢してちまちま仕事しながら、領収書を切らずに受け取ったギャラとか、架空の消耗品経費を浮かせたお金とか、そういうものを地道に積み立ててきた。それが、その十三万だ」
「父ちゃんすまん」
「お前が雲州大社に行って以来、朔は人間になるし、隣の中嶌家には二人目の子供が出現するし、訳の分からないことが多過ぎる。いつかこんなことになるんじゃないかというヨミはあった。だが母ちゃんだって決して高給取りではない。今こそこの非常事態用の十三万を使う時だ」
「このお金はいつか絶対返します」
「無理すんな。それより、そのマガティとやらを見せてくれないか?」

 俺はTシャツの中からマガティを出してみせた。

「お前、これの値段、考えたことあるか?」
「三〇〇円くらいで売ってた、お土産物屋で」
「桁が四つ違う」
「四つ?って、えーと、三〇〇万?」
「四つでは足りんかもしれん。五つ六つ、あるいは値段のつかないレベルかもしれない」
「クリ目って猫も、これは凄いものだと言っていたけれど」
「その猫の言う通りだ。ただものではない雰囲気を発しているじゃないか。科学非科学の問題じゃない。高級なものにしかない質感がある。お前は気づかなかったのか?」
「よくわからん。父ちゃん適当なこと言ってない?」
「バブル世代を舐めるな。俺たちはそれなりに『いいもの』を見て来ている。こういう物もおおよその見当は付く。そいつはただの貴石じゃない。一生に一度どころか数百年に一度のレベルかもしれん」
「父ちゃん、そのバブルの眼力に頼みがある。このマガティが凄いものであるとして、これを雲州大社に返したら、朔は猫に戻ると思う?」
「お前はどうなんだ?猫に戻ると思うのか?というより、戻って欲しいんじゃないか?」
「うん。正直、これはどさくさ紛れに朔を猫に戻すチャンスかもしれないと思って。毎日が刺激的過ぎてたまりません。朔はやっぱり猫であるべきなんだと。でも、これを雲州大社に返しちゃえば、朔は猫に戻るかも、なんて思ったりする」
「正直、わからん。ただ、俺には『モノ』としての価値の高さが分かるだけで、そいつの非科学的効能についてまでは読み切れん」
「やっぱ分からんか」
「まあ何だ、とにかくそいつは返しに行くなり何なり、自分で決着を付けてこい。しかし夜行列車か、懐かしいな。俺が学生の頃には三段ベッドで一泊五千円だった。今はどうなのかな?」

 とりあえず資金問題は解決した。あとはもう、行くしかない。
 俺は自分の部屋に戻った。そしてパソコンを起動して往復のチケットをネット予約した。
 朔は、パソコンの予約画面を覗き込みながら言った。

「ねえねえ、この『熱海行き』に付いてる『グリーン車』って何?猫草とか植えてあるの?あたしそっちの方がいいな」
「説明してやる。『グリーン車』ってのはデラックスでお金持ちが乗る車両だ。俺たちには関係ない世界だ。あとな、猫草の植えてある電車というのは、地球上どこを探しても な い ん で す!」
「まあまあ大統領、あんまり怒らないでよ、豆ちゃあん、初めての『一緒のお泊り旅行』だよ!」

 本来的には学割が効く距離だが、もう夜なので学校で学割証を発行してもらうことも出ない。てゆーか、もし学割証を申請するとして、この急な旅行を担任の先生に何と説明したらいいのか。それどころか、これから俺たちがしようとしている行動は、言わば「無断外泊」で、バレたりしたら停学モノじゃないか?でもいい、何しろ今度は全国レベルで人命が掛かってるんだからな、停学なんざぁ構うもんか。英雄はいつだって後世にならないと評価されないものなんだ。

   ……

 で、四人で夜の湯河原駅に向かい、俺は窓口で現金と引き換えに切符を受け取った。駅には自動販売機タイプの切符受け取り機もあったが、ホログラムなしの一万円札が入るはずもなかった。そして俺たちは、熱海まで各停(もちろん普通車)で移動した。
 各停に乗る前、湯河原駅の売店で夜食用のクロリーメイトを買った。クロリーメイト代は約束通り、ちびるが払った。四人分、湯河原駅の売店で「たったの」八六四円な。
 本当は今回も、春休みの旅行のように夜行バスにしたかった。だが、ネットで検索してバスの渋谷発の時刻に間に合わないことを知った。一方、クリ目の指定したサンライズ出雲は、熱海発が夜の十一時台。間に合う。
 ちなみに帰りもサンライズ出雲だ。これは俺の選択、というか絶対命令。新幹線は高いからパス。夜行バスは渋谷までノンストップで、学校の始業時刻に戻って来れないのでダメ。だが夕方に出雲市を出る上りのサンライズ出雲に乗ると、翌朝六時前に熱海に着く。学校に余裕で間に合う。
 往復夜行になってしまうけれど、別に老人を連れて行く訳ではない。二〜三日徹夜したくらいで倒れるメンバーではなかろう。第一、とてもじゃないけどホテル代までは出せない。それに、学校をサボる日数はなるべく短くしないとヤヴァい。
 さて、深夜の熱海駅に滑り込んで来た「サンライズ出雲」を見て、俺たちは驚いた。
 何この電車、全部二階建て?窓が上下二列になっている。豪華列車?
 乗ってみると、これまた意外にいい。俺たちが切符を買った「ノビノビ座席」というのは、実は「椅子に座る」のではなく「カーペット敷きの二段の床にゴロ寝」をする仕組みだ。
 これ、座席や椅子という名前の設備ではないよ、実質的に二段ベッドだよ。
 バスの座席と比べると、一人当たりの占有面積が広い。寝転がれるのっていいな。寝返りがうてて、ゆったり感がある。
 上段は朔となっちゃん。下段にちびると俺。夜中にトイレに行くとき、女の子の寝顔を覗いちゃマナー違反だからな。それに明日の朝には山陰の風景が見えるだろう。見晴らしのよさそうな上段を二人に譲った。レディ・ファースト。
 切符代は高いけど、意外にいいもんだな。「夜行列車」。その響きには、どこかノスタルジックなものを感じる。これが「昭和の残り香」ってやつか?
 それにしても謎はクリ目だ。クリ目は迷うことなくこの「サンライズ出雲」を指定した。
 熱海駅ホームを滑り出したサンライズ出雲の車窓を眺めながら、俺は、猫という生物の行動範囲について考えてみた。
 朔は「真鶴より遠くに行ったことがない」と言った。それは多分、真鶴のリサ先生の所に電車で連れて行ったことを言っているのだと思う(うちの近所でプリモ先生が開業する前までは、リサ先生が掛かり付けの獣医さんだった)。
 それを別にすれば猫時代、朔の普段の行動範囲は、自宅からせいぜい半径百メートルくらいだ。
 クリ目は雄猫。雄猫は雌猫と違って行動範囲が広い。
 とはいえ湯河原の猫が「島根県の雲州大社」とか「出雲市行きの夜行列車」を知っているものなのか?彼がマガティを知っている理由も分からない。
 そういえばクリ目って、どこから来たんだ?
 クリ目はどこで生まれたんだろう?
 俺はこの、クリ目に関する数多くの疑問を誰かに投げかけてみたいと思ったが、クリ目の名前を出すと朔がうるさいので、とりあえず口に出さないことにした。
 俺はちびるの買ってきたクロリーメイトのプレーン味を囓りながら、車窓を流れて行く信号灯を見送ることにした。

「やっぱクロリーメイトってチーズ味が一番美味しいよね」
「ぼくはチョコ味がいいな」
「あたしフルーツ味が好き」

 最初はキャッキャと騒いでいた三人も、次第に黙りがちになった。
 会話が途切れると、ちびるが車窓を眺めていた。ベッド上段の二人もそうしているのだろう。
 沿線には遠くの街灯りが小さな点になって動いて行く。
 サンライズ出雲の窓は固定式で開けられないけれど、どこからか「夜の匂い」が漂ってくるような気がする。
 俺が最後に覚えている停車駅は浜松だ。夜の一時頃だったかな。浜名湖の養殖ウナギたちも眠っていたに違いない。

   ……

「豆ちゃん豆ちゃん!海が見えるよ!」

 ごん。

「いっでぇぇぇぇぇ!」

 朔に起こされて立ち上がると、俺はサンライズ出雲のベッドの底で思い切り頭を打った。

「大丈夫?」

 なっちゃんが上段から下段を覗き込んだ。なっちゃん、尻尾出てる!尻尾出てる!
 しかしムカチク!何が夜行列車だ!夜行バスは座席からトイレまで立って歩けた!
 大事なことは一人当たりの「占有面積」なんかじゃない!そういうこと喜ぶのはお相撲さんくらいで、一般人は「頭をぶつけない天井」の方が重要なんだよ!バスの倍以上の料金を取る癖になんちゅう設備だ!何が昭和の香りだ!平成生まれでああよかったよ!
 で、朔が言った「海」だが、それは海ではないんだな。宍道湖だ。

「シンジコって何?」
「海にも繋がってるけど、一応、湖だ。お前の好きな『しじみ貝のみそ汁』の具がいっぱい捕れるところだ」
「あたし、しじみ大好き。みそ汁飲みてぇ〜!マジお腹空いた!」

 時刻は九時を過ぎていた。うわ。もう学校始まってるじゃん。
 昨日は色々大変だったし、その上に夜行。くたくたで爆睡していた。俺はちびるに質問した。

「ちびる、朝ご飯はどこで食べればいいんだ?飯はお前の担当だろう?」
「そういえば、この電車、売店とか、ないのかな?」
「……」
「車掌さんに訊いてこい!」

 朔がイライラした表情でちびるに命令した。
 ちびるは、車掌さんが居るであろう列車後部に向かって歩いて行った。(ベッドはともかく、さすがに通路は立って歩ける)

「……」
「何か、聞かなくても回答の全てが表情に出ているな、ちびる」
「ごめんよぉ、この電車、売店も車内販売もありませんだって」
「仕方ないよ、お前のせいじゃない。で、俺たちは何時までこの電車に乗っていればいいんだ?」
「出雲市駅到着は午前十時前……」
「知ってたよ。予約したのは俺だしな。まあいいじゃないか、たまにはダイエットも必要だろ……」
「あーーーーーお腹空いた!ちびる!何で湯河原駅の売店でお弁当買っておかなかったの!」
「べべべ弁当まで思いつかなかったんだよぉ、朝ご飯のお弁当なんて」

 朔の詰問は容赦ない。

「食事係!『セキニン』と言ったよね!今すぐ『セキニン』取りなさい!」

 俺が止める。

「無茶苦茶いうなよ……しかしせめてジュースくらいないもんかな?」
「あ、そういえば飲み物の自動販売機はあったよ!ウーロン茶買って来る」
「バッカモーン!濃厚カフェオレ砂糖たっぷりハイカロリー風味、今すぐ十本買ってこい!」
「出雲市駅に着いたら駅の売店でお弁当を買うよぉ」
「あたしは空腹に弱いのよぉ」
「だろうな、お前、食べるの好きだもんな。ただ、俺が言うのもなんだが、これが旅行というものだ、多分」
「なに?それ」
「英語のTRABELの語源って、知ってるか?」
「知らない」
「TROUBLE、つまりトラブルだ」
「それがなに?」
「つまり旅にトラブルは付き物だということだ。今の俺たちは、トラブルに直面しているという割には被害が小さい。たかが朝飯、しかも食えなくなった訳じゃない、いつもより数時間遅くなるだけだ」
「ちがうわよ!朝ご飯が遅れるんじゃなくて昼ご飯を早めるのよ!」
「お前が何を言いたいのかよくわからんが、TROUBLEの語源は、ラテン語の『拷問道具の名称』に由来するという説もある」
「そうよ拷問よ」
「気持ちは分かるがもう少しの我慢だ、ほら、あと一時間もないじゃないか」
「あたし出雲市に着いたらカレー食べたい」
「朝からカレーか?」
「違うのよ!早いお昼ご飯だからカレーなのよ!」
「出雲市って『ポポ壱番屋』とかあるかなぁ?」
「『ポポ壱番屋』でも『竹屋』でも『六六カレー』でも何でもいい!カレーよカレー!、肉のたっぷり入ったカレーを食べるのよぉ!」
「これは父ちゃんの受け売りなんだが、かつて某私鉄Y駅にあった伝説のカレーライスって知ってるか?」
「知らない」
「そのカレーに肉は入っていなかった。具は、なぜか大量のタマネギだけだったんだ」
「そんなタマネギカレー食べるくらいならカレー味のうんこ食べた方がいい!」
「やめろカレーが食えなくなる」
「あたしたちはこれから雲州大社に行くのよ!タマネギしか入ってないカレーなんか許さない!」
「わかった。これ以上は止そう。昼寝だ昼寝、とにかく出雲市駅に着くまで昼寝をして体力の消耗を防ぐんだ」

 ちびるが力なく言う。

「ここは無人島でもジャングルでもないのに……」
「朔にとっては砂漠も同然だろう」
「そーよそーよ、君もやっとあたしの気持ちが分かるようになって来たわね」
「クリ目ほどじゃないがな」
「くりくりくりくりクリ目さん!クリ目さん!クリ目さんの素敵なところは……」

 あー、しまったツボ踏んだ!言わなきゃ良かった、朔はクリ目の話になると止まらないんだ。
 ん?いやまてよ?
 この大食い娘、クリ目に意識が集中している間は、ブラックホールのような食欲を忘れられるというのか?
 なっちゃんが小声で言う。「グッジョブ」。

  ……

 俺達からすっかり嫌われ者になってしまったサンライズ出雲は、定刻の午前十時前に出雲市駅のホームに滑り込んだ。
 朔が「『駅そば』を食べたい」と言うので、まず四人でホームの立ち食いそばを食べることにした。

「朔、一つ質問があるんだが」
「なぁに?」
「どうして『そば』なんだ?普段のお前は肉星人じゃないか」
「あたしは魚も好きなんだよ。ダシのいい匂いがするなーって。でもあたし一人だったら頼みづらいなと思って。今日は豆ちゃんとちびるが居るからチャンスかなって」
「へ?そうなのか?」
「立ち食いって上品なイメージじゃないし、隣に知らないオッサンとか並ばれたら嫌だし。誰か男の人と一緒でないと食べづらい」
「なっちゃんもそう?」
(こくっ)
「女子の心理ってそういうものなのか」
「そうよ」
(こくっ)
「ふむ、勉強になった。ちびる、無料だからといってネギを山盛りにするのは止めろ……もう遅い感じだけど」
「へへへ、こういうのは貰った者勝ちだよ」
「そばに『勝ち負け』を持ち込むな」
「それよりねえ豆ちゃん」
「なんだ?朔」
「カレー」
「あのなそば食ってる最中にカレーの話題持ち出すな、そばに対して失礼だろう」
「失礼しました。でもカレー。あたし肉食べたい、カツカレー」
「わかった。まあ幸い、時間はたっぷりある、帰りのサンライズ出雲は夜七時過ぎの発車だからな。夕食はカレーにしよう」
「いやん。夕食じゃなくてこのあとすぐにカレー。カツカレー」
「お前の食欲は……ま、いいだろう、俺も遅めの朝食&早めの昼食で、二食分食べていいような気もする。食費は今回、ちびる持ちだったな」
「うぇー、そんなの、ぼく、吐いちゃうよ」

 ちびるの心情はわかる。食欲的にというより、お財布的にそういう気分なのだろう。朔が叱る。

「そんなムーミン谷のスニフみたいなこと言わない!あたし肉食べないと力が出ない!」
「ホントに肉好きだなお前」

 ……という訳で、俺たちはホームでそばを平らげたあと、駅から出てカレーショップを探すことに決めた。
 すると何と!探す必要が瞬時に消滅した!
 出雲市駅の向かい、商業ビルの一階に、カレー屋チェーン店「ポポ壱番屋」が、今日の今日「新規オープン」というポスターを、でかでかと貼り出しているではないか!盛大とは言えないものの生花なんかも飾っている。列車のことといい、カレーのことといい、俺たちは何て運がいいんだ。マガティ、これもお前のおかげか?なぁんてな。

「朔、ここで文句ないよな!」
「もちろんよ!」

   ……

「いらっしゃいませー」

 俺たちは黙って食券を自動販売機で買う。ちびるがお金を入れて、俺たちが好きなボタンを押す。ちびると俺は普通のカレー。もちろん朔はカツカレーだ。なっちゃんは少し考えた後で野菜カレーのボタンを押した。
 朔がふと気づいて言う。

「あれ?ここ店長一人でやってるの?田舎だからかな?」
「あまり田舎田舎言うな。これでも出雲市は『市』、俺たちの住んでる湯河原町は『町』だ。人様のことを、どうこう言える立場にない」

 店長は、黙って食券を確認すると厨房に戻り、素早くカレーを盛りつけて戻って来たかと思うと、またスピーディーに厨房に戻って行った。
 スピードもサービスのうちだからな、こういう店は。いくら人口の少ない町だからといって、キツそうな仕事だなあ。
 まあそんな話は今はいい、さっさと食うか。
 俺たちがカレーを半分くらい食べ終えたところで、店長がカウンターに戻って来た。

「へへへ。君たち、家出かい?」
「え?い、家出ってことないですけど。ちゃんと両親の許可取ってます」
「学校は?」
「え、あ、ああ、大学生なんです。今日はちょっと授業をサボって……」
「チッチッチッ!嘘が青臭いなあ、じゃあ聞くが、そこの女の子二人、今日はノーメイクかい?」

 痛いところを突かれた。女子大生なら化粧というものをしてるのか。

「何となく安っぽい服で来ちゃったのも失敗だね」

 服装まで頭が回らなかった。もっと「大人びた服装」というものを検討すべきだったのだ。もっともちびるなんか、何を着ても子供にしか見えないけれど。

「君たち中学生だろう?」
「違います!」
「断言したね。ということは高校生確定だ。実はさっき『湯河原』っての聞こえちゃってさー、オジサンはバブルの頃、東京で働いてたんだよね、湯河原って東海道線の駅だろう?」
「……」
「……」
(……)
「……」
「やっぱり家出だな〜、いいのかな〜、お巡りさんとか補導員とか、出会いたくないよね〜」

 まずいなー、スキを見て脱出するか?食券制だからいつ店を出ても無銭飲食で捕まる心配はないよな?

「いやいやいいんだよ、オジサンは君たちを愛している」
「は?」
「オジサンも若い頃は毎日無茶したなあ、二連荘オールでジュリアナ通ったり」
「朔、ジュリアナって聞いたことあるか?」
「それ潰れてるでしょ、とっくに」
「いや〜バレちゃったかぁ!最近の高校生はあらゆる意味で進んでるねえ、さすが情報化社会だねえ」
「『情報化社会』って死語だよな」
「死語」
「死語」
(こくっ)
「カーッ!厳しいなあ君たち。オジサンは一九六七年生まれなんだよ、昭和四十二年とも言う」
「昭和生まれでバブル世代ってことですか、はあ、ちょっと羨ましい気もします」
「『気もします』なんて生意気言うな。あのね君たち、バブル世代を代表して一つだけ伝えておきたいことがある」
「はぁ、何でしょうか?」
「バブル景気というのは、業界にもよるけど、実際のところほんの二〜三年くらいしか続かなかったんだ。そしてその後に来たのが何だと思う?」
「就職氷河期」
「まあ学生ならそういう言い方になるだろう。だが実社会に出た我々としては『失われた二十年』が心と財布を直撃したんだ」
「バブル世代はすぐ責任転嫁するって、ほんとだなあ。あとその期間内に『ITバブル』ってのがあったはずだけど、オジサン、もしかしてコンピュータとか苦手?」
「くわー!痛ったいとこ突いて来るなあ!オジサンはカメラはニコンF3、音楽はSONYウォークマンプロフェッショナルWM-D6C、アナログ時代の頂点を極めた人間だからデジタルコンピュータなんてお呼びじゃないんだ!」
「すみません、オジサンの言ってる記号の何が凄いのか全然分かりません」
「WM-D6Cはともかく、今の子はF3を知らないんだねえ、ふむふむ、ある意味では可哀相だ」
「朔、ちびる、なっちゃん、誰か『F3』って何のことか知ってるか?」
「何それ」
「F1レースじゃなくて?」
(?)
「では『F3』を知らなかったことで、何か困ったことがある人は手を上げてください」
「しーん」
「しーん」
(しーん)
「オジサン、こんな結果出てますけど」
「だから可哀相だというんだ、デジタルキッズ。F3のカシャンという電子シャッターの感触を知らないんだ、君たちは」
「今、電子シャッターって言いましたよね?それってデジタルコンピュータ制御の一種じゃないですか?」
「細かいこと言わないでちょ〜!フィルムを詰めて現像の必要な写真を撮る装置はアナログマシーンの仲間なのよぉ!」

 このオヤジ、危機を察知するとオネエ言葉になるらしい。

「うちの父ちゃん仕事でパソコン使ってますけど。父ちゃんも一九六七年生まれなんです。オジサンとタメですよね」
「あの頃の仲間も、もうみんないいオジさん、オバさんだもんな、高校生の子供が居ても全然おかしくないんだよね」
「オジサンにも高校生のお子さんが?」
「いないよ。オジサンは若い頃モテすぎちゃってさあ、まあ何?とっかえひっかえってやつ?クリスマスイブなんか毎年違う女の子と過ごしたし」
「クリスマスイブったら、家でケンタだよね」
「それにさ、自慢話を織り込むのってバブル世代の特徴だな、父ちゃんも少しそういう傾向がある」
「最近の高校生は辛辣だねぇ、まあそういう訳でオジサンは独り自由の身って訳さ」
「あまり羨ましくないな、どう思う?ちびる」
「淋しいのは嫌だな」
「なっちゃんは?」
(ぷるぷる)
「朔は?」
「オジサン自慢話はもういいよ、それよりカツカレーの肉、もう少しいいの使った方が人気が出ると思うよ」
「うーん、今の子って結構しっかりした自我を持ってるんだねえ」
「自我というほどではないと思いますけど」

(豆、聞こえる?)
(ん?朔か?)
(そう、マガティ使ってテレパシーで話しかけてるの、ちょっといいかな)
(いいよ)
(このカレー屋、チェーン店にしては味がマズい。あと、何か店の感じ、おかしくない?壁に隙間があるよ?椅子も固定式じゃなくて安っぽいし、ぐらぐらするよ)
(急ごしらえって感じだな、接着剤臭いし)
(あと、湯河原の『ポポ壱』には『ナン』があるのに、それがない)
(メニューもおかしいってことか)
(それと豆、表のガラス戸に貼ってあるステッカー、ちょっとチラ見してみて)
(ちら……)
「あぁ〜!『ポメ壱番屋』って何だあ!」
(馬鹿!)

 しまった!驚きのあまり声に出してしまった!通りに面した正面のガラス扉に貼ってあるステッカー、「ポポ壱番屋」ではなく「ポメ壱番屋」と書いてある。配色も微妙に違う。背景に薄くポメラニアンのシルエット。ここはパウンドドッグの仕掛けたトラップだ!

「チッ。君たち、悪いようにはしない。おとなしくオジサンにマガティを渡しなさい。そうすれば君たちの命は保証する。警察にも通報しない。マガティのことも安心しなさい」

 俺は問い返す。

「なぜマガティを知っている!」
「ごちゃごちゃ言わずに出せ!クソガキ!」

 朔が言い返す。

「渡すかスケベオヤジ!」
「それにオジサンに預ければもう、怪しい人からマガティを狙われる心配もなくなって安心」
「安心できん!お前が一番怪しい!」
「ちゃんと雲州大社に返しとく。必ずね。ただその前にちょっとだけマガティを貸して欲しだけなんだ。ほら、オジサンは悪い人には、」
「充分悪く見えるぜ。俺には!」

 俺が椅子から腰を上げたその時だ。
 ガチャ。
 店長がリモコンのようなものを取り出してボタンを押した。
 俺は慌てて入り口のガラス扉を押したが、遅かった。電子ロック!なんというカレー屋だ!

「ガキどもこっちが大人しくしてれば図に乗りやがって、最初から素直に出すもん出しゃあいいんだよ!」

 店長の手には、肉切り用の分厚い包丁。ヤヴァい。マガティ強奪ばかりか、俺たちをソーセージ第一号にしかねないぞ、このオヤジ。カレーにつられて引っかかるとは俺たちは甘すぎた……と思ったその時、

「「ダァ!」」
 ガシャーン!

 朔とちびるが同時に席を立ち、その簡素な椅子を二人揃ってガラス扉に投げつけた。猫人間同士、今、マガティ使って示し合わせたな。
 店長が叫ぶ。

「うわぁあぁあ何をする、お巡りさんに言いつけてやるぅ!」
「お巡りさんに連れてかれるのはお前の方だ!」

 ……と怒鳴り返すと朔は、さらにもう一つの椅子を店長めがけて投げつけた。
 顔面直撃!卒倒!カウンターに沈みゆく店長。
 うわぁあぁ、これマジで傷害罪の非行少女になっちゃうよ!

「脱出!」

 朔に続いて俺たち三人も、破片が残らないほど大破したドアから外に飛び出した。
 平日の午前中ということもあって、出雲市駅前の通りには老人が数人いただけだった。
 老人達はカレー屋の騒動に気づいていないのか興味がないのか、のんびりと手押し車を押しながら、よちよちと歩いていた。

   ……

 どこに行けばよいのか分からなかったので、俺たちは、とりあえず出雲市駅に向かって走った。少なくとも出雲市駅の駅員さん達は、本物であるような気がしたのだ。出雲市駅は鉄筋造りだが、三角屋根の特徴的な建物。神社を模しているのだろう。駅前広場を突っ切って僕らは出雲市駅に駆け込もうとした。

「あ!あれ警察の車じゃない?」

 なっちゃんが指さす先に駅前広場の一角に、一台の乗用車が止まっていた。見た目は普通の四ドア、灰緑色のセダン。屋根に小さな赤い旋回灯を付けて、くるくると光らせている。いわゆる覆面パトカーだ。何を取り締まってるんだろう、何かひっかかる……いや今は、俺たちを助けてくれるなら細かいことはどうでもいい。俺は、なっちゃんの発見に感謝した。

「よし!非常事態だ!電車は止そう、あの覆面パトで送って貰おう!」

 俺たちはその覆面パトカーに救助を求めることにした。

「お巡りさーん!助けてくださ……」

 きゅるきゅるきゅるきゅる!
 覆面パトカーはタイヤから白煙を上げて急発進し、真正面から俺たちに向かってくるではないか!
 俺ははっとして「何かひっかかるもの」の正体を思い出した。

「ニセ物だ!みんな駅に逃げ込め!」

 俺たちは車道から一段高い歩道に逃げ、出雲市駅に向かった。覆面パトカーは加速して歩道の段差を乗り越えた。通行人が悲鳴を上げる。誰が轢かれても不思議はないが、真の狙いは俺たちだ!

「柱の裏に回り込め!」

 俺たちは鉄筋コンクリートの柱に回り込む。
 ドッシャーン!
 セダンはハンドルを捌ききれず、三角屋根の柱に突っ込んだ。ボンネットが跳ね上がり、出雲市駅が震えた。天井からホコリが落ちて来る。
 やがてドアが開き、痩せた警官が二人現れた。ヘルメットをかぶっている。だが警官の様子がおかしい。一応警察の制服は着ている。だがガリガリで見るからにひ弱そうだ。それぞれ何となくゴールデンレトリバーとダルメシアンに似た顔をしている。二人は俺たちを捕まえに来るのかと思ったが、そのままその場にへなへなと座り込んでしまった。
 野次馬が集まって来たが、派手な事故に注目が集まっていて、幸い俺たちは目立っていない。俺たちはコソコソと現場を離れた。
 朔が半泣きになる。

「この街、なに?変!怖い!」
「今のはヤヴァかった、あれは『覆面パトカーのニセモノ』だ」

 青ざめた顔で朔が訊ねる。

「普通車の偽物で実はパトカー、ってのが覆面パトカーでしょ?ニセモノのニセモノ?」
「世の中にはマニアックな人がいて、『覆面パトカーのマニア』というのが居るんだ。普通車と区別がつかないはずの『覆面パトカー』を徹底的に調査して、『覆面パトカーのニセモノ』を作るんだ」

 なっちゃんが訊ねる。

「そんなことして何が面白いの?」
「趣味ってのはそういうものだ。とにかく彼らは取り外し式の赤いランプまで持っているんだ。それを点灯して公道を走ったら違法なので、普段はひっそりと楽しんでいる。パウンドドッグが『覆面パトカーのマニア』を買収したんだ」

 俺たちは出雲市駅から、一畑電車という私鉄に乗って「雲州大社前」という駅まで行き、そこから徒歩で雲州大社に向かう計画を立てていた。夜行バスと違ってサンライズ出雲は雲州大社までは直通しないのだ。
 朔が計画変更を提案する。

「今すぐタクシー拾って、雲州大社まで急ごうよ」

 俺は少し考えた。

「いやタクシーは今は避けよう、俺は普段は日本のタクシーを信用しているが、今は超非常事態だ」
「超非常事態だからタクシーを」
「待て。カレー屋のオヤジに続いてニセ覆面パトカーのお出ましだ。今度はパウンドドッグの刺客がタクシー運転手に化けてるかもしれない」

 朔がオッドアイを鋭い目つきにして俺に問う。

「電車だってパウンドドッグが何か仕掛けてるかもしれないよ?」

 なっちゃんも不安そうな表情になった。俺は少し言葉を整理した。

「……いや俺が考えるには、電車の方が逆に安全だと思うんだ」
「逆?」
「タクシーや覆面パトはニセ物を用意出来ても、電車のニセ物は無理だ」
「なんで?」
「線路があるのに電車の行き先をどうやってねじ曲げる。運転も難しい。タクシーの方がハードルは低い」
「そうなの?」
「そうだ。それに罠が全般に粗雑というか、カレー屋といいニセ覆面パトといい、仕掛けも実行部隊もへなちょこで俺たちは助かってきた。パウンドドッグ側にも余裕はないと見た」

 朔が同意する。

「店長も間抜けだったけど、覆面パトも結局クラッシュしてた」
「あんな店長や運転手しか用意できなかったんだ。俺たちが狙われているのは分かる、だが奴ら、俺たちがこんなに早く雲州大社に向かうとは考えていなかったんじゃないか?だから時間も予算も不十分で、急造の罠しか作れないんだ」
「ゴルゴ13みたいな店長や運転手だったらあたし達アウトだったね。でもそういう凄い人は交渉が難しくて、ギャラも高いんだろうね」
「次の罠がどこにあるか分からないが、少なくとも電車には手が出せないと見た。実際、サンライズ出雲では何もなかった」

 朔は言った。

「タクシー、電車。一種の賭けね。でもあたしも結局、電車がいいと思う。みんなどう思う?」
「うーん……あたしも電車!」
「僕も『電車が安全』説に一票」

 少しの間沈黙が流れたが、俺たちは互いの目を見つめ合って、電車での移動を決意した。

   ……

 出雲市駅から一畑電車に乗る。俺は運転室をちらっと覗いてみた。運転士さんは五十歳くらい。生真面目そうな感じのおじさんだ。映画があったな、四十九歳で一畑電車の運転士になった人の話。そういう感じの人にも見える。しかしオヤジといえばオヤジ。しかも痩せ形というのが気になる。おまけに何となく「犬顔」をしている。柴犬風の顔つきなのだ。
 電車は信用出来る、と言い出したのは俺だが、カレー屋と覆面パトの件で、俺はすっかり「オヤジ&痩せ不信」になってしまった。

「朔、なっちゃん、ちょっと運転室見てきてくれないか?」
「なんで?」
「表情を読み取る能力は女の人の方が優れている。運転士が怪しいかどうか、念のため二人の意見を聞きたい」
「OK」

「……」
(……)

「どう?ヤヴァそうか?」

 朔が答える。

「大丈夫だね、運転士さん。口元がきゅっと引き締まってる。あの顔は嘘とかつけないタイプ」
「やっぱり顔で分かるか」

 なっちゃんも言う。

「まんまるお目目で信号を指差していたよ。あたし達をどうにかしようって人じゃないと思う」
「なるほど」

 さすが女の子、見るところが違う。信じよう。
 一畑電車は、たったの二両編成でコトコトと田園地帯に踏み出した。沿線の田んぼには、トラクターが入ってごとごとと土を耕したりしていた。電車はがら空き。乗客は老人が数人。こんな非常事態でもなければ、のどかな日本的風情を満喫出来る鉄道だろう。
 風景といえば、このあたりはやっぱり雲州大社があるからだろうか?やたら観光バスを見かける。十台くらい続いている時もある。バスツアーは安くて人気があるのだろう。あるいは中学校の修学旅行シーズンだからかもしれない。俺は、こんなにもたくさんのバスが雲州大社に集まっているなんて知らなかった。前回は自分がバスに乗っていたので、他のバスには気づかなかったのだ。
 終点雲州大社前駅まで電車に乗っていたのは、俺たち三人だけだった。この私鉄って完全にバスに負けてるよな、経営大丈夫なのかな?なんて余計な心配をしている余裕は、実は無い。旅はいよいよ最終行程に入った。本当に最後の最後、ここからはは自分達の足だけが頼りだが……

 クラシックな洋風建築の雲州大社前駅を出たとき、俺は唖然とした。何だ?この人ごみは。
 春休み、俺がこの駅に来た時には観光客など数える程度で、人ごみなんてなかった。雲州大社境内の方が人が多かった。
 ところが今、雲州大社駅前は渋谷駅ハチ公口を思わせるほど混雑している。それも、ただの混雑じゃない。神社の参道だから、参拝客や神社関係者で混んでいるならまだ分かる。そうじゃないのだ。ショルダーバッグを掛けた痩せた男子、大きな紙袋を抱えた青年。度の強そうなメガネをかけて山岳会のような格好をした女子。某ボーカロイドのコスプレから、二次元アイドル系集団のコスで踊っている女の子達までいる。スク水にグレーのウィッグって、それ、誰のコス?カメラ小僧達はバズーガ砲のようなレンズを振り回して大盛況。とにかくもう、一人一人がバラバラで、そしてそれぞれに強烈で。この群衆は……そう、コミックマーケットの群衆を再現したかのようだ。いや正確には違う。コミックマーケットには警備員が配置され、群衆整理が出来ている。ここに出現しているのは未整理の群衆だ。前にも後ろにも進めないままうだうだとしている。ただ、メンバーの顔ぶれがコミックマーケット。
 俺は試しに、近くに立っている小太りメガネ男子に質問してみた。

「あの、これってもしかして、ここでローカル版コミックマーケットとか……」
「そうだよ!お宅、知らないで来たの?昨日の夜になって急遽発表されたんだ!何でも雲州大社で、西日本エリアに特化したコミックマーケットプロジェクトが極秘に勧められていたらしいんだ!しかもファビュラスな姉妹のスペシャル写真集が五〇〇部限定で、購入者には握手&ハグサービス付きなんだよ!」

 俺は、昨夜に急遽配布されたという簡素なチラシを見せて貰った。

『にしにほんさいだいのふぁびゅらすなまあけっと。急遽開催。往復バス付き、さんか無料』

 なんじゃ?こりゃ。タイトルが全部ひらがな。チラシには彼が説明した握手&ハグサービスの案内なども書いてあった。

「もしかして、これ、犬が持ってきたなんてことはありませんか?」
「そうだよ!お宅、知ってるじゃん!昨日の夕方になって、うちの犬が急にこれを咥えて持ってきたんだよ!あまり可愛いがってないんだけど、たまには役に立ってくれもんだね!」

 やはり犬にはネットワークがあるのだ。クリ目の言ったとおりだ。
 しかしだなあ。この人たちパウンドドッグの「胡散臭さ」を知らないんだな。まず「ファビュラスな姉妹」というのが嘘くさい。おそらく偽物だろう。あるいは話そのものが嘘かもしれない。仮にそんな姉妹が来たとして、五〇〇人もハグなんかしたら胸がすり切れてしまうじゃないか。
 しかしこの際、そんなことはどうでもいい。問題はこの群衆だ。これでは雲州大社までダッシュしようにも、走れないじゃないか……そうか、俺たちに「走らせない」って寸法だ。群衆をもって俺たちをブロックし、あるいはもみくちゃにして、マガティを強奪する算段なのだろう。
 そこまで考えて理解したことが一つある。なぜ電車の車窓にバスをたくさん見かけたのか。この群衆を運んでいたのだ。いくら雲州大社とはいえ、普段からあんなにたくさんのバスが来ている訳ではないのだ。
 全国数十万頭の野犬を一晩で集めるなんてことは犬の行動能力では不可能だ。だが、人間なら?可能なのだ。万単位の人間を一夜で集められる。バスを使えば。バス業界は今、非常に厳しい経営環境にあるので、急で無理な依頼でも飲んでくれる。パウンドドッグはそこにつけ込んでゴリ押ししたのだ。そうやって彼らは観光バスを大量にチャーターした。
 で、乗客はどうしたかというと、いつかクリ目が言っていた「虐待されている飼い犬」「あまり可愛がられていない飼い犬」のネットワークを使って飼い主の家族を動かした。いつかのチクワちゃんと犬山のような、飼い犬と野犬の接点が全国には無数にあるのだ。飼い犬が人間を動員する。そんな馬鹿な話があるかと思うかもしれない。だが、犬を飼っている人なら思い当たるはずだ。犬、それも飼い犬には、例え可愛がられていなくても、飼い主を簡単に動かす魔法のそぶりがある。「言うこと聞いてくれなきゃゴハン食べない」。
 パウンドドッグは、人間に不満を持つ犬を使って、その飼い主の家族で暇そうな奴を動かしたのだ。人間へのエサも用意した。それが、雲州大社門前でスペシャルなコミックマーケットが急遽開催されるという美味しそうな話だ。
 俺たちはパウンドドッグを甘く見ていた。犬とはいえ今回は「全国組織」が相手、組織力・動員力は全国規模なのだ。全国といわず西日本エリアだけでも、京阪神都市圏があるからこのくらいは充分に集められるのだろう。京阪神発なら時間的にも、俺たちが昨晩行動を起こしてからでも先回りが可能だ。野犬自身が自ら徒党を組んで俺たちを迎え撃というとした湯河原支部なんかは、犬にしても所詮田舎者なのだろう。全国組織レベルになると、人間を動員するというスマートな技を使うのだ。
 パウンドドッグは余裕の無さを克服しながら、相当の知恵を絞って攻めてきている。偽カレー屋に偽覆面パト。でも、それらを完全には信用していなかった。おそらくここが最後の砦。「暇人をバスで動員して作った群衆」。
 ただ、一つ幸いなことに、この集団の特性が顕著に現れている部分があった。
 それは、「他人に対してあまり興味を持たない」ということだ。
 集団を構成しているのは、よく観察してみると「多数の小グループ」が多く、そのグループ内では親しげだが、グループ外には興味がない。そのせいだろう。彼らは、マガティという重要なものをTシャツの下に隠している「俺の存在」に気づいていない。わらわらと歩き回ったり、仲間同士立ち話をしたりしている。
 しかしだなあ……

「どうしよう」

 ちびるが力なく答える。

「この群衆の中でもみくちゃにして、マガティをねじり取ろうってことなんだろうなぁ」

 朔が詰問する。

「『なぁ』じゃないわよ!これじゃ雲州大社にたどり着けないじゃないの!」

 なっちゃんも困った顔をしている。
 朔が訊ねる。

「ねえ豆ちゃん、春休みに通った道って、覚えてる?回り道とかないかな?」
「普通の道は覚えているよ、単純だからな、ただ、回り道までは知らないんだ」
「あー、こんな時に猫に戻れたらなあ」
「ちびる!この非常事態に何のんきなこと言ってるの!」

 朔が怒ったその時、なっちゃんの瞳が輝いた。

「あのさ、マガティってさ、猫人間の転換が出来るんだよね」
「そうらしいな」
「だったらさ、みんなここで、マガティ使って『猫に転換』することって出来ないのかな?」
「猫に転換?」

 朔が言う。

「若干一名、失格者が居ま〜す」

 俺のことだ。俺もそう思う。四人の中で唯一、猫人間じゃない。しかし。

「俺は確かに純粋な人間だ。猫人間じゃない。でも、ここ、雲州大社の近くだぞ、普通の場所じゃない。もしかして、この場所限りだったら、俺、マガティを使って猫に転換することって出来ないかな?」

 朔はつれない。

「はいはい、君の発想は単純過ぎて馬鹿馬鹿しいよ、その意見は自動的に却下」
「されません」

 なっちゃんが朔を否定する。

「試してみる価値はある。というより、この状況じゃ、それしかないかもしれない」
「なっちゃん本気?あたし知らないよ」
「本気よ」

 朔が言う。

「豆。よく聞きなさい。実はあたしも、うすうすは、なっちゃんと同じことを考えていた。でも言わなかった。なぜだか分かる?」
「なぜ?」
「このウスラボケ!君は女心が分からなすぎるのよ!」
「はい?」
「君が猫になって、それから再び人間に戻れなくなったらどうすんのよ!」

 俺は目眩がした。この先、俺は猫として一生を過ごすことになっても、マガティを雲州大社に届けるという責務を果たすべきなのだろうか。
 そりゃやっぱり果たすべきだろう。何しろこの俺の首から下げたマガティには、一億二千万パウンド、ソーセージ化の危機が掛かっているのだから。何てこった。俺たち以外は誰も知らないんだろうな、自分が今、ソーセージになる寸前だなんて。この目の前の暇人達でさえも。
 思えばこの春から色々なことがあった。野犬と戦ったり、クリ目の変身バトルを見物したり。一生分の楽しみを味わったとまでは言わないが、ちょっと有り得ないような体験をした。マガティとやらのおかげで。大きな声では言えないが、女の子(朔)の柔らかい生おなかも触らせてもらった。それらのことを思い返すと、もう俺には、人間として後悔すべきことなど何も無いような気がして来た。

「朔。頼みがある」
「何?」
「もし俺が猫から戻れなくなって、お前だけ人間に戻ったら、俺の飼い主になってくれ。一緒のベッドで寝よう。それもまた楽しみということにしておく」
「わかった」
「なっちゃん、頼む、やっちまってくれ」
「本当にいいの?猫の人生は辛いよ?」
「人間の人生も辛い。生きて行くのはどのみち辛いんだ。ちびる、お前と俺が猫のままだったら、一緒に『にこり』まで脂身貰いに行こう」
「おう、豆ちゃん。覚悟を決めたね」
「なっちゃん、頼む」
「にゃ」

 俺は、マガティをTシャツの中から取り出してみた。マガティはLEDライトのような白い光を発している。雲州大社が近づいて何か反応が起きているらしい。
 バラバラに動いていたはずの群衆の視線が、さっと俺の手のひらに集まるのを感じた。
 ヤヴァい。気づかれた。

「なっちゃん、俺、どうすればいい?」
「豆ちゃんはマガティを首に掛けて!みんな手を繋いで!」
「OK」
「祈るのよ!『猫になれ!』」
「『猫になれ!』『猫になれ!』『猫になれ!』」

 ぼん!

 小爆発が起きた。うわ!終末の引き金引いちまったか?いやいや、そんなことは有り得ない。白煙が風に運ばれて消えると、俺たちは見事に猫に転換していた。
 朔は元の白三毛猫。オッドアイ、相変わらず太っていて、お腹が少し垂れている。ちびるも元の黒猫。なっちゃんは縞三毛模様で尻尾が細長い。スレンダーな美猫、後ろ足の内側まで模様があっておしゃれだ。朔から猫パンチが飛んで来た。

「スケベ!なっちゃんの足みてたでしょ!」
「すまん。けど、あのさ、俺、ちょっと訂正っていうか、修正できないかな?」
「何を?」
「この白地ベースに薄茶のしましま模様って、弱っちい感じで情けないんだけど。てゆーか、なんで俺『マヒロ』に似てるの?」

 朔が笑う。

「ぷっぷぷぷ。君は本性がそうだから、模様もそうなっちゃうのよ!」

 いやいや笑っている場合ではないぞ、群衆がじりじりと俺たちの方に距離を詰めて来た。俺の首輪のマガティは、神々しいばかりに輝いている。こりゃ目立つわな。
 なっちゃんが叫ぶ。

「みんな急いで!この人達の足元をすり抜けて雲州大社に行くのよ!豆ちゃん!先導して!」
「こっちだ!あの動きの鈍そうなデブの足元から行くぞ!」

 あとはもう実行のみだ!俺は大きな紙袋(エッチな絵柄)を持った男に向かって突っ走り、紙袋の下から群衆に突っ込んで行った。

「おぉぉ!」。

 どよめきが上がる。でも、それは一瞬のことだった。俺たちが人ごみにまぎれた後のことはよく分からない。
 とにかく凄い数の足があって、革靴とか、運動靴とか、ブーツにハイヒールにピンヒール、ビーチサンダル、下駄、とにかく数え切れないほどの足を踏みつけ、飛び越え、スネの間を縫って前に進んだ。

「ぎゃあ!」

 半ズボンの男が、スニーカーでちびるの尻尾を踏んでいる!

「ガブッ」

 ちびるを踏む足に朔が噛み付く。

「ぎやぁぁぁ!」

 その足は跳ね上がり、ちびる脱出。どす黒い血しぶきが降って来た。朔、静脈マジ噛み。
 俺たちはとにかく、前へ前へと進んだ。神社までは一本道だ。前に進めば必ず何とかなるはずだ。

「助けて!」

 今度は、なっちゃんだ!ゴスロリ女子に長い尻尾を捕まれている。
 と、そこで、なっちゃんに追いついたちびるが後ろ足二本で立ち上がり、

「ちびるビーム!」

 ちびるはレースのついた黒いスカートめがけて勢い良く立ち小便を始めた。ゴスロリ女子は悲鳴を上げた。

「いやぁぁぁ!お洋服汚れちゃうぅぅぅ」

 彼女は思わずなっちゃんの尻尾を手離し、スカートをたくし上げた。なっちゃんはスカートをくぐり抜けて脱出した。
 俺たちはさらに走る、走る、革靴を飛び越え、健康サンダルを引っ掻き、運動靴に爪を立てて走りに走る。
 どのくらい走っただろう?朔が息を切らせ始めた。

「はぁはぁ、あたし長距離苦手、みんな、あたしを見捨てて先に行って!」

 俺は振り返って叫ぶ。

「そうはいくか!見捨てない!朔!俺の背中にしがみつけ!」

 俺は朔を背負った。ずっしりとした朔の重みを背中に受け止めながら、力の限り突っ走る。前にも朔を背負って運んだことがあったな、人間モードで、国道で朔が意識を失った時。あの頃は、後でこんなことになろうなんて思いもしなかった。しかし重い。苦しい。朔の体重は五.五キログラム、多分今の俺も同じくらいだろう。それでも俺は猫という四足歩行動物になって救われている。二足歩行のままだったら体重の同じ人を背負って走るなんて無理だ。四足歩行、四輪駆動だからまだ走れるんだ。そして走る、なお走る、……やっぱり四輪駆動でもこれはキツい。ハアハア、ヤヴァい酸欠気味だ、意識が遠くなってきた……
 と、その時ふと、人ごみが途切れた。もしかして到着か!?
 そう、確かにそこは、雲州大社の大きな鳥居の前だった。群衆は、鳥居まであと五十メートルというところで終わっていた。
 だが、そこで俺が見たのは、春に来た時とは全く違う光景だった。
 鳥居が放電している。左右の柱からバリバリと音を立てて網目状の放電が壁をつくり、広大な雲州大社を守るように伸びている。高圧電流?それとも一種の結界のようなものか?
 そしてその鳥居までの五十メートルの間に……ラスボスのご登場だ。三国志の豪傑に居そうなキャラ。太鼓腹のオッサンが一人、鎧姿に鉄の兜をかぶって立っている。もじゃもじゃの太い腕。ちりちりに伸ばした髭が不気味さを倍増させている。こんな強烈なキャラどこから連れて来たんだ、パウンドドッグ。それともこいつも犬が変身しているのだろうか?何となくフレンチブルドックっぽい顔付きではある。
 加えて、このオッサンは長い槍を手にしている。くそ、ここまで来て武器を持った奴が現れるとは。
 だがこのオッサンにも限界があるらしい。オッサンはあまり鳥居(というか放電)には近づけないようだ。まあそうだろうな、鉄兜とか槍とか、感電するだろう。
 朔が叫ぶ。

「もうやだ!何この槍の巨人は!」
「いや巨人に見えるのは俺たちが猫だからだ。人間としては、ちょっと背が高くて小太りくらいだ」
「巨人も同然よ!あたし達は猫なのよ!それに槍まで持ってるよ!あたし達の爪や牙じゃ太刀打ちできない!」

 オッサンには俺たちの言葉は猫の鳴き声にしか聞こえない。余裕をかまして鼻くそなどほじくっている……いや油断はならない。俺のことを凄い目付きで睨み始めた。首に下げたマガティに気づいたらしい。ヤヴァい。どうしよう。何しろ槍を持っている。ぐさっとやられたらオシマイだ……いや、望みはある!

「そうだ、朔!あれをやれ!あれ!」
「あれって何!?」
「『朔ちゃんお面かぶり』だ!」
「ハァ?」

 『朔ちゃんお面かぶり』。朔のお腹で顔を目鼻を塞ぐ。俺が春休みに雲州大社から帰ってきて最初に朔にしたことだ。

「ちびる、なっちゃんの背中に乗れ!」
「よしきた!」
「朔、なっちゃんとちびるを踏み台にして、あのオッサンに『お面かぶり』をやれ!窒息させるんだ!そのスキに俺は鳥居をくぐる!」
「わかった!やってみる!」

 なっちゃんの背中にちびるが飛び乗る。オッサンは不思議そうな顔をして眺めている。
 朔は三メートルほど後退して助走を付け、なっちゃんとちびるの背中を駆け上ると、オッサンの顔をめがけて思い切りジャンプした。

「必殺!お面かぶり!」

 オッサンに腹から飛びついた朔は、「びたーん」とオッサンの顔に張り付いた。そして両手両足をオッサンの頭の後ろに伸ばして抱え込み、オッサンの顔をお腹で圧迫した。
 意表を突かれたオッサンは仰向けにひっくり返った。そして呼吸が出来なくなったことでパニックに陥った。槍を放り出してじたばたしている。俺はすかさずオッサンの横をすり抜けた。そして目を閉じて結界に突っ込み、雲州大社の鳥居をくぐった!バチッと痛みを感じ、その瞬間、俺は人間に戻った。マガティは?マガティはペンダントのままTシャツの中にあった!

「朔、ちびる、なっちゃん!早く鳥居の中へ!」

 朔は後ろ足でオッサンの顔に、ひと際深く引っ掻き傷をこしらえた。そして鳥居の下の放電を突き抜けて駆け込んだ。
 朔も放電に触れた瞬間、人間(というか人間モード)に戻った。続いてちびるとなっちゃんも駆け込んで来た。ちびるもなっちゃんも放電に触れると人間に戻った。
 慌てた様子で中年の神職さんが駆け寄って来た。水色の袴をはいている。髪が薄いけど、父ちゃんより若そうではある。

「この結界はマガティを守る者たちだけが通れます。君たちがそうなのですね?お怪我はないですか?ささ、早く社務所へ!」

 社務所というのは、お守りを売ったり、お祓いの申込をするところだ。社務所まで来て俺たちは驚いた。神職さん?巫女さん?十人くらいの神社関係者が待機しているではないか。その中央には腕組みをした白髪の宮司さん。紫色の袴をはいている。この人だけが紫色の袴で、他の神職さんは水色の袴。巫女さんは朱色の袴。紫色の袴の人が多分一番偉い人だと思うけれど、腕組みをしてもの凄い形相でこちらを睨んでいる。

「あの……すみません」

 あまりの恐ろしさに、俺は訳も分からず反射的に謝ってしまう。

「君たちに罪はない」
「俺たちが来るのって、分かってたんですか?」
「あの騒ぎだ。分からない訳がない。早くこちらへ来なさい」

 白髪の宮司さんが先頭に立ち、俺たちは若い神職さんにガードされて、社務所の奥の応接室へと導かれた。
 応接室に入ると巫女さんが扉を閉め、カギをかけた。
 宮司さんが言う。

「まずマガティを」

 俺はTシャツの中からマガティを取り出し、革ひもから外して応接室のテーブルに置いた。マガティはひときわ強く白い光を放っていた。

「ああ、本当に帰ってきた」

 宮司さんは深い溜め息をついた。

「あの……これ、何でも境内の地下三〇メートルに埋めておくべきものだそうですけど、これから穴を掘るんですか?」
「いや君ね、穴を掘るというけど、地下百尺、三〇メートルというと、東京の地下鉄並みに深いんだよ?」
「じゃあ、どうしたら」
「エネルギーを注入する。現代の単位で言うと一ギガワット。電気でも熱でも何でもいい。一ギガワットをマガティに注入すると、マガティは地下百尺に自ら潜り込む。その後、ここに居る六人の神職と六人の巫女がマガティ封印の儀式を執り行う」
「あの、マガティって江戸時代には既にその深さに埋めらていれたと聞いたんですけど、当時はどうしたんですか?そんなエネルギー、どうやって?」
「雷だ。雷が落ちるのを待って、それでマガティを潜らせたのだ。その時には今回のような大騒ぎにはならず、マガティの封印も密やかに粛々と、雷を待って執り行った。しかし今回はどうしたものか、結界がいつまで保てるか。門前の群衆がなだれ込んで来たらどうすればよいのか……」

 宮司さんの顔が曇った。怖い人が困った顔をすると、本当に心底困っているように見える。なんてこった。最後の最後まで来て打つ手なしか……しかしなあ……神社でエネルギーの単位を聞くとは思わなかった。一ギガってことは千メガで、つまり一〇〇万キロワット。ん?

「あの、俺たち、二ギガワット出せるかもしれません」
「は?」

 俺はちびるを呼び寄せ、耳元で作戦を囁いた。

「感電死……」
「ちびる、ここで無策に過ごせば俺たちもソーセージにされちまう。どのみちリスクから逃れることは出来ない」
「わかった。やってみる」

 朔となっちゃんが不審そうな顔をする。宮司さんも怪訝な表情になる。

「君たち何を?」
「よし、いくぞ!」
「おう!」

 俺は朔、ちびるは、なっちゃん。素早く背後に回り込み、後ろハグ!

「●★&#☆$%○!□△▼#!¥’!!!」
「#●¥▼★%△&!$#○☆!’□!!!」

 雷鳴!朔となっちゃんが全身から放電。俺たちは青白い炎に包まれたが、それは一瞬。すぐに炎はマガティへと吸い込まれた。炎に身を包んだマガティは、大きく跳ね上がると勢いよく落下してテーブルを叩き壊した。そして小爆発を起こし、応接室の床に穴を開けた。底の見えない深い穴。しゅるしゅるしゅる!マガティは自ら穴に潜り込んで行った。
 応接室の窓ガラスは砕け、壁が真っ黒に煤けた。天井に穴が空き、五月の爽やかな日差しが場違いに注ぎ込む。壁に掛けられていた掛け軸は灰になった。宮司さんたちは床に伏せて難を逃れていた。俺とちびるもなぜか無事、これはマガティの奇跡か?それともここの神様が守ってくれたのか?

「これでよいでしょうか」

 宮司さんはあっけにとられて俺たちを見つめた。

「君たち一体何者ですか?」
「それぞれ、ちょっとした属性がありまして」
「どういう属性かわからんが……あとは私たちで何とかする。早速、秘密裏に封印の儀式を執り行わなければ。皆さんには退出していただく」
「秘密なんですか?」
「儀式の件のみならず、この応接室で見聞きしたことは全て秘密として守っていただく。よろしいですね」

 宮司さんはぎらりと俺たちを睨みつけた。マジ怖い。
 そうだ、怯えている場合じゃない、あれを聞かなきゃ。恐る恐る俺は、宮司さんに訊ねてみた。

「あの、個人的に切実な質問していいですか?」
「何だね?」

「朔が、朔というのは、そこで今、二ギガワット放電した一人で、俺と双子の姉なんですが、実は彼女は猫だったんです」
「違う!猫じゃないもん!『猫人間』だもん!」
「ややこしいからやめろ」
「いや、わかるよ『猫人間』。古代には珍しくなかった」
「は?」

 俺は虚を突かれて質問を忘れそうになる。

「あ、そ、それでですね……実は俺以外の三人は猫人間なんですが、三人のうち二人は、マガティを使って猫から人間に転換したと言っています。でも、まだ人間のままです。もしかして、儀式が済むと二人とも猫に戻るんでしょうか?あと、もう一人の彼女、彼女は最初から人間の猫人間なんですけど、俺は彼女とはマガティなしでは会話が出来ません。儀式が終わると、俺たち、どうなっちゃうんでしょうか?元に戻るんでしょうか?」
「それは儀式を待たずとも結論が出る。皆さんが当大社の鳥居から出たその時、分かる」
「分かるって、どっちなんですか?元に戻るんですか?戻らないんですか?」
「さぁ。それは、やってみないと分かりませんなぁ」

 宮司さん的には猫人間のことなど、どうでもいいって感じだ。

   ……

 俺たちは宮司さん達に深く頭を下げてから、四人揃って社務所を出た。
 さて。これで事件は片付いた「訳ではない」。俺的には、ある意味ソーセージ並みに重大な問題が残っている。朔が猫に戻るかどうかだ。なっちゃんも気になる。出来ればなっちゃんとは、俺と話し続けられるようであって欲しい。ちびるに関しては、この際どうでもいい。
 朔が叫ぶ。

「あたし猫に戻りたくない!人間がいい!」
「朔。お前が人間になって、俺は嬉しくもあり、ある意味苦しくもある。素直に猫に戻ってくれ。そうしたらまた一緒のベッドで寝よう」
「やだやだ!人間がいい!猫に戻りたくないよぉ」
「宮司さんのおっしゃるには、この雲州大社の鳥居を再びくぐった時に結論が出る。行こう。運命の時だ」
「やだやだやだ!もうだだこねちゃう!だだだだだ」

 なっちゃんが慰める。

「朔ちゃん、あたしだって豆ちゃんと喋れなくなっちゃうかもしれないんだよ」

 ちびるは投げやり。

「僕は猫でもいいな。別に長生きしなくてもいいし、勉強好きじゃないし。また猫に戻って『にこり』で脂身もらうのも悪くないな」

 なっちゃんは仕方ないといい、ちびるは猫に戻ってもいいと言い、朔は人間でいたいと言う。

「朔、気休めを言うようだが、まだ猫に戻ると決まった訳じゃないぞ。鳥居をくぐる時に決まる。いつまでもここにいる訳にはいかない。鳥居はくぐらなきゃならないんだ」
「猫に戻りたくないよぉ!」

 俺は、残酷だとは思いながらも、朔の手を引いた。

「待って!最後のお願い」
「最後とか言うな、死ぬ訳じゃないぞ」
「人間最後のお願い!神様に祈らせて!」
「神様?そういえばここは神社だな、いいだろう。ここの神様なら猫人間のことも知っていそうだし、祈るだけ祈ってみろ」

 俺は、自分でも思う。腹黒いなあと。
 神様に祈れば朔の願いが叶う、とは、実は全然思っていない。
 別に神様を信じない訳じゃない。信じているさ。俺だって今までに何十回と神様に祈ってきた。うちが貧乏でなくなりますように、とか、父ちゃんの病気が治りますように、とか。
 まあ何とか暮らせているのは事実だし、父ちゃんも薬を飲んでいれば相当程度落ち着いている。
 でもそれは、神様のお陰というより、日本経済と医学のお陰だろう。
 経済とも医学とも関係ない朔の願いを、そうそう簡単に叶えてもらっちゃあ、困るんですよ、神様。
 とか何とか思いつつ、俺は、自分の願いは叶えて欲しいと思っている。朔が猫に戻りますように、と。
 俺たちは四人揃って拝殿の前に立ち、大きく柏手を打った。
 俺とちびるは割と短時間でお祈りを済ませた。なっちゃんは少し長くお祈りをしていた。四人の中で一番長く目を閉じ手を合わせていたのは朔だ。そんなに猫が嫌か……ちょっと可哀想な気もしないでもない……などと思っていると、朔が奇妙なことを言い始めた。

「そうか、そうなんだ」
「は?朔、覚悟は決まったか」
「豆ちゃんちょっと手伝って」
「へ?」

 突然、朔は俺の首に手を回して顔を寄せた。ディープキス……痛てぇ!牙だけじゃない、朔は舌も猫のまま。猫の舌にはトゲがある……朔がゆっくりと顔を離すと、二人の間に血の混じった唾液の糸がぬらりと滴り落ちた。刺激的すぎる、朔、早く猫に戻れ……と、その時、ぐらり、と、俺の視界が歪んだ。もしかして朔が猫に戻った?

 だが、朔は相変わらず人間のままであった。

「ふふふ〜ん!豆ちゃん、なっちゃん、ちびる、行こう」

 先ほどまで神社を出ることを嫌がっていた朔は、くるりと拝殿に背を向けた。
 長い参道を歩いて鳥居まで来てみると、先ほどの群衆は嘘のように消えていた。槍のオッサンも居ない。結界が解かれたのか、放電も終了していた。
 俺たちは互いに手を繋いで鳥居に向かった。来るぞ来るぞ、運命の瞬間……鳥居の直前で朔はスキップを始めた。手が離れる。おい馬鹿、逃げるな!お前はその鳥居をくぐった瞬間に、

 猫に戻らない!

「さっきのキスはね、豆ちゃんのDNA貰ったの。人間のDNAを取り込めば人間でいられるって。神様が教えてくれた」
「DNA?」
「ふふ〜ん、寿命五倍、肉食べ放題!人間っていいな!」

 何のついでか、ちびるまでも人間のままだ。くそ!お前はどうでもいい!てゆーかお前にDNA渡した覚えはない!なぜなんだ!そうだなっちゃん!なっちゃんを見ると、なっちゃんも人間のままだ。

「なっちゃん!何か喋って!」
「にゃあぉ!」
「うわぁあぁあぁあぁあ!」
(終わり)

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ありがとうございます。ごろにゃん。
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Masaki Iijima

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