中編小説・海辺のチガ子

「海辺のチガ子」
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 高校に進学した僕は、中学と変わらず一人ぼっち。誰とも喋らない。
 僕は無趣味で、面白い芸など出来ない。テレビを見る暇がないので、テレビの話題についていけない。運動神経は鈍い。勉強が凄く出来る訳でもない。僕にはクラスメイトと話すべき共通の話題など何も無いのだ。そんな僕に関わろうとするなら、それは物好きか暇人の類いだろう。
 僕の日常には、家庭の事情があちこちに影を落としている。例えばスマホを持っていない。スマホがないからLINEが使えない。LINEを通じて友達とメッセージをやり取りすることが出来ない。うちの経済事情がゆえに、それはどうしようもないことの一つだ。
 高校は、家から近い公立校というだけの理由で県立湯河原南高校を選んだ。授業料無料。歩いて行けるから定期代もかからない。名門校というほどではないけれど、一応、進学校。勉強は頑張った。
 湯河原南高でも僕は、積極的に友達を作ろうとしなかった。相変わらずLINE断絶地帯だし、友達との話題づくりのための努力なんかするくらいなら、父ちゃんの仕事の手伝いをした方が儲かって嬉しい。
 湯河原南高は相模灘に面している。それは知っていた。地元だから。湯河原南高の教室からは広く大きく海が見える。この風景は新鮮だ。教室からの風景なんて入学しないと実際に見ることは出来ない。
 授業に飽きると僕は海を眺めた。真昼の相模灘は南天の太陽を受けて銀色に輝く。学校の裏手は階段状になったコンクリート造りの堤防になっている。その階段堤防も知っていたが、あまり暇でない僕は、そこに行ったことは少ない。第一線を引退したおじさん達が、平日でも昼間から釣り糸を垂れていた。
 その日、いつものように海を眺めていると、階段堤防に猫がいることに気づいた。白い猫。釣り人から何かを貰っていた。
 猫に興味を引かれて僕は、昼休み、階段堤防に出てみた。釣り人は、狙いの獲物が釣れるとバケツに入れ、狙いでない小魚が釣れると猫に与えていた。その猫は、そんな小魚でも、うしゃうしゃと嬉しそうに食べていた。猫は真っ白だった。「にゃあ」と呼ぶと寄ってきた。人慣れしている。背中を撫でるとごつごつとしていた。野良生活の厳しさが体つきに現れている。尻尾は長くクランク状に折れている。お尻を見ると玉はない。雌だ。野良でこんなに人なつこい猫は珍しい。釣り人達と交流があるからだろう。

「ごめんよ。僕は食べ物を持っていないんだ」

 その猫は瞳の色が変わっていた。右がブルー、左が茶色のオッド・アイ。瞳の色が左右で違うので、僕はその猫を「チガ子」と呼ぶことにした。

 ……

 翌日の昼休み、僕は弁当からマグロの角煮を食べ残しておいて、階段堤防に向かった。
 いつものようにそこには、静かに波の寄せる相模灘が広がっていた。高齢の釣り人が時折、沖に向けて仕掛けを投げていた。

「チガ子」

 呼んでみると、どこからともなくチガ子がやって来た。僕の声を覚えてくれたようだ。
 僕は階段堤防に腰を下ろし弁当箱を開いた。

「今日は角煮があるぞ、マグロは好きかな?」

 階段堤防に弁当箱の蓋を置いて、角煮をチガ子に差し出す。チガ子は一瞬、不思議そうな顔をしたが、やがてそれが何であるか察したらしく、目付きを変え、角煮に食い付いた。

「うちは貧乏だから、肉はあまり食べられない。でも角煮が君の好みに合って良かったよ」

 時々首を振り、チガ子は角煮を捌くようにして食べた。角煮を食べ終えるとチガ子は僕の膝に乗ってきた。よほど嬉しかったらしい。
 チガ子は僕の太ももを、ゆっくりと押し始めた。僕は驚いた。これが「ミルキング」か。リラックスすると猫は、前足で足踏みするような動作をする。母猫から母乳を貰っていた頃を思い出しているのだ。Youtubeで見たことはあったけれど、体験するのは初めて。

「チガ子、明日も来るよ。何か欲しいものはある?」
「ミルク」
「そうかミルクか」

 はい?

 チガ子が喋った?

「チガ子喋れるのか?だったらもっと話がしたい、何か言ってくれないか?」
「……」

 学校の帰りにスーパーに寄って、特売になっていた小アジをまとめ買いする。それと牛乳。いつもの一リットル入りではなく、常温保存可能の小さいやつ。明日チガ子に持って行こう。しかし猫って本当にミルクなんて欲しがるものなのか?チガ子、飲んでくれるかな?
 うちは両親が病気で思うように体が動かないため、たいていは僕が買い物に行く。稀に母ちゃんの体調が良い時には、母ちゃんも単独で買い物に行く。そうすると期せずして牛乳が二パック冷蔵庫を占拠してしまったりするが、翌日の買い物で僕が調節すれば済むこと。大した問題じゃない。母ちゃんが買い物に行くと、チョコレートやおせんべいを買って来てくれる。

 僕の両親は二人とも二級の精神障害者。精神病というのは、一言で言うと、脳という臓器の故障。膵臓が故障してインスリンが出なくなれば糖尿病に、腎臓が故障して血液の濾過ができなくなれば腎臓病に、心臓が故障して血液がうまく循環させられなくなれば心臓病になる。それらと理屈は同じだ。脳という臓器が故障すると、脳内の神経伝達物質という奴が、過剰になったり不足したりして、精神病になる。そして、その精神病が原因で日常生活に支障が出る状態、それが精神障害。
 精神障害というのは、身体障害や知的障害と違って、あきらかに見た目で分かるということがない。そのため、なかなかその苦しさが理解されない。父ちゃんが言うには「三晩徹夜明けプラスおっかない上司から罵声を浴びせられた後、大声で『申し訳ございませんでした』と叫びながら土下座一〇回」、それが、精神障害の二級の「割と具合のよい時の気分」だそうだ。
 両親から僕に病気が遺伝しなかったのは運が良かった。でもそれはそんなに珍しいことではない。そうはいっても日常生活への影響は大きい。暮らしのあちこちに両親の病気が顔を出す。二人とも自分の体の切り盛りで精一杯なので、掃除、洗濯、炊事など、僕が行うことが多い。高校進学にあたっても僕は、学校に提出する書類の、そのほとんどを自分で書いた。

 父ちゃんは鬱病の、治りにくくて特に重いやつ。父ちゃんは湯河原出身の小田原育ち。平塚の大学に四年通って、卒業と同時に国家公務員になり、霞ヶ関某省に入った。学生時代の父ちゃんは、未来予想図を、こう描いた。「国家公務員=堅い職業=倒産しない=五時になったら帰宅」。真っ先に否定されたのは最後の一つだ。五時に帰るというのは霞ヶ関では有り得ない。霞が関は不夜城。終電を逃すことも珍しくない。堅い職業というのは、両手両足、一挙手一投足に至るまで、法律や通達という、ある種の重いおもりを背負いながら働くということを意味する。おもりはそれだけではない。省庁間の合意事項という、細かく込み入った取り決めもある。プロジェクトを進めれば、あっという間に合意書類が山をなす。確かに倒産はしないだろう。けれど激務。エリート達の出世競争が激しくて、失敗をすると(出世をしたくてしょうがない)上司からもの凄いプレッシャーを受ける。まだパワーハラスメントという言葉が一般的になる前のことだ。

 そんな霞ヶ関で父ちゃんが任された仕事は、当時まだ黎明期だった省庁ホームページの、担当課ページの制作および更新。複雑なルールが定められ、かつ、実務的にはWindowsのメモ帳でHTMLタグを手入力しなければならなかった。もともと文系だった父ちゃんは、苦労してHTMLタグを習得し、毎日遅くまでホームページと格闘していた。しばしば父ちゃんは更新に失敗したり、誤字脱字などのミスをしでかした。そしてその都度、直属の上司から酷く叱責された。そんな毎日を過ごしているうちに、父ちゃんは鬱病を患うようになった。父ちゃんは毎日抗鬱剤を飲みながら、精一杯頑張って霞ヶ関に通った。
 ある夜、残業中にふらりとトイレに向かった父ちゃんは、無意識のうちに手首を切っていた。四階男子トイレが血の海。発見があと一分遅ければ父ちゃんは死んでいた(=僕も生まれていない)。救急搬送。遺書はなく、自殺の原因は不明とされた。後で分かったことだが、直接的な自殺の原因があったというより、鬱病の希死念慮というものだったらしい。父ちゃんは一命を取り留めた後、救急センターから精神病院に転院した。

 一方、湯河原出身湯河原育ちの母ちゃんの病気は、統合失調症。現代美術家や有名シンガーソングライターなど、この病気は、しばしば芸術系の才能に恵まれた人を悩ませている。母ちゃんも若い頃は美大生だった。今でもメモ帳に落書きなどすると、幻惑的な抽象画になっているのだが、「こんなの遊び」と言って、母ちゃんはそれをポイポイと捨ててしまう。

 美大受験というのはとても厳しく、母ちゃんは高校二年生から平塚のアトリエに通っていた。そして、トレーニングのための絵を数えきれないほど描いた。それは楽しい作業ではなかった。苦しい作業だった。だが美大合格の為に母ちゃんは頑張った。アトリエに通っていた頃から何か違和感のようなものは感じていたらしいのだが、その違和感の正体は多分、ストレスによる疲労だろうと、母ちゃんは思っていた。
 母ちゃんは「美大に入れば好きな絵が自由に描けるようになる、それまでの辛抱だ」と、歯を食いしばって毎日、描きたくもない「トレーニングのための絵」を描きに描きまくった。
 そして母ちゃんは晴れて美大に現役合格した。湯河原からの通学は無理と言うことで、下宿を埼玉の所沢に決めた。東京の人は笑うかもしれないけれど、湯河原から見たら、所沢は「大都会」「都心」、もう「東京の一部」なのだ。憧れの都市生活。心躍らせて母ちゃんは、美大の門をくぐった。そこには無限の自由がある、と、母ちゃんは夢を広げた。たが美大の授業が始まってみると、そうではなかった。自由どころか毎日が課題の嵐。自由に絵を描く時間も余裕も全く無くなってしまった。母ちゃんは、絶望しながらも課題をこなした。
 ある日、下宿先のマンションで、三角錐とりんごをデッサンしていると、りんごから虫が這い出して来るのが見えた。そして背後から首を絞める誰かが居た……それらは統合失調症の幻覚だったのだが……マンションのベランダから助けを求め、通行人が警察に通報。警察から精神科へ直行。入院。

 父ちゃんと母ちゃんは、それぞれ別の理由で静岡県沼津市の病院に入院した。父ちゃんは小田原の近辺の病院に空きがないという建前で。近所の精神科に入院したくない、という本音もあったようだ。母ちゃんは最初に診察を受けたクリニックの先生が、沼津の病院に勤務している先生だった。
 ある日、母ちゃんは、談話室で「病院友達」と昔話をしていた。精神科は入院期間が長いので友達が出来やすい。
 友達は高校生の時に統合失調症を発症していた。全日制の学校を辞めて通信制の高校に転学した話。母ちゃんの高校時代の話は、毎日平塚のアトリエに通って、遅くまで絵を描いていたことなど。

 「でも帰りが遅いと、時々、特急にタダで乗れたんだよ。湘南ライナーっていう」

 その話を、横でテレビを見ていた父ちゃんが聞いていた。いや、この時点ではまだ、母ちゃんでも父ちゃんでもなく、他人だったのだけれど。

 「湘南ライナー、俺も乗ってた。てゆーか平塚通ってた」。

 夜になると東海道線には「湘南ライナー」という不思議な特急が現れる。東京や品川から乗る時には特急料金が必要だが、大船から先の駅で乗る時には料金が不要。特急というより快速の一種だろうか?
 湘南ライナー、平塚、湯河原。運命のいたずら。交わるはずのない線が、沼津の病院で交わった。
 二人は平塚の美術館や喫茶店の話なども話すようにになった。それと湯河原の地元話、「味の大西」のラーメンは美味しい、いや「国味(こくみ)」の方がボリュームがある、など。沼津の病院に湯河原から来ているのは、父ちゃんと母ちゃんだけだった。
 思い出話だけでなく、父ちゃんと母ちゃんには、病気は違えど共通点が多かった。ともに「億劫」で「体が重い」「だるい」「風呂に入りたくない」など。やがて二人は一緒に作業療法に参加するようになった。二人はどんどん仲良くなって、そのまま勝手に籍を入れてしまった。そして生まれてきたのが僕だ。

 父ちゃんはその時既に霞ヶ関の仕事は辞めていた。療養休暇や休職という選択肢もあったのだが、父ちゃんはもう二度と霞ヶ関に行きたくないと考えた。そして結婚してから父ちゃんは、生活費を稼ぐために、霞が関時代に覚えたHTMLタグの知識を活かしてウェブ管理の仕事を始めた。最初は仕事がなかなか取れなかったが、僕が生まれる頃には常連のお客さんが一件二件と少しずつ付いてきた。
 単純に湯河原で稼ぐことだけを考えれば、温泉旅館の正社員になった方が儲かる。ただ、父ちゃんは病気と薬の副作用のために、日中、不規則に眠気がやってくる。そんな体調であるから、雇われ仕事は難しい。父ちゃんは、居眠りをしながら仕事場でぽちぽちと、小規模なウェブサイトの更新や、メールマガジンの執筆代行などを行っている。そんな仕事が儲かるかというと、そうではない。絶望的に儲からない。だから僕らは、いつも貧しくつつましく暮らしている。

 父ちゃんが自宅で仕事をしていることによるメリットは、実は僕も享受している。貧乏暮らしながら父ちゃんの仕事上必要なので、家に1Gbpsの光ファイバーが引いてある。パソコンも自由に使える。父ちゃんの制作用パソコンのほか、僕が手伝いをするときに使うノートパソコンがある。OSはWindows。Macでないのは、父ちゃんがデザイナー出身でなく霞ヶ関出身だった名残だ。
 小学三年生くらいから既に、僕は光ファイバーとパソコンを使って、インターネットの海を自由に巡り歩いていた。僕が興味を惹かれたのはプログラミングだ。プログラミングによって、パソコンが自分の指示したとおりに動作する。それが面白かった。プログラミングは父ちゃんの仕事の手伝いにも大いに貢献する。仕事で必要なスクリプト言語をマスターしたのが中学一年。分からないことはGoogle調べた。今では、その分野では父ちゃんより僕の方が詳しい。というより、そもそも父ちゃんの技術は2000年くらいで止まっている。

 ともあれ、そんな両親であるがゆえ僕は、子供ながら身の回りの色々なことから仕事の手伝いまで、自ら色々と行う必要があった。何も出来ない小さい頃は悲惨だった。夕ご飯が「今日はお休み」という日がしばしばあった。経済的にというより体調的な問題で、両親とも体が動かなくて料理が出来ないのだ。そういう日には、水を飲みながらポテトチップスを食べてしのいだ。
 小学三年生頃から、そういう時には僕はコンビニにおにぎりを買いに行くようになった。
 小学五年生頃から料理を始めた。初めて作ったメニューは、キャベツ入りのインスタントラーメンだった。中学に上がる頃には、ささやかながらも何とか夕食が作れるようになっていた。
 中学で既に、僕は学校関係の提出書類の作成なんかも、ほとんど自力で済ませた。例えば自宅から学校までの地図を書け、という提出書類があったが、自宅からほとんど出ない父ちゃんにも母ちゃんにも、そもそも中学校までの道がわからない。さすがにPTAだけは免除してもらった。生徒が代理出席という訳にはいかないから。

 ……

 さて、スーパー経由で僕が学校から帰宅すると、母ちゃんはこたつで丸くなっていた。
 母ちゃんが顔を上げると、眉間にちょん・ちょんと縦じわが入っていた。かなり具合が悪くなっているサインだが、まあいつものことではある。

「しんどい?」
「うん」
「頓服飲んだ?」
「我慢大会」

 母ちゃんは決して、好きで我慢しているのではない。統合失調の症状一つに「億劫」というのがあり、それが出ているのだ。億劫になると頓服薬も飲めなくなり、頓服薬を飲まないので、なおさら億劫になる。もの凄く辛い循環である。

「我慢しなくていいよ、今、頓服作るから」

 僕は台所に向かい、冷蔵庫のドアポケットから野菜ジュースを取り出す。グラスに半分。頓服薬の液剤リスパダール3mlを2本注入。本当に具合の悪い時にはこれくらい飲まないと効かない。僕は居間に戻り、液剤リスパダール入りの野菜ジュース母ちゃんに飲ませる。

「今日はアジが安かったよ。母ちゃんの好きなアジフライにするよ」
「うん、アジフライ大好き」
「父ちゃんは?」
「まだ事務所。呼んで来るよ」

 母ちゃん、眉間の縦じわ消失。ひょいひょいと外階段を下りて一階の仕事場に向かう。液剤リスパダールは偉大。この薬は母ちゃんの日常生活を、随分とマシにしている。
 僕は小さな台所で米を研ぎ、炊飯器にセットする。うちは築五十年の事務所兼アパート。昭和の頃は水道工事屋さんだった。その古い建物を月三万円で借りている。一階の事務所跡が父ちゃんの仕事場。二階は住み込みの職人さんの宿舎だったが、今は僕らの住まい。
 炊飯器の機嫌の良い音を聞きながらアジフライを揚げる。トマトとキュウリと大根を切り、ドレッシングで和えた。
 夕食を食べながら、僕はふと思い出して、チガ子のことを話した。父ちゃんは「猫はいいぞ、猫はかわいい」と言ったが、母ちゃんは「うちでは飼えないからね」と釘を刺した。
 まあ、そうだろうな。借家だし、貧乏だし。

 ……

 翌日の昼休み、僕は弁当を持って階段堤防に出た。チガ子はすぐに現れた。今日も釣り人に付き合って小魚を貰っていたようだ。
 果たしてチガ子はすぐに現れた。今日も釣り人に付き合って小魚を貰っていたようだ。

「チガ子、持って来たぞ、ミルク。その前に、アジフライを一匹あげよう」

 弁当からアジフライを一匹、つまみとる。弁当箱のふたを裏返して、アジフライを置く。チガ子は最初、不審そうな表情をしてくんくんと匂いを嗅いでいたが、やがてそれが何であるか察したらしく、旨そうに食い付いた。

「アジフライは好きかい?」

 チガ子は何も答えない。でも喜んで食べている。
 しゃくしゃくとアジフライを噛み砕き、少しずつ飲み込んでいく。

「アジフライが君の好みに合って良かったよ」

 僕も弁当箱からアジフライを一匹取り出して囓る。
 アジフライを食べ終えると、チガ子は満足そうに、前足で顔を洗い始めた。

「それとミルクな。しかし本当にミルクでいいのかな?」

 今度は弁当箱のふたを少し傾け、紙パックを開いてミルクを注ぐ。
 チガ子はそれが何であるかすぐに分かったらしく、注ぎ終えるとすぐに、小さな舌を出してミルクを飲み始めた。

 ぺくぺくぺく。チガ子がミルクを飲む音が海辺に漂う。

 考えて見ると、チガ子に限らず野良猫は、ミルクどころか綺麗な水を口にすることすら難しい。公衆トイレに行けば水道はあるが、猫は蛇口をひねることが出来ない。雨上がりの水たまりの、雑菌だらけの泥水を飲んだりしているのだろう。それでも猫は胃酸が強いから食中毒にはならない。でも寄生虫や伝染病に感染するリスクは高い。
 僕は紙パックに半分残っているミルクに、ストローを刺して飲んでみた。生温いけれど、かすかに甘みを含んだミルクの味が口に広がる。僕とチガ子との間に、ミルクを介して満ち足りた時間が流れる。

 ミルクを飲み終えると、チガ子はまた僕の膝に乗った。
 そしてゆっくりと足踏みを始めた。糠味噌を押し混ぜているようにも見える。昨日と同じ、ミルキング。
 僕は、父ちゃんと母ちゃんの「ごろにゃん」を思い出す。「ごろにゃん」というのは、精神的に具合が良くない時の、セルフケア。癒しっこ。父ちゃんの膝枕に、母ちゃんが頭を乗せる。父ちゃんは、母ちゃんの背筋をなでたり、背中や腰のあたりをぽんぽん叩いたりする。母ちゃんは「ごろにゃーん」と言う。逆もある。父ちゃんの具合が悪い時には母ちゃんの膝枕で、父ちゃんが「ごろにゃん」をする。
 そんな風に甘えられる異性がいたらいいな……とは思う。チガ子が同級生で「ごろにゃん」のできる関係、なんてな。憧れないといえば嘘になる。
 チガ子はひとしきりミルキングを行うと、ひょいと膝から飛び降りた。そして相模灘沖に向かって座り直すと、大きな声で短く鳴いた。

「にゃ!」

 やがて海面に、白い航跡が現れた。大きく回ったり、8の字を描いたりしている。鮫か?いやそんなに大きくない。魚雷?巡行ミサイル?沖に船は停泊していないし、そもそも、そういうものは8の字など描かない。

「にゃあああ!」

 チガ子が再び鳴く。長く強く、叫ぶように。
 航跡は沖に戻っていった。やれやれ。と思ったら、反転して速度を上げ、一直線にこちらに向かってきた。そして、すぼっと何かが海中から飛び出して柵を越えた。小型ミサイル?何となく……いや明らかにチガ子を狙っている、何これ?おいちょっと待て洒落にならんぞ!

「チガ子逃げろ!」
「にゃあぅう〜」

 チガ子は後ろ足で左耳を掻いている。バカ!早く逃げろ!だがチガ子は動かない。とっさに僕は、チガ子に覆いかぶさった、

「ぐわっ!」

 背中に衝撃。閃光に包まれる。気が遠くなる……それからどのくらい時間が経過したのだろう。三分か、五分か、あるいはもっと長かったかもしれない。
 気がつくと僕はうつ伏せに倒れていた。さざ波の音が、何事もなかったように響いていた。何かが衝突した背中には痛みはない。僕はうつ伏せで、何かに乗っている。柔らかい、と同時に、ところどころ固い。かすかに動いている。呼吸?僕は髪の毛のようなものに顔を埋めている。髪の毛?そうだチガ子、チガ子はどうした?

「チガ子!」
「何?」
「いや何でも……は?」

 チガ子が返事をした?僕は今、どうなっているのだ?僕は起き上がろうとした。

「離れないで!」
「ぐえっ」

 首を絞められて起きられない。細くしなやかな腕。髪の甘い匂い。僕は、人間の上に乗っていると確信した。しかも女子。僕は動転して飛び起きようとしたが、女子はますます強く腕を絡め、僕が離れることを拒否した。

「離れちゃダメ!」
「なぜ?」
「猫が服着てるわけないじゃない!」
「猫?服?」
「裸なの!見ないで!」
「こんなに近くちゃ何も見えない」
「それでいいの!離れる時に目を閉じて。それから君の上着を貸しなさい!」
「う、上着?」

 言われるままに僕は目を閉じて女子から離れ、目を閉じたまま立ち上がると、上着のブレザーを脱いで差し出した。ブレザーはふわりと受け取られて行った。しばし、衣擦れが聞こえた。

「いいかな?」
「いいよ、でも、あんまり見ちゃ嫌だよ」
「はい?」

 僕はゆっくりと目を開いた。ついでながら開いた口も塞がらない。
 小柄な美少女が僕の制服を着て立っている。上着だけ。上着の前を両手で押さえ、肩から腰までを隠している。隠していることで事情をすぐに把握した。本当に裸なのだ。風が吹くと、腰まで届くライトブラウンの髪がそよぐ。目はくりっとした二重で小動物のようだ。小さな小鼻が形良く整っている。

「スケベ!じろじろ見ない!」
「いや、その、すみません」

 訳も分からず、僕は反射的に謝ってしまう。そして、とりあえず顔を相模灘沖に向ける。

「あ、あのー、どちらさまでしょうか?」
「あたしチガ子」
「チガ子?チガ子は猫ですが」
「何てことしてくれたの!豆ちゃんが変な願いを掛けたから、あたし同級生になっちゃったじゃない!どうしてくれるの!」
「は?」

 豆ちゃんというのは僕のこと。そんな両親でもないと知らないあだ名をなぜ君が?いやそんなことより「願い」って何だ?

「せっかく『願いのトビウオ』を呼んだのに!君が貧乏だって言ったから、『一〇〇万円飛んでこい』って願いをかけたのよ!なのに君は『あたしが同級生になったら』とか願って『願いのトビウオ』を自分に当ててしまった。何考えてんのよ!」
「訳が分からなくて混乱してるんだけど……」

 僕は視線を相模灘に投げ出したたまま話した。沖合の消波ブロックが、時折大きな波を砕いて飲み込んでいる。

「『願いのトビウオ』って何?」
「このあたりの猫ならみんな知ってるわ。湯河原で海辺育ちの猫は、一生に一度だけ『願いのトビウオ』を呼べる」
「そんな話、聞いたことがない。湯河原生まれだけど」
「猫だけの秘密。いつもお腹を空かせて苦しんでいる野良猫たちはね、死ぬ間際になって、大きなお魚をいっぱい食べたいとか、綺麗な水を思い切り飲みたいとか願って『願いのトビウオ』を呼ぶのよ」
「さっぱりわからん。てゆーか君、誰?どうして裸でこんなところに」
「だから私はチガ子なのよ!野良猫が服着てるわけないじゃない!」
「うーん」
「優しくしてくれた君に、あたしは感謝した。美味しい食事と甘いミルク、もう何も望むものはない。君は肉が食べられないほど貧乏だと言った。だから私は願った。『一〇〇万円飛んでこい』。なのに豆ちゃん、私の邪魔をして自分の背中に『願いのトビウオ』を当ててしまった。どうすんのよ!私のじゃなくて君の願いが叶っちゃったじゃない!」
「はぁ」
「真面目に聞いてる?」
「真面目には聞いてるけど……さっきのミサイルみたいのって『願いのトビウオ』?」
「そうよ!」
「で、君は、チガ子なの?」
「そうよ!嘘だと思うなら、あたしの瞳を見なさい!」
 僕は沖合から視線を戻し、女子の瞳を見た。左が栗色、右が青。オッドアイ。猫のチガ子と同じだ。肌は透き通るような白。白地にオッドアイ=チガ子?うーん。女子がはにかみながら訊ねる。
「どう?信じた?」

 俺は再び沖合に視線を戻して言った。

「……保留、でよいでしょうか?」
「何よそれ」
「猫が人間になるというのが信じられない。でも、言われてみれば確かに僕は、チガ子が猫じゃなくて同級生だったらなあ、ということは、考えなかった訳でもないかも」
「かもじゃないわよ!君はそう願ったのよ!」
「うーん。まあ、そうかなあ……それに、瞳とか色白とか、君はチガ子の特徴を引き継いでいるようにも見えるけれど」
「いい加減に信じなさい!あたしはチガ子なのよ!そんなことより、君の家に住ませて!」
「え?うち貧乏なんだけど」
「貧乏なんて問題じゃないわよ!あたしなんか家がないのよ!」
「今までどうしてたの?」
「野良猫だもん、公園の隅っこの茂みの中で寝てたわよ!でももう人間の女子!野宿って訳にいかない」

 そうだなあ、女子が公園で野宿って訳にはいかないよなあ、しかし……

「あのね、うち、本当に貧乏なんだよ、両親とも病気で、僕が仕事や家事を手伝ったりしているんだ」
「あたし贅沢は言わない。約束する。食事も服も質素でいい」
「衣食だけじゃなくて家も古い」
「家があるだけいいじゃない!それとも君、あたしを野宿させたいわけ?」
「いや、そんなことないけど」
「全ては君の変な願いが原因なのよ!責任取りなさい!」
「責任ねえ……でも、うち、本当に貧乏で」
「とにかく豆ちゃん、今、君の目の前に裸の女子がいるの、Are you READY ?困っていることくらい察しなさい!察してすぐに行動しなさい!」
「ええと、とりあえず……どうすればよいでしょうか?」

 僕は困ってしまい、本人に訊ねてみる。

「まずあたしを家に連れて行きなさい!そして服を揃えなさい!女子が裸でいい訳ないでしょう!」
「うち、女子の服なんてないよ、母ちゃんのならあるけど」
「とりあえずそれでいいわ!」
「わかった、家に帰ろう」
「ちょっと待って、このまま歩かせる気?」
「へ?」
「靴、貸しなさい!男子でしょ!裸足で帰る!」

 男子と裸足の関連性がよく分からない。ともあれ上着と靴を召し上げられて僕は、チガ子を名乗る女子と一緒に家に帰ることになった。
 午後の授業はどうしよう、サボるしかないなあ。
 僕は靴下を脱いだ。靴下のまま歩いたら、靴下に穴が空く。それは困る。うちは貧乏だから。
 そして僕は、中学校でも小学校でもやったことのない、ある意味禁断の世界「授業をサボる」に、裸足で踏み込む。

 ……

 家に帰るなり僕は母ちゃんに張り倒された。

「豆!あんたこのお嬢さんに何したの!」

 母ちゃん、もう完全に僕が「何かした」と思っている。

「母ちゃん違うんだ、この子チガ子なんだよ」
「チガ子?階段堤防の猫?」
「彼女の瞳を見てよ、チガ子と同じ……」

 母ちゃん、チガ子の瞳を覗き込む。

「そんなの偶然でしょ!この子はいったい、」
「だからチガ子なんだよ、何でも『願いのトビウオ』というのが当たっちゃって、チガ子は人間になった」

 母ちゃんは真顔になってチガ子に訊ねる。

「大丈夫?怪我はない?」
「お母さん初めまして、あたしチガ子です」
「え?」
「豆ちゃんの言っていることは全部本当です。あたし猫から人間になりました。それで早速ご相談したいことがあるんですけど」
「そ、相談?何かしら」
「あたしを下宿させてください」
「下宿?」
「皿洗いでもお掃除でも何でもします、あたし猫だったから家がないんです」
「猫だったって……」
「母ちゃん、信じてくれない気持ちは分かるけど、この子の言っている通りなんだ、でも、うち貧乏だし、どうしよう。とりあえず服を貸してほしいというので連れて来たんだけど」
「そうだわ、あなた上着一枚じゃないの!あたしの服貸す!豆は外で待ってなさい!」

 僕は家から押し出されて、外階段の下で待つことにした。なんだか僕が野良猫になった気分だ。十分くらい待っただろうか。

「入っていいわよ」

 チガ子は母ちゃんのTシャツとロングスカートを借りていた。エメラルドグリーンのTシャツにデニムのスカート。明るいトーンの長い髪は、黄色のゴムでまとめてポニーテール。

「人間って楽しいね!模様が変えられるんだもん」
「模様?」

 母ちゃんが口を挟む。

「チガ子は服のことを模様って言ってるのよ。人間はいろんな模様が出来ていいなって。自分はずっと白一色でつまんなかったって」
「それは良かった。で、母ちゃん、下宿の件はどうするの?」
「下宿?」

 おしゃれのことで頭が一杯で、下宿のことは忘れていたらしい。

「うーん、そうねえ、一人くらい何とかするよ、父ちゃんにも相談してみる」

 うちは貧乏暮らしながら、幸いにして、建物がもともと水道工事屋の宿舎を兼ねていたので部屋数は多い。チガ子の部屋も何とか確保できそうだ。しかし……

「子供が一人増えちゃうけど、いいの?服だって買いそろえなきゃいけないし」
「いいわよ!こんなかわいい子なら大歓迎よ。あとね、こういう緊急時に備えて……」

 母ちゃんはプラスティックの衣装ケースを二つ三つ開けてごそごそと探し物を始めた。母ちゃんは整理整頓が苦手。身の回りのあらゆるものを衣装ケースにつっこんでしまって、訳が分からなくなってしまう。まあそれも統合失調という病気の症状なので、仕方ないことなのだけれど……

「あった!五万円」

 母ちゃんは古びた封筒を取り出した。中から一万円札が五枚。

「母ちゃん、そのお金は?」
「非常用の隠し資金。これからチガ子とヤオハンに行って、服、買って来る」
「お母さん、制服ってどこで売ってるの?」
「制服?学校行きたいの?」
「行く行く!もともとあたしは湯河原南高出入り自由だったのよ」

 僕はちょっと考える。

「いやちょっと待てよ、チガ子が出入り自由だったのは猫だった時の話で、人間になったら……」
「君の願い通り、もう同級生なのよ。一緒のクラスになってるといいね」
「あ……」

 母ちゃんが言う。

「制服は、急いでも二〜三日かかるわね。その間はうちに居なさい」
「ありがとう!」

 母ちゃん、妙に機嫌が良い。チガ子が気に入ったらしい。

 ……

 翌日、僕は一人で登校した。チガ子にはまだ制服がない。
 放課後、いつものようにスーパーに立ち寄ろうと思って国道を歩いていたら、母ちゃんから携帯に着信。ちなみに僕の携帯はスマホどころかガラケーでさえない。小学生から愛用している、家族と緊急連絡しか通じない「こどもケータイ」。

「今日はお買い物、チガ子が行ってくれたからいいよ、あと晩ご飯の支度も」
「チガ子って料理出来るの?」
「上手よ!あたしよりうまいわね」
「へえ……じゃあ、すぐ帰るよ」

 帰宅するとチガ子が歌っていた。

「夕焼~け小焼けぇの、赤とんぼぉ~」
「チガ子、その歌、どこで覚えたんだ?」
「歌はね、時々カリカリを持ってきてくれる優しいおばあちゃんが教えてくれた」
「猫って人間の言葉とか、わかってるものなの?」
「少なくともあたしはそうね。あたしは猫ながら、階段堤防で人間から色々なことを教わっていたんだよ」
「あそこは釣り人くらいしか来ないだろう?」
「それがそうでもないのよ。あんなところに来るのはねえ、それなりに大変な人達な訳よ」
「大変な人達?」
「ボロボロになるまで扱き使われた末に、リストラされたオジサンとか。朝七時から夜十一時まで働き詰めでボーナスなしだって。もちろん退職金もなし。階段堤防に来て、あたしに打ち明けてくれた。ブラック企業って湯河原にもあるんだね」
「その人、階段堤防じゃなくて労働基準監督署に行くべきだな」
「そういう人に限って、いい人で、会社に歯向かうなんてことできないのよ」
「そんなもんかねえ」
「あとはねえ……知ってる?湯河原南高の修学旅行の業者が変わった理由」
「修学旅行の業者?旅行会社ってこと?それって変わるものなの?」
「普通は変えないんだって」
「なんでチガ子がそんなこと知ってるの?」
「二年前にねえ、出入りの旅行会社の営業マンが大失態をやらかしたのよ。熱海から京都までの新幹線、往復とも指定席とりそこね。それでその年の修学旅行は、先生も生徒も京都往復立ち詰め。生徒以上に、修学旅行担当の先生、鬼のように怒っちゃって」
「そりゃ怒るわな」
「で、その旅行会社の営業マン、『湯河原南高出入り禁止の刑』。営業マン、階段堤防に来て泣いたのよ」
「泣いた?」
「旅行会社の営業マンって、新しく修学旅行の契約を取ってきたらボーナスが出るんだって。でも逆に、修学旅行の契約を切られたら大変なんだって。普通なら次の年に挽回するチャンスもあるけど『出入り禁止』になっちゃった。始末書書かされて左遷だって」
「ふうん。修学旅行を旅行会社サイドから考えたことって、なかったな。しかしな、階段堤防で猫を相手にそんな愚痴こぼしているような営業マンだから、そんな情けないミスをするんだろうなという気もする」
「あたしはね、だからその人に言ったんだよ、仕事変えたほうがいいよ、って。旅館とか飲食店とか湯河原にも仕事はあるし」
「言った?お前、やっぱり喋れたのか?」
「念を送ったのよ。君はちゃんと理解したじゃない。『ミルク』」
「念?……誰でも理解できるものじゃないと思うけど」

 僕の脳に猫から「念」を受け取る能力があったなんて、初めて知った。両親の脳がちょっと変わっている影響だろうか?

「それよりねえ聞いて!明日制服が来るの!」
「制服?お前本当に同級生になるつもりか?」
「いけない?あたし学校には出入りしてたけど、教室には入ったことなかったし。何やってるのか知りたい」
「何って、普通に授業やってるけど……しかし明日制服が来るって本当か?」
「ホントだよ、二年生に転校した子がいて、制服が余ってるんだって。身長もあたしと同じくらい」
「ふーむ、いよいよ本当に学校に来るんだなあ」
「それとね、今夜の晩ご飯はあたしが作ったんだよ!」
「母ちゃんもそんなこと言ってたな、お前、料理出来るの?」
「お母さんのレシピ本借りた」
「何作ったの?」
「カレーよ!」

 そういえばカレーの匂いがする。猫の作ったカレー?どういう味なのか僕は知りたい。

「味見していい?」
「あー、信用してないでしょ、どうせ猫の作ったカレーとか思ってるでしょ」
「いやそうは言わないけど……ちょっとお腹空いた」
「鍋に出来てるよ。まだご飯は炊けてない」

 僕は台所に立って鍋をあけ、チガ子の作ったカレーをスプーンですくってみる。見たところ普通のカレー。いや猫が「普通のカレー」を作ったというだけで、十分に驚きに値するのだけれど……

「旨い!チガ子こんなのどこで覚えたんだ?」
「レシピ本見た。人間の頭って、簡単に情報が追加できるんだね。便利だねえ」

 チガ子の作ったカレーには鶏肉が入っていた。

「この鶏肉の具とか、下味付けた?」
「わかるぅ?そこはお母さんから教わった。あと、今日はスーパーで鶏ムネが特売だったから、鶏カレー」
「お前、やりくり上手だな」
「まあね〜」

 普段は僕が夕食を作ることが多いので、たまに誰かに料理を作ってもらえると凄く嬉しい。
 母ちゃんも感心する。

「あんた本当に猫だったの?実はちょくちょく人間になって、料理とかしてたんじゃない?」
「違う違う、猫、猫。人間は情報がたくさんあって楽しいね。脳みそが一回り大きくなったような気がする」

 ……

 翌日、僕はいつもの通り学校に向かった。チガ子はまだ制服がないので一日家にいることにした。夕食は今日もチガ子が作ってくれるという。ありがたや。
 午後、今日もスーパーに寄らずに帰宅すると、チガ子は一階の仕事場に居た。父ちゃんは黙々とメールマガジンの原稿書きに勤しんでいた、ように見えたが、よく見ると居眠りをしていた。
 父ちゃんを起こすと、チガ子は今日は、僕のノートパソコンでネットサーフィンしていたという。

「これ面白い」
「ネット見てたのか」

 チガ子はネットに興味を持ったようだ。

「うん、お父さんの仕事も少しだけ教わった。あたしにも出来そう。町役場にも挨拶に行ったんだよ」

 父ちゃんはチガ子にも仕事を手伝わせるつもりらしい。
 優秀そうな子だし、僕一人じゃ辛いときもあるし、そうしてもらえると助かるけれど。

「一応、町役場の観光課はうちのクライアントだからな。観光情報のホームページをうちで管理している。仕事は、凝ったことしなければ、割とすぐ出来るようになると思うよ。チガ子、頭良さそうだから」
「でもあたしキーボード苦手。人間ってどうしてこんなに指が長いの?指なんか短くても爪伸ばせばいいじゃん」
「どうしてって僕に聞かれてもなあ」

 僕は、爪を出してキーボードを引っ掻く猫を想像してみる。
 チガ子が話題を変える。

「今日も夕食の支度するよ、カツオだよ」
「もしかして今日、カツオ特売?」
「そ!安くて四人が満腹出来るって言ったら冷凍のカツオでしょう。あたしお魚好きだし」
「お前、いい奥さんになるよ」
「誰の?」
「……」

 誰の?
 僕は答えに詰まった。

「いや冗談冗談、今、上に行ってカツオ切ってくる」
「あ、まだ少し早いんじゃないかな?」
「じゃあもう少しネット見てる」
「それがいいな」

 チガ子は人間の暮らしが気に入ったようだ。
 僕はチガ子に質問してみた。

「ところでチガ子、ネットを見て、何か収穫はあったか?」
「うん。あたし猫のこと調べてた」
「色々な種類の猫がいるからな」
「いやそうじゃなくて。あたしにカリカリをくれてた人とか、どういう人だったのかな、とか」
「そんなことネットで分かるのか?」
「少し分かったわ。TNR運動とか」
「てぃーえぬあーる?」
「野良猫を保護して、避妊去勢して、また野良に返す」
「それじゃ野良猫は減らないじゃないか」
「ところが減るのよ。野良猫はせいぜい四年くらいしか生きられない。新しく猫を捨てる人がいなければ、TNRで次第に野良猫の数は減っていくものなのよ」

 チガ子はネットの海で、僕の知らない世界を切り開いている。

「そろそろカツオ切って来る」
「ああ、悪いな」

 チガ子はノートパソコンを閉じると二階へ上がって行った。
 僕はちょっと気になって、再びパソコンを開いてTNRについて検索してみた。

 T、トラップ。捕まえる。
 N、ニューター。雄は去勢、雌は避妊。要するに子孫繁栄を止める手術を施す。
 R、リターン。元の場所に戻す。餌を与える時には、猫が食べ終えたら餌を片付ける。

 湯河原でも、野良猫に餌を与えている人は居る。公園の片隅を汚したりして、かなり迷惑な存在として嫌われているが、それでもその人は餌やりをやめない。正直、うちには野良猫に餌を与える経済的余裕などない。僕にとっては、どうでもいい話の一つではあった。しかしまあ、考えてみると、生ある者に食餌を出す。それが悪いことのはずがない。でも、野良猫の糞尿や爪とぎで、家や家の周りの環境が悪化することがある。病気の猫もいる。猫を飼っている人なら、病気を移されないかと心配するだろう。猫は、餌やりを始めると、次から次へと仲間がやってきて、加速度的に猫が増えるという問題もある。
 問題を断ち切るには、野良猫には餌を与えず、静かに死を迎えさせてやるしかないのではないか……って、じゃあ最初の「生ある者に食餌を出すのが悪いはずがない」って話は、どこへ行ってしまうのかと。堂々巡り。
 だがその堂々巡りに楔を打ち込むのがTNR。
 野良猫に「餌やり」ではなく「避妊去勢」を行うというのは、ちょっと意表を突かれた。飼い猫の避妊去勢はよく聞くが、野良猫にそれを行うというのだ。それと同時に、餌やりにルールを作る。餌は与える時にだけ出して食べ残しは処分する、餌場を汚したら清掃する、など。糞尿の問題は未解決となりそうで、そのあたりはどうしたらいいものかなあとは思うが、ただ餓死に向かわせるよりは建設的だろう。世の中を良い方向に持っていくような雰囲気もある。

 夕食は、チガ子が綺麗に切りそろえたカツオの叩き。カツオの叩きって切るの難しいんだけど、身を崩さずに、僕より上手に切ってある。やっぱり女子の方が丁寧だな。切り方が上手だと味も良くなる。
 父ちゃんも母ちゃんも、カツオは僕よりチガ子の方が上手に切ると褒めた。チガ子は得意げな顔で、ご飯にカツオをのせて口に運んだ。
 食後にコーヒー。うちで唯一許される贅沢。

「コーヒーって初めて。どうやって作るの?」
「本当はハンドドリップの方が旨いんだろうけど、うちはコーヒーメーカーがあるから。こうやってペーパーをセットして豆を入れて、こっちに水を入れて」

 チガ子は興味深そうにコーヒーメーカーを眺める。
 スイッチを入れてしばらく待つ。コーヒーの香りが部屋に満ちはじめる。数分後、ピー、ピー、と鳴ってコーヒーが出来上がる。
 コーヒーは普段より多めに作り、湯のみを使ってチガ子にも分ける。近いうちにチガ子用のマグカップを買わなきゃな。
 コーヒーを初めて飲んだチガ子は、少し驚いたような顔をした。

「ねえ、この飲み物、何か凄くない?香りとか、味とか。甘いような、甘くないような」
「そう、凄いんだ。ただのコーヒーじゃない。グレードの高い豆しか使っていない上に、職人さんが直火式焙煎器で微調整しながら焼いている。国会議員の秘書も買ってる上等のコーヒーだ」
「うちって貧乏なんだよね、どうして?」
「父ちゃんがギャラの一部を現物支給で貰ってるんだ。クライアントに東京で自家焙煎やってる喫茶店が一件ある。そこのネット通販を父ちゃんが管理してるんだ。それで、その管理費の一部がこのコーヒーなんだ。税務署には内緒だけれど、銀行の通帳に金額が出ないしマイナンバーとも関連しないから、税務署にはバレない」
「ふーん。このコーヒーって高いの?」
「高いよ。スーパーで売ってる豆の二倍くらいする」

 父ちゃんは僕らの会話を聞き流しながら、目を閉じてコーヒーを味わっている。いや、居眠りか。今日も結構疲れたんだろうな。

 ……

 その夜の八時頃、宅配便が来た。
 両手で抱えられるくらいの段ボール箱が一つ……品名「制服」?まさか……

「母ちゃん、この宅配便の差出人、松永って人、チガ子に制服くれるって人?」
「そうだよ。速いなあ」
「チガ子!制服が来たぞ!制服!明日から学校行けるぞ!」
「ホント?うわぁい!お母さん早く早く、あたし試着してみたい!」
「開けていいよ、寸法とか合わないところは直さないとね」

 チガ子はもう待てないという感じで、バリバリとダンボール箱のテープを剥がした。

「まあ慌てるな、制服は逃げないから」
「逃げるよ逃げるよ!制服が逃げるよ!」

 チガ子は興奮のあまり訳の分からないことを言い始めた。
 宅配便の梱包を解くと、間違いなくそこには、湯河原南高校女子の制服が丁寧に畳んで収められていた。
 物を大切にする生徒だったのだろう、新品のように綺麗だ。

「ちょっと着替えるから出ていて」
「OK」

 部屋を出て、待つことしばし。

「お母さん、これサイズぴったりだよ、どこも直さなくていいよ」
「よかったあ、あたしお裁縫苦手なんだ」
「入っていいか?」
「いいよ!」

 部屋に戻って僕は、やっぱりな、と思った。
 ライトブルーのブレザーに、赤い濃淡チェックのスカート。色白に栗色の長い髪。可愛らしい顔立ち……制服モデル。

「チガ子、下品な言い方かもしれないけれど、お前、男好きのするタイプだよ。モテるぞ」
「あたし海辺で野良猫やってた時にも雄猫とかやってきて大変だったんだ、人間になってもそれなりに自信はあるよ」
「あー小悪魔。自分の可愛らしさに気づいている女子って厄介なんだよなあ」
「そんなオッサンみたいなこと言わない!明日から一緒に学校だよ!」

 明日は大変な一日になりそうだ。やれやれ。

 ……

「という訳で、転校生の木戸チガ子さんです」

 おおお、というどよめきが男子から挙がる。

「チガ子さんは木戸君のいとこで、木戸君の家に下宿することになりました」

 再び、おおお、というどよめき。明らかに嫉妬を含んでいる。男の嫉妬。
 チガ子は僕から少し離れた席に着席した。
 一時間目の国語が終わると、早速チガ子の争奪戦が始まった。最初にチガ子に声をかけたのはサッカー部の岩崎。にきび面ながら好男子ではある。

「チガ子さん、お願いがあります、サッカー部のマネージャーに」

 だが野球部の小宮山がそれを見逃しはしない。小宮山は目が細くて坊主頭。「生臭坊主」という言葉が似合う。

「チガ子さん、野球部のマネージャーに来てくれれば、ジュース飲み放題で歓迎します」
「いやサッカー部はお菓子食べ放題」

 ラグビー部の中島が割り込む。体格の良い中島、髪は七三に分けているが、勉強家というより土木建築の監督を連想させる。

「ラグビー部は部活の後のラーメン奢ります」

 だがチガ子は意外な答えを返した。

「ごめんなさい、みなさん。あたし、部活ってもう決めてるんです」
 おおお。男子のどよめき。女子は冷ややかな反応。岩崎が鋭く質問する。
「何部ですか?」
「ネコ部」

 ちーん。

 教室が凍り付いた。「ネコ部」?

「チガ子、ネコ部って何だ?」

 僕は思わずチガ子に声を掛けていた。そこでまた「おおお」とどよめき。

「無口の木戸が喋った!しかも呼び捨て!ひゅーひゅー」

 だから男子って鬱陶しいんだ。

「いとこなんだ、呼び捨てで何が悪い。それよりネコ部って何だ?」
「ネコ部はねぇ、これから作るの」
「ちょっとまて」

 僕は生徒手帳を開いて、部活に関する規則を探した。

「あった、ほらこれを見ろ、部員が四人以上いないと部活は」

 岩崎が手を挙げる。

「はい!僕、入ります!」

 小宮山が続く。

「俺も!」

 中島が続く。

「俺も入れて下さい!」

 あれ?四人揃った?

「いいわよ!みんな掛け持ちでネコ部ね」
「やった!」
「豆ちゃんは強制的にネコ部。いとこだから」
「いとこは関係ないだろう」

 岩崎が質問する。

「あのさぁ、ネコ部ってそもそも何するの?」

 僕もそれを聞きたかったところ。てゆーか、最初にそれ言えよ。

「ネコ部はね、まずホームページを作って野良猫と仲良く暮らすための情報発信をするの」

 もしかして昨日ネットで調べていた、あれか?チガ子が続ける。

「例えば湯河原町でも、野良猫の避妊去勢に補助金が出るんだよ。知ってる?普通、知らないでしょう?そういう話」

 そこで小宮山のツッコミ。

「活動場所はどこ?」

 チガ子はにこっと微笑みながら答える。

「これから考えるの。へへ」

 活動場所はノープランか。やれやれ。
 そういうところは野良猫の習性の名残だろうか?

 ……

 その日の放課後は特に何をするでもなく、チガ子は僕と帰宅することにした。僕は、もの凄い嫉妬の視線を感じながら学校を背にした。帰り道、住宅街を歩きながら、僕はチガ子に質問する。

「チガ子、ネコ部っていったっけ?あれ、本当にやるの?」
「本当よ。あたしTNRについて調べているうちに、これだ、と思った」
「野良猫の保護ってこと?」
「保護というより、コントロール」
「コントロールって、要するに、捕まえて人間の都合で避妊去勢をやるってことだろ?それっていいことなのか?猫的には腹が立ったりしないわけ?」
「あのね、野良猫って、すぐ妊娠するけど、生まれた子猫を育てるのは難しいのよ、餌も限られてるし、交通事故とかカラスに襲われたりとか」
「そういえばそうかなあ」
「それに発情期って、雄でも雌でも苦しいのよ。自分が自分でなくなった感じになる。人間に八つ当たりすることもあるわ」
「確かに発情期の猫は苦しそうな鳴き方をする」
「でも手術すればそういう苦しさはなくなるし、人間にとっても、もっとフレンドリーな存在になれるの」
「そういえばそんなことが書いてあったな、ネットにも」
「だからね、野良猫の避妊去勢は野良猫達にとってもいいことなのよ。で、そうして手術した猫は、片耳をね、桜の花の先みたいにカットするの。さくらねこ」
「耳をカットって虐待じゃないか?痛いだろう」
「手術の麻酔が効いているうちに、端っこだけちょん、って切るのよ。痛くないよ。それが避妊去勢の目印で、餌を与えても増えませんよっていう印。家には入れなくてもいいんだよ。地域で面倒を見るの。地域猫っていうの」

 フレンドリーな地域猫がいる日常。悪くないかも。
 しかし……

「でもな、うちでは手術代なんて出せないぞ、貧乏だから。補助金がいくらもらえるのか分からんが、100%補助ってことはないだろうよ、行政ってケチだからな」
「それでね、あたし考えたの。部活を作ればいいんだって」
「募金とか始めてみるか?」
「お金を集めるのは難しいわね。生徒が勝手に募金活動を始めるなんて学校が許してくれないだろうし」
「そりゃそうだ」
「だからまず、啓発活動から始めるの。そこでうちの強みが発揮されるのよ」
「うち?もしかして父ちゃんの仕事と関係あること?」
「うち、お父さんの仕事のためにレンタルサーバ借りてるでしょ?」
「ああ、独自ドメインも取得してな」
「そのサーバ、容量が百ギガバイトもあるのよ」
「知ってるよ、ま、うちじゃ永遠に使い切れないな。ささやかな個人事業だから」
「そのサーバの容量を少し分けてもらってね、あと、ドメインもサブドメイン設定なら無料でしょ、そういうリソースを活用してネコ部の情報発信を始めるのよ」

 チガ子、たった一日で父ちゃんの仕事の大半を理解している。湯河原南高ごときの授業には、余裕でついて行けるレベルの頭脳と見た。

「あのさ、その情報発信する人って、もしかして僕も入ってるんでしょうか?」
「もちろんよ!豆ちゃん、暇でしょ?」
「いや、家の手伝いが色々と……」
「あたしと代わりばんこにやればいいのよ!ネコ部副部長の名誉を君にあげるわ!」

 副部長=チガ子の下僕。他の男子なら喜ぶんだろうな。
 部活ねえ、僕には無縁の世界だったけど。
 面倒なことになりそうな予感。

 ……

 帰宅して外階段を昇り、チガ子がドアを開ける。次の瞬間、チガ子は慌ててドアを閉めた。色白のチガ子が顔を真っ赤にしている。
「な、な、な、何でもない!」

 ああ、あれだなと思った。

「気にするな、いつものことだ」
「悪いよ!今……」
「大丈夫。本人達、周りが見えてないから」

 改めて僕がドアを開けると、こたつの隅で父ちゃんと母ちゃんが「ごろにゃん」をしていた。今日は父ちゃんの膝枕に母ちゃんが乗っている。

「ただいまー、帰ってきたよー」
「ごろにゃ〜ん……ごろごろにゃ〜ん」

 父ちゃんが手のひらで、ぽんぽんぽんと母ちゃんの背中を叩きはじめる。

「豆!お父さんがお母さんのこと叩いてるよ!虐待だよ!止めなきゃ!」
「あれはポン子と言ってな、背中から腰のあたりに『元気の出るのツボ』があって、そこをぽんぽん叩くと気持ちいいんだ」
「ごろごろにゃ〜ん……ごろにゃ〜ん」
「な、聞いてないだろ?気にするな」
「あ、うん、いいのかな?ホント……」

 ……

 週末、チガ子は野球部の練習試合の応援に行った。チガ子の噂は一部の上級生に伝わり、小宮山を通じて野球部の先輩がチガ子を呼ぶように命じたのだ。人間の活動全般に興味津々のチガ子は、喜んで応援に出かけていった。僕はネットで調査。ネコ部らしいことを少しはしないと。何しろ副部長だからな。

 僕は溜まりに溜まった洗濯物の山を少しずつ片付けながら、まずTNRについて調べることにした。
 第一回転目の洗濯機を回しながら、猫の避妊去勢手術に必要な料金を調査することにした。まずは近在の動物病院に電話照会。雄で一万円前後、雌で二万円前後。まあそうだろうな、全身麻酔と酸素吸入が必要なのだ、本来それくらいかかる手術なのだろう。町の補助金はオス二千円、メス三千円。そんなもんだろうなという予感はしていたよ。やれやれ。
 しかし野良猫ってどうやって捕まえたらいいのだろう?チガ子みたいに人懐こい猫ばかりじゃない。調べてみると、町役場か獣医さんから、捕獲用のケージが借りられそうだ。この手を使うか。
 そこで第一回目の洗濯機が止ったので、洗濯物のしわを伸ばして、物干に吊るす。休んでいる暇はない。二回転目。今度は小物が多い。洗濯機に洗濯物と洗剤を放り込んで、スイッチを入れる。
 僕はネットの海を、Googleを頼りに探り歩く。ふーむ、東京や横浜、川崎には、野良猫の避妊去勢を五千円でやってくれる動物病院がある。さすが大都市。だが町内での手術ではないので補助金が出ないし、交通費の問題もある。僕かチガ子が付き添うと、交通費込みで結局、一万円を超える。
 二回転目の洗濯が終わり、洗濯物を取り出す。母ちゃんの下着には慣れている。だがチガ子が微妙。繊細な手触りの下着をおっかなびっくり干してみたりする。しかし、こんな小さいパンツにどうやったらあのお尻が入るのか、母ちゃんの2Lパンの四分の一くらい……ちょっと引っ張ってみる、ほう、これは伸びるのか。ふーむ勉強になった、

「豆ちゃん、あたしのパンツ引っ張って何やってんの?」

 だぁ!チガ子様ご帰宅。

「伸ばさないでね。高いんだから」
「すみません!って、試合はどうした?まだ三時だぞ?」
「あたしは勝利の女神じゃないんだよ、野球部、五回コールド負け」
「そ、そうだチガ子、TNRっていくら掛かるか知ってるか?」
「手術代ってこと?まだ調べてない」
「近所の動物病院に電話して、あとGoogleでも検索してみたんだけど、普通は雌で二万、雄で一万くらいかかるんだ。横浜とか川崎に出れば、ボランティアで五千円で手術してくれる動物病院もある、でもそこまで往復するには一人五千円かかる」
「うーん、最初は啓発活動から始めるしかないね」
「だな。でも、その前にだな、ネコ部には部室がない。急に部活を作って『部室くれ』と言っても、学校も生徒会も許さんだろう、どうする?」
「あたし心当たりがあるんだ、明日掛け合ってみる。豆ちゃんもついてきて」
「どこへ?」
「ひ・み・つ」

 チガ子の考えていることはよくわからん。もしかしたら本質的にこいつは猫のままで、人間とはどこか違った頭の使い方をするものなのかもしれない。

  ……

 月曜日の放課後。チガ子が「ついてきて」というので従う。どこへ?

「情報処理教室よ」
「パソコンならうちにあるじゃないか」
「そうじゃなくて。ネコ部の活動場所を交渉に行くのよ」
「あそこはコンピュータ研究会が使っているだろう」
「情報処理教室にはパソコンが四十五台もあるのよ、コンピュータ研ってそんなに人数いないでしょう?」
「確かにそうだろうけど。じゃあ何だ、間借りさせてもらうってことか」
「そうよ。サーバはお父さんの使っているスペースを借りるからコンピュータ研には迷惑かけないし」

 果たして情報処理教室に到着すると、既にコンピュータ研の面々がスクリーンに向かっていた。整然と並ぶパソコンが四十五台。部員はその隅っこにしかいない。女子が五人。これは予想と違った。僕は漠然と、コンピュータ研の部員は男子ばかりだと思っていた。そして鼻の下を伸ばしてチガ子の言いなりになる図を想像していた。
 全員女子、ということは部長も女子か、大丈夫かなあ、部長、怖い人じゃないだろうな……
 チガ子が声を張り上げる。

「こんにちはあ!ネコ部ですう」
「誰?何?」

 いきなり怖い人登場。赤の校章を付けているから三年生。栗色のショートボブで、どちらかというと美人であるが、目付きが極めて鋭い。マズい、チガ子の「女子力」が通じない……

「ネコ部の木戸チガ子でぇす。あたしちょっとした有名人なんで知ってると思いますけど」

 いやチガ子、そういう上から目線な態度は印象を……

「あたし部長のイケダだけど。あんたら感じ悪いね。一年生でしょう?」

 僕らの校章は青。色で学年が分かるのだ。イケダ先輩は赤。三年生。
 やばい。僕が間に立つ。

「すみません、こいつ元々猫なんで人間の作法とか」
「はぁ?ネコ?」

 逆に怒らせてしまった、もっとヤヴァい。

「訳の分からないことばかり言って、あたしにケンカ売ってんの?」

 イケダ先輩は短気な人みたいだ。チガ子が慌てる。

「いや、あ、すみません。でも、あたし本当に猫だったんです」

 僕もフォローする。

「本当です。階段堤防に居た白い猫、最近見ないと思いません?」
「階段堤防の猫?そういえば最近見ないけど」

 ここまで来たらもう、全部本当のことを話すほかあるまい。

「彼女がそうだったんです。何でも『願いのトビウオ』というのが当たってしまって」
「はぁ?あたしそういう非科学系の話って苦手なんだけど」

 だろうな、コンピュータなんて科学の結晶だもんな。
 だがここで負けてはいけない。

「すみませんすみません、でも本当なんです。そう、そうだ、彼女の瞳を見てください。階段堤防の猫と同じでオッドアイなんです、それが証拠です」
「証拠?あんたちょっと目を見せなさい」

 チガ子とイケダ先輩が見つめ合う。
 僕は横から補足する。

「猫には割とよくありますが、人間のオッドアイは滅多に居ません。特に日本人のオッドアイというのは、全国探しまわってもまず見当たりません。でもこいつはオッドアイです。猫だったからです」

 イケダ先輩の顔色に困惑の色が見え始める。

「……君の言っていることは嘘じゃないと思う。嘘にしては整然としすぎている。でも『猫』って何よ?あとネコ部?何それ」

 うーん、ここでTNRとか説明させてもらえる余裕はない感じだし……

「イケダ先輩、すみません、あたしここどうしても分からないんです、助けてください!」

 パソコンに向かっていた女子生徒が一人、イケダ先輩を呼ぶ。

「どこ?あ、あー、これねえ……あたしオブジェクト指向って苦手なんだ」

 オブジェクト指向?湯河原南高のコンピュータ研究会ってそんな高度なことやってるのか……僕は興味を引かれて、イケダ先輩の後について行った。あれ?これオブジェクト指向っていっても……

「これJQueryじゃないですか。画面全体をフェードインしたいんですね、もしかして三秒かけてフェードインしたいってことですか?」
「そう、そうなんだけど、一瞬で切り替わっちゃうのよ」
「それは3じゃなくて3000って指定するんです、千分の一秒単位だから」
「君、分かるの?」

 イケダ先輩が驚く。

「父ちゃんの仕事の手伝いでJQueryは割とよく使います、オブジェクト指向全般に強いわけではありません」
「仕事って、エンジニア?」
「いえ、ウェブの管理ですけど、JQueryを使ったエフェクトはクライアントからリクエストが多いので」
「君、凄いじゃない、どう?コンピュータ研に来ない?」

 勧誘されてる?

「あ、ええと、実は僕もネコ部でして」
「さっきもそんなこと言ったね。ネコ部って、何?」

 僕は、短気なイケダ先輩のために、出来る限り言葉を圧縮した。

「ネコ部は、野良猫を対象として動物愛護活動を行う部活です」
「野良猫?動物愛護?話だけは聞こうか」

 イケダ先輩、食い付いて来た。ここは頑張りどころ。

「野良猫というのは、自然に生まれる訳ではありません。人間が捨てることと、人間が餌を与えることが原因で増えます。ですが、野良猫を保護して避妊去勢をして野良に返す。これを繰り返して行くと野良猫は減ります。たかが野良猫と思うかもしれませんが、動物を大切にする社会は、人間も大切にします。野良猫の殺処分が減ると、重大犯罪の発生件数も減るという説もあります」
「ふうん。だから君たちは、野良猫を大切にするために、ネコ部を作った、と」
「そう理解してもらえると有り難いです」
「あのね、話を戻すけどね、木戸チガ子さん、あなたはここに何しに来た訳?コンピュータ研に入りたい訳ではなさそうだけど」

 僕はすかさず言葉を継いだ。

「そ、そうなんです、イケダ先輩、お願いがあります。ネコ部はまだ出来たばかりで活動場所がありません。それと、ネコ部のホームページを立ち上げて動物保護の啓発情報を発信したいのでパソコンが必要なんです」
「だからこの教室のパソコンの一部を貸せ、とでも?」
「は、はい!」
「……」

 イケダ先輩、無言。呆れているようにも見える。

「木戸さん」
「はい!」
「はい!」
「あれ?君も木戸君なの?」
「ええと、ややこしい話になりますが、表向きは『いとこ』ってことになってます」
「でも彼女の正体は猫なんでしょう?」

 イケダ先輩なりに、チガ子=猫説は信じてもらえたようだ。僕は言葉を繋ぐ。

「正体というか、元が猫で、今は人間なんですけど」
「だからあたし、そういう非科学的な話って苦手なのよ。でも君たちがパソコンを使いたいということだけは何とか理解出来たわ」
「そ、そうなんです、あと、学校のサーバは使いません」
「え?ホームページ立ち上げるんでしょう?」
「うちの父ちゃんの仕事用サーバに余裕があるんです、ですからそこを使います。Wordpress使いたいのでPHPとMySQLが必要で、仕様の分かっているサーバの方が都合がいいんです。それにネコ部は、僕たちだけじゃなくて、あと三人居るんですけど、そんなにたくさんのパソコンを用意するのは無理なので」

 僕は、自分は無口な方だと思う。でも最近そうでもなくなってきた。実は結構お調子者で、今日みたいにつらつらと出任せのセリフを並べることもできるようだ。もっとも今日は100%の出任せではない。サーバはもともとうちのサーバを使う予定だったから。

「ふーん……活動、始めてるんだ」
「そ、そうなんです」
「うーん……」

 うーんと言ったままイケダ先輩は、再び無言になって目を閉じた。

「あの?イケダ先輩?」
「……ごめん、一瞬眠ってた。あたし訳のわからない話を聞くと眠くなるんだよ。とりあえず、パソコンを使いたいだけなら、あたしたちの許可はいらないわ。情報処理担当の先生から許可を貰って。ダメとは言わないと思うけど。それでいいかな?」

 僕は、イケダ先輩が実は、凄くいい人なんじゃないかという気がしてきた。
 こうしてネコ部の活動場所は決まった。影も形も無かったネコ部、チガ子の思いつきに過ぎなかったネコ部が、少しずつ現実の形になっていく。

 ……

 湯河原南高のちょっと変わっているところは、文化祭が六月にあることだ。
 なぜ六月なのかというと、創立記念日が六月で、文化祭が創立記念祭という意味合いを持っているからだ。
 期間は六月の第二土曜日から、土日の二日間。創立記念祭の名前は「黎明祭」。学校創立時の黎明の志を引き継いで、なおかつ発展させようという趣旨らしい。六月に文化祭を実施する別の理由として、三年生の受験勉強に負担をかけないという配慮もあるのだろう。
 で、ネコ部。黎明祭に向けてチガ子が黙っているはずもなかった。五月、連休明けの放課後。ネコ部、参加者二名。サッカー部も野球部もラグビー部も忙しいらしい。

「今日は黎明祭について決めます」
「またとんでもないこと言い出しそうだな」
「ネコ部はポスター展示で済ませようと思ってるんだ」
「は?お前のことだからまた腕まくりして」
「それはね、クラスの方で頑張ろうと思うの」

 クラス?そういえばうちのクラス、一年四組は、まだ何も決めていない。

 ……

 木曜日、四時間目のホームルーム。週に一度、クラスや委員会関係のミーティングを行う時間だ。その日は黎明祭の、クラスでの出し物について話し合いが持たれた。
 第一案が、小宮山はじめ男子の一部が提案した「お化け屋敷」。こいつらの考えていることはだいたい察しがつく。暗闇に乗じて何かよからぬイタズラでも企んでいるのだろう。
 第二案、女子のリーダー格である半田侑子が提案する「浴衣喫茶」。何でも半田の家は和菓子屋だとかで、和風喫茶として緑茶とまんじゅうをセットで売ろうということらしい。ポイントは女子の服装。全員浴衣。浴衣を持っていない人は半田家の浴衣を借りる。女子の大半が拍手で賛成に回った。事前にLINEで根回しをしていたのだろう。一年四組は男子二十人女子二十四人。多数決を取ると自動的に半田案が採択される、であろう。
 そしてチガ子。第三案を提出。

「……」

 半田が顔色を変えた。

「てめぇネコ部とか言ったな、クラスを乗っ取るつもりか!」

 半田の男言葉は迫力がある。

「乗っ取りじゃないよ、ちょっと力を借りようと思って」
「それが乗っ取りってんだ!」

 家の商売ものを学校で売ろうという半田もどうかと思うが……チガ子の案が半田を怒らせたのは、当日の企画内容より後の利益分配についてだ。
 チガ子の提出した案というのは、カフェ。半田の案と、根本的にはあまり違わない。
 チガ子は飲み物にコーヒーを想定していたが、問題はそこではない。チガ子の案は「ネコ部と一年四組共同企画・ネコミミカフェ」。女子全員がメイド衣装にネコミミを付けてカフェを運営するというもの。今時メイドは流行らんだろう、という気もするが。ネコ部は、そのカフェの壁面を利用して、野良猫の保護活動についてのポスター展示を行う。
 チガ子は「飲み物はお茶でも構わないし、食べ物も和菓子でOK」と言った。「ネコミミさえ付けてもらえれば衣装は浴衣でもいい」とも言った。なぜネコミミにこだわるのか。ポイントはネコミミカフェの収益配分にある。収益を野良猫の避妊去勢手術費用に当てる、だからカフェと猫を関連づけるためにネコミミが必要。さらには、猫を通じて動物愛護意識を浸透させたい、というのである。
 ここで、なぜ半田が怒っているかについて考察してみたい。自然に行き着くところは、半田とチガ子の容姿の上での相違についてである。半田は不細工である。度を超えて不細工である。ベリーショートの茶髪にギラリとした目付き。鬼瓦が笑っているようだ。本人は和菓子屋の「看板娘」を自称しているが、「盗賊除け」の誤りであろう。しかもガリ痩せでぺっちゃんこ体型。お尻だけは大きい。土偶のようでもある。対するにチガ子は、ライトブラウンの長い髪なびかせる色白の美少女、しかもオッドアイ。小柄ながら形の良い胸。男子が喜びそうな要素をたんまり蓄えている。神様は不公平。半田が気に入らないのには、そういう背景も濃厚に影響しているのだろう。
 しかしなあ、チガ子。どうする。半田の言ってることは正論だ。それだけではない。半田は女子の、ほぼ全員から支持を得ている。 そうだ!担任の佐久間先生!先生……あかん!昨日飲み会だったとかで、二日酔いでイビキをかいている。
 担任が出席していながら事実上不在となったことで半田は勢いづいた。

「ボクは知ってるぞ!てめぇの正体は階段堤防の野良猫だろう?だから野良猫に利益誘導しようって魂胆だろうがそうはいかねえ!」
「はあ?あたし猫でしたが何か?動物愛護が間違っているとでも?」

 猫?男子がざわめく。

「そうだ化け猫!今すぐここからつまみ出してやる!」

 半田がチガ子に詰め寄る。チガ子の席まで来て今にも掴み掛かろうとする半田を、周囲の女子が辛うじて止めた。
 チガ子はスカートのポケットをごそごそやると、一枚のカードを取り出した。

「あたしは猫だった。半田さんが信じようが信じまいが構わない。でもね、今は普通の人間。それも信じてもらえなくて構わない。ただね、これに文句があるなら総務省にクレームを入れるといいわ」

 チガ子が取り出したのは「電子証明書入りマイナンバーカード」。
 このカードの示すところによれば、町役場を通じて、日本国政府がチガ子の身分を保証している。チガ子は一度、父ちゃんと一緒に町役場に行った。その時に作ったのだろう。僕も持っている。父ちゃんの仕事の手伝いでオンライン認証が必要だからだ。
「それから、利益配分に文句があるなら今回は諦める。急にこんなプランを出して金よこせってのは調子が良過ぎたかもね。でもね、ネコミミは外せない。半田さんに野良猫の辛さや苦しさを理解しろとも言わない。でも、心の片隅にでも、そういう苦しんでいる命があるってことを、あなたみたいなリーダータイプにこそ、知っていて欲しいのよ」
 沈黙。水を打ったように静まるクラス。どーすりゃいーんだろーな、これ。

「あのー」

 ざわざわっとどよめき。『木戸が喋った』。

「チガ子は」

『ひゅうひゅう!呼び捨て出た!』男子がはやし立てる。

「あのですね、僕も彼女も木戸なんです、名前で呼ばないと区別つかないでしょう、あと、前にも言ったけど、いとこなんです、呼び捨てくらいでいちいち騒ぐな」

 しんと静まり返る教室。僕は続ける。

「チガ子の言う動物愛護そのものは、決して間違った考えではないと思うんですね、ただ、利益配分についてですが……」

 僕は一呼吸おいてから質問を始めた。

「そもそも黎明祭の模擬店の収益って、普通はどうするものなんですか?クラス全員で山分けとか出来るんですか?委員長」

 クラス委員長の高橋新一郎が、虚を突かれて戸惑った。

「え?あ、あー、どうなってるんでしょうか?副委員長」

 副委員長の小室杏子に質問を振る。

「え、あ、その収益についてですけど、経費を差し引いた残りの全額を、生徒会を通じて地域の慈善団体に寄付することになっています」
「じゃあですね、副委員長。そもそもチガ子のプランにあるように、収益の配分先を自由に決められる訳じゃないんですよね」
「そうです」
「とするとチガ子のプランのうち、利益配分の部分は無効ですよね、で、あとはネコミミですけど、女子に質問します。ネコミミ、嫌ですか?もし僕が女子だったら、むしろ付けてみたいと思う。だってそんな作り物一つで、男子の見る目が違って来るかもしれないんですよ?」

 ざわざわっと波が立つように囁き合いが始まる。佐久間先生、爆睡中。

「あるいはですね、半田さん、このネコミミはただのネコミミじゃない。動物愛護の意思表示なんです」
「馬鹿言ってんじゃねえ!ネコミミのどこが動物愛護なんだ!」
「それにはね、説明の展示が必要になる訳ですよ。そこでネコ部が全面協力します。資料の調査と原稿の作成から展示ポスター出力まで、全てネコ部で可能です。クラスのみなさんはカフェの運営に専念していただければOKという訳ですが、どうでしょう?」

 しんと静まり返る教室。沈黙。膠着状態。あと一押し、という感触を得ながら、その先に継ぐべき言葉が見つからない。継いでくれる人も居ない。友達ないからな……

「あのー」

 小宮山が手を挙げる。

 小宮山がぼそぼそと喋り始める。

「ネコミミ浴衣カフェにするとして、その時は、和菓子は半田さんのところのを使う訳だよな、ってことは、スーパーで売っている安いやつなんかじゃない。職人さんが作った手作りの和菓子だろう?お茶も上等な奴を安く仕入れてくれるんだろ?」

 半田が言い返す。

「当たりめえだ。職人を舐めるな」

 小宮山が見方についた?練習試合応援のお礼だろうか?

「だからさ、そういうカフェの基本部分がしっかりしていて、かつ、ネコミミで動物愛護をアピールしつつ、展示もある。タイミングもいい。こないだチガ子が言ってた通り、今年度から湯河原町役場が野良猫の避妊去勢に補助金を出すようになった。ということは、学校内に限った話題ではなくて、地域社会の課題を取り上げる展示ということになる。いいと思うな。俺は賛成です。それにこれ、他のクラスじゃマネ出来ないと思うなあ。上級生を含めても。そうするとさ、『黎明大賞』ってのが射程に入って来るんじゃないだろうか?」

 ざわざわっと、再び波打つような囁き合い。黎明大賞。いちばん優れた出し物に贈られる、名誉ある賞。入学二ヶ月の一年生にして黎明大賞を狙うという無謀な話が、ネコミミ浴衣カフェなら希望が見えてくる、というのが小宮山の意見だ。半田が僕に問う。

「木戸。お前の言ったこと全部ホントだな?本当にネコ部が協力するんだな?」
「本当だ」
「吐き出した唾飲み込むなよ」
「そういう言い方が半田さんらしいやね、チガ子、収益分配の件はあきらめろ」
「そうだねえ」

 小宮山が割り込む。

「じゃあネコミミの件はOKってことで、いいよね?半田さん、佐久間先生!」

 名前を呼ばれて飛び起きる佐久間先生。

「お!おぅ?呼んだか?お、OK」

 そのあと多数決を取り、女子全員に加えて男子の大半からも賛成を取り付け、ネコミミ浴衣カフェは採択された。

 はあ。チガ子が現れてから三週間で、もう中学三年分の言葉を喋ってしまったような気がする。やれやれだ。
 小宮山が、にやりと笑いながら、ぐぃと親指を立てて見せる。
 僕も不慣れながら、親指を立てて返答してみる。

 ……

 という訳で黎明祭の出し物は、一年四組とネコ部が共同で、ネコミミ浴衣カフェということになった。
 浴衣の用意と食品の仕入れは半田が仕切ることになった。一番大変そうな部分を引き受けたのはさすがリーダー格だ。チガ子はというと「ネコミミ制作担当」を引き受けた。

「ネコミミカチューシャって、ネット通販でも売ってるけど、凝りすぎていて変なのが多いし、高いのよね、一二〇〇円くらいする。あたし手芸屋さんでフエルトとカチューシャ買って来て、女子全員分作る」
「全員分って二十四組だぞ、大丈夫か?」
「頑張る。半田さんに負けたくないというのもある」

 どっちがよりしんどい役割を引き受けるかという、我慢競争を始めるチガ子と半田。
 だが、僕も軽くはない仕事を引き受けてしまった。展示用ポスターの制作。基礎的な情報収集はネットで何とかするとして、文章は考えなくちゃいけない。それにポスター出力はちょいと安請け負いしすぎたかも。どうしよう。東京の出力センターを使う費用は、出そうにない。
 ただ、僕には一つ、期待を掛けているものがある。コンピュータ研と同居中の情報処理教室、その隅にカバーを被った設備があった。あれ、大判出力機じゃないだろうか?

 ……

 放課後。

「チガ子、今日のネコ部の活動、どうする?僕、情報処理教室行きたいんだけど」
「あたし手芸屋さん行ってくる。ついでにスーパーに寄るから買い物はいいよ」
「OK。じゃあ頼む」

 僕はチガ子と別れ、一人で情報処理教室に向かう。
 情報処理教室では、やはり今日もコンピュータ研の面々が液晶スクリーンとにらめっこしていた。

「イケダ先輩、この教室の隅にある機械、ちょっと試してみていいですか?」
「ああ、あれ?あたしたち使わないから好きにしていいよ。ってゆーか、あれ、何?使ってる人、見たことないけど」

 イケダ先輩が「あれ」と言った、白いダストカバーを被った高さ一メートルくらいの設備。
 カバーを外して見ると、予想通り大判出力機だった。EPSONのPX-7550S。A1プラスまで印刷できる。最新型ではない。でも、まるで新品。ぷうんとプラスティックの匂いがする。全然使っていないのは明らか。

「へえ、こんな機械だったんだ。これ、あたしたちは使わないし、先生でも使ってる人って見たことないんだよね」
「この機械、何のためにあるんでしょうね」
「設置した当時はね、情報処理担当の先生が、たまーに使っていたらしいよ。その先生が転勤してからは使う人がいなかったみたい」
「電源入れてみていいですか?」
「いいよ。でも、あたしたちも忙しいんだ。黎明祭までに対戦型ゲームを仕上げなきゃいけないの。あとは自分でやって」
「ありがとうございます。じゃ、ちょっとやってみます」

 僕は大判出力機の電源を入れてみる。液晶表示にEPSONのロゴが出た。キタキタ!続いてメッセージが出た。

『しばらくお待ちください』

 ブウンとファンが回り出す音が聞こえ、続いてガーガーと印字ヘッドの動く音が響いた。たかがプリンタの癖に大袈裟な奴だ。

『用紙がありません』

 あれこれと、うるさい奴やな。後ろに巻いてあるロールペーパーを刺せばいいのかな?……巻きぐせが酷い。全然使っていなかった証拠だ。僕は用紙を逆さに巻いて、巻きぐせを和らげてから印字領域にセットする。
 さらに待つこと数分。

『印刷可能』キター!

 早速何か出力してみよう。僕は空いているパソコンを起動し、プリンタの選択画面を開いてみた。よしよし、ネットワーク接続でアイコンが出ている。これだ。
 いやちょっと待て。大判出力機だけじゃ印刷は出来ない。嫌な予感がした。僕はパソコンのスタートメニューを隅から隅まで探してみた。WordとExcelは入っているが……やはり無いか、Illustrator。何だか大判出力用のオリジナルソフトが入っているようだけれど、そういうのは「簡単に何でもできます」を標榜しながら「難しくて何も出来ません」仕様になっていることが多い。特に、繊細な微調整に弱い。だからデザイナーはそういうソフトは使わない。業界標準のIllustratorを使う。
 僕は父ちゃんの仕事の手伝いで、POPやポスターを作ることがある。Illustratorを使って大判出力機用のデータを作り、東京の出力センターにオンラインで発注する。
 POPやポスターを作るには〇・一mm単位の位置決めが欠かせない。その程度の誤差でも積み重なると、無視出来ない表示の崩れに繋がる。積み重ならなくても、〇・四ミリの線と〇・五ミリの線とでは、明らかに違って見える。人間の目は緻密なのだ。Wordのようなワープロソフトでは、位置決め作業の能率が悪いために、そのような精密な位置指定が難しい。ベジェ曲線の問題もある。Illustratorにはベジェ曲線を操る機能があり、複雑な曲線が自由自在に、しかも簡単に描ける。Wordにはそのような機能はない。
 湯河原南高のパソコンにはIllustratorが入っていない。まあそうだろうな、進学校といっても普通科、デザイン科じゃないからな。大判出力機のデータはWordかオリジナルソフトで作れ、ということらしい。やれやれ。導入以来、大判出力機がほとんど活用されていなかった背景には、そういった事情もあるのだろう。
 念のためチェックしてみると、Adobe Readerは入っている。まあそれは普通のことだ。ということは、自宅のIllustratorでデータを保存する際にPDFに書き出せば、それを学校に持ち込んで印刷するという手は使える。使えるけれどやりたくない。正直、面倒。やれやれ。

 いや、ちょっと待てよ……

 ソフトウェアサイドに気を取られて重大なことを忘れていた。ハードウェアサイドに問題がないという保証はない。
 念のためテストプリントしてみたい。
 僕は写真のダウンロードサイトにアクセスして、高解像度の画像をゲットした。アメリカの自然風景。ロッキー山脈。
 そして、それをまずWindowsのビューワで表示して、印刷設定を行う。画像をA1いっぱいに印刷するように設定する。
 そして印刷。しばらく間があって、やがて大判出力機がガーガーと音を立てて動き始めた。コンピュータ研の女子メンバー全員が、何事が始まったかと興味を惹かれて集まって来た。

「へえ、これこうやって使うんだ」
「凄い!写真が大きい!」

 写真は五分ほどで出力された。A1ポスターサイズの写真に、コンピュータ研のメンバーは大喜びだ。
 だが僕はといえば、一人、愕然としていた。

 これではダメだ。

 長く使っていなかったためだろう、印字ヘッドの目詰まりが酷い。写真に縞模様のノイズが入る。コンピュータ研のメンバーはこの機械が動いただけで感動してくれたが、僕は納得できない。馬鹿野郎である。こんなシマシマ、展示に使えない。

 まずは通常のヘッドクリーニング操作。一〇分くらい機械が動く音がして、クリーニング完了。さきほどと同じロッキー山脈を出力してみる。

 うーん。
 ましにはなったが、まだ目詰まりが見られる。

 僕は書棚からマニュアルを取り出して、メンテナンスの項目を開いてみる……そうか、パワークリーニングという操作があるのか。これでダメなら修理に出すしかない。でも、全然使っていない設備の修理代なんて、学校は認めてくれるだろうか?
 パソコンからプロパティを操作して、パワークリーニングを実行。通常のクリーニング以上に激しい音が響いた。出力機なりに頑張っている感じはする。
 一五分後。パワークリーニング終了。もう一度ロッキー山脈出力。今度はどうだ?頼む!
 果たして、印字ヘッドの目詰まりは解消され、美しいポスターが一枚、出来上がった。
 コンピュータ研のメンバーは一様に感心した。イケダ先輩がリクエストを出す。

「あのさ、君に一仕事、頼んでいいかな?」
「何でしょうか?」
「コンピュータ研で今作っている黎明祭用のゲーム、ポスター作ってもらえないかな?実はね、ちょっと凄い企画を考えてるの」
「凄い企画、ですか?」
「あたしたちのゲームはパソコンで開発しているけれど、実はスマホ向けなんだ。iOS版とAndroid版を作る。インストールすれば誰でも参加出来る、仮想空間での対戦型ゲーム。プレーヤー同士が連携すると特別な攻撃が出来るのがポイント。これを黎明祭当日から公開して、無償でダウンロードできるようにするの」
「画像とか素材はありますか?」
「スクリーンショットでいいかな?グラフィクスは結構凝っているんだ。あと、テキストは手書きメモでいい?」
「いいですよ。ただ、ポスターをWordで作るのはしんどいので、持ち帰って家のIllustratorで作ります」
「君の家ってデザイナーもやってるの?」
「いえ、ウェブの管理ですけど、時々、POPやポスターなんかも作ります。そういう時にはIllustratorを使うんです」
「君、ネコ部なんかやってないで、バイトしなさいよ、稼げるよ」
「そうかもしれませんねえ、しかし、あのチガ子が『いとこ』ですから……」
「あははは!そうだね、わかるわかる。あの子が『いとこ』じゃ大変だよねえ」

 僕は思う。こうも毎日誰かと話しをする日常というのは、中学ではあり得なかった。
 異性の先輩なんて、雲の彼方の存在だった。

 ……

 その週末の土曜日。湯河原南高は土曜日にも半日だけ授業がある。進学校だけあって授業に力を入れているのだ。でも午後は休み。
 僕はその日、早めに帰宅して、ネコミミ浴衣カフェのポスター制作を始めることにした。あと家事も頑張らないといけない。このところ母ちゃんの具合がよくないので、夕食はチガ子か僕のどちらかが作ることが多い。洗濯物も溜まっている。
 僕は学校の帰りにスーパーに寄る。冷蔵庫には昨日のご飯がだいぶ残っていたなあ……炒飯はどうかな?チガ子の携帯に連絡を入れる。

「晩ご飯どうする?炒飯でいいかな?」
「チャーハンて何?」
「……」

 何?と問われて、意外に説明が難しいことに気付く。炒飯の定義とは……

「まあいいよ、チャーハン食べてみたい。あたしこれから浴衣の試着。半田さんの家に寄ってく。ちょっと遅くなるかも」
「OK」

 会議ではあれほど反発し合った仲なのに、もう打ち解けたようだ。半田の男勝りな性格も幸いしているのだろう。
 僕はスーパーで、焼き飯の具材になりそうなもの、カニカマとかコーン缶詰などを買う。たまには肉も入れよう。チガ子は猫の名残りか、肉と魚が好きみたいだ。鶏ひき肉が特売。これにしよう。

 帰宅すると、父ちゃんは一階の仕事場でワーキングチェアーに座ったまま居眠りをしていた。まあいつものことではある。二階に上がると母ちゃんもこたつで丸くなっていた。眠っているようだ。起きたらまた頓服を作ろう。

 溜まっていた洗濯物を洗濯機に放り込み、部屋に簡単に掃除機をかける。外階段を軽く掃く。米を研いで炊飯器にセットし、タイマーで夕方六時に炊きあがるようにする。小一時間ほどで家事を済ませ、それから仕事場に向かい、パソコンを借りてポスターを作る。一枚分のデータを作ったところで、チガ子から携帯に着信。

「豆ちゃん!カメラもって半田さんのお店来て!浴衣姿撮って欲しい!」
「OK」

 僕は父ちゃんを叩き起こして仕事用のミラーレス一眼を借り、自転車で和菓子の絹屋に向かう。絹屋というのが半田の店の屋号だ。絹屋に着くと、店先にチガ子と半田、ほか三人の女子が居た。全員、浴衣姿。意表を突かれたのが半田。扇紋様の浴衣がぴたりと決まっている。

「半田、浴衣似合うな」
「何言ってんだよ急に。それよりチガ子を褒めてやれよ」
「チガ子可愛いな」
「どうせボクは可愛くないですよ」
「あのな半田、そうやってハナから勝負を捨てるな。お前和装似合うじゃないか。月曜日から浴衣で学校こい。なびく男が少しは出る」
「『少し』って何だよ、それに浴衣で学校行けるかよ」
「でも黎明祭では浴衣着るんだろう?」
「まあそうだけど」

 なぜ半田に浴衣が似合うのか。それは半田が日本人体型だからだ。あと、顔の造りが鬼瓦だけに、生来どこか日本的風情を宿しているのだろう。それも浴衣が似合っている理由の一つに違いない。以上のことは言ったら殺される。口には出せない。
 ほおずき模様の浴衣を着たチガ子がせっつく。

「ねえ写真撮って!写真写真!カメラ持って来たでしょう?」

 最初に半田。三人の女子が半田に続く。最後にチガ子。ファインダー越しにチガ子を見て思う。こいつ小悪魔。男心のそそり方というものを的確に心得ている。
 撮影後、半田がお茶と和菓子を振る舞ってくれる。半田が言う。

「木戸って写真も撮るんだね」
「仕事の手伝いで、たまに」
「綺麗なモデルさんとか見てるんだろう?」
「人物は撮らないよ。ラーメンとか」
「ラーメン?」
「湯河原といえば今や名物はラーメンだ。そのメニューブックの写真を撮るんだ。メニューに写真が入っていると、外国人観光客が写真を見て注文出来るだろう、だからメニューブックの写真は重要なんだ」

 半田の淹れてくれた緑茶が旨い。黄身しぐれと茶まんじゅうも美味しい。黎明祭は忙しくなりそうだ。

 ……

 チガ子は僕に、ネコ部としての課題を課した。
 黎明祭当日までに、ネコ部として、野良猫に関する展示ポスターを二〇枚作れ、という。

「ちょっと待て、二〇枚とか簡単に言うな。その原稿、お前が用意してくれるなら話は別だが」
「何言ってんの、あたしはネコミミカチューシャ二十四セット作るんだよ。あ、地図は忘れないでね。日本地図にTNR事例の場所を市町村レベルのピンポイントで示してね」
「そんなのGoogle Mapに載ってないぞ、町の名前くらいはわかるだろうが」
「あたしネコミミカチューシャで忙しいから。豆ちゃん頑張って」

 チガ子はチガ子で手一杯というわけだ。しかし地図は参ったなあ。あまり多くは期待できないとは思いながらも、一応、他のネコ部員に声を掛けてみることにする。まず小宮山。

「野球部って黎明祭は忙しいんだよ」
「なんで?試合も練習もないだろう?」
「毎年、黎明祭でチャリティーバザーをやるんだ。十年前に練習中の事故で半身不随になったOBがいてね、その人を支援するため、学校から特別に許可を得て、売上げをその先輩に送ってるんだ」
「へえ。しかしバザーって何売るの?売れるものじゃないとお金にならないだろう?」
「それがね、別のOBが蜜柑問屋なんだ。そこから傷ミカンを安く仕入れて売るんだ。ここだけの話、みかん代はタダで、箱代だけで譲ってもらうんだ。毎年買いに来る人とかいて、結構な額になるんだよ。その準備とかあってさぁ、ホント忙しいんだよ。悪いね」

 「悪いね」が、全然悪く思っていない雰囲気に感じられたが、お金がらみのことを持ち出されると弱い。次行こう、次。ラクビー部の中島。

「実は東京に引っ越すことになった」
「え?転校?」
「転校はしない、通う」
「しかし何でまた急に?」
「じいちゃんが急死した。肺炎で」

 そういえば中島は先週、忌引きを取って休んでいた。

「じいちゃん、品川のタワーマンションで一人暮らししてたんだ。それを一人息子の俺のオヤジが相続することになった」
「まさかそのタワーマンションから通学するとでも」
「正直、俺はきつい。でもオヤジが、せっかく進学校に入ったのに転校するなって」
「うちもそうだけどさ、親なんて勝手なもんだ。自分はタワーマンション貰ってホクホクで、子供には長距離通学しろって?」
「オヤジの悪口は許さんぞ」

 中島の口調が一変したことに僕は慌てた。

「すまん、そんなつもりはなかったんだ。でも一つ教えて欲しい。君のお父さんというより君のおじいさんのことだけど」
「何だ?」
「都心のタワーマンションって、一億円でも買えないよな、そういう家を買うには、どういう職業に就けばいいの?やっぱり一流大学出て一流企業に就職するとか?」
「じいちゃんの話はあんまりしたくないんだがな、木戸、絶対に他の人に喋らないって約束できるか?」

 なんだか余計な話をほじくり出してしまったみたいだ。しかしここまで聞いておいて今さら知らんぷりも出来ない。

「約束する。ネコ部副部長の信頼に掛けて」
「じいちゃんはトレーダーだったんだ」
「トレーダー?株とかネットで売り買いするやつ?」
「いや、じいちゃんはネット世代じゃないから。若い頃から電話取引をやっていた。じいちゃんには『株だけは負ける気がしない』って自信があったんだ。どこの会社が儲かるかというような、そんな小さな読みではなくて、もっと大局観で経済を見通す人だった。世の中がどう変化するかを先読みして、その勘をもとに株式に投資していたんだ」
「へぇ、もしかして結構大物の投資家ってこと?」
「証券業界じゃちょっとした有名人だったらしい。一九九〇年代にバブル景気の崩壊ってあっただろ?あれ、じいちゃんは完全に読み切っていたんだ。こんな浮ついた景気は決して続かない、その後長い不況が必ず来る、って。それで、NTTの株なんか一株百五十万円でしこたま仕入れて、一株三百万円で売り抜けた。そのお金は、安い牛丼チェーンの株と、海外の生産拠点で安い服を生産する会社の株に投入したんだ。そういう会社がその後急成長したのは有名な話だろう。じいちゃんにはバブル崩壊こそがむしろチャンスだった」
「凄いな、うちの売上げの一年分が、そもそも『取引の単価』だったりした訳だ」
「木戸の家って何やってんの?」
「ウェブの管理。メルマガ執筆とか、ホームページの更新とか。ささやかな仕事だよ。月額五千円とか、一万円とかで契約するんだ」
「ふうん、そういう世界ってもっと大きなお金が動いてると思ってたんだけどな。IT業界って凄い金持ち社長とか、いるだろう?」
「それは大きな会社の話。うちは個人事業。しかし残念だな、君のおじいさんから貧乏脱出へのヒントがつかめたらと思ったんだけど、無理みたいだ。原資からして全然違うのが分かった」
「でも木戸の家って、アメリカの銀行が倒産しても契約金はちゃんと支払われるだろう?」
「そりゃアメリカは関係ないな」
「ところがじいちゃんは大変だった。リーマンショックって知ってる?」
「よくわからん」
「二〇〇八年に、アメリカの伝統ある投資銀行が突然倒産したんだよ。もちろんそこに行き着くには、表に出ないように巧妙に隠された色々な問題があったみたいなんだけど」
「もしかしてその銀行の株を持ってたとか?」
「持ってたどころじゃないよ、じいちゃんは、倒産の前日にその銀行の株に二億円投入していたんだ。こんな世界的投資銀行の株が安くなってるなんて千載一遇のチャンスだってね。ところがそれが、一夜明けたら紙くず。じいちゃん、暴れて携帯電話を壁に投げつけてぶち壊した」
「そりゃ暴れるだろうけど……」
「なんだかすまんな、自慢してるみたいで」
「いや君のせいじゃないよ、親とか祖父母って選べないし。君にしてみれば、家はデラックスになるかも知れないけど、遠距離通学しなきゃいけない訳だし。その上にラグビー部と言ったら、ネコ部活動の時間はないわな」
「そうなんだ。すまん、木戸。そういう事情を察してもらえるとありがたい」

 「ありがたい」とまで言われてしまい、僕も仕方なく承服する。

 残るネコ部員は岩崎であるが、小宮山と中島の話を聞いているうちに、なんだか「おなかいっぱい」になってしまった。岩崎はバリバリのサッカー部。小宮山の話によれば、彼は中学ではエースストライカーと言われ、サッカー強豪校へのスポーツ推薦の話も出ていたという。なぜ彼が推薦を断ったのかは謎だが、どのみちネコ部どころじゃないだろう。

 チガ子が言い出したのか半田が言い出したのか分からないが、教室の廊下側の壁に「竹林」と「ナマコ壁」を再現するということになった。和菓子屋の次は左官屋か。奇妙な方向に突っ走っているような気もするが、盛り上がってはいる。
 しかしどうやって?と思っていたら、何と、段ボールと紙粘土でナマコ壁を再現するという。
 素材費用がかかるので施工範囲は入り口付近の一角に留まりそうだが、その制作を小宮山を始めとする体育会系男子にうまくお任せしたいらしい。
 「え〜?かったりーよー」と渋る小宮山に、「お願い!」と手を合わせたチガ子。小躍りして喜ぶ小宮山。

 さらには半田が奇妙なことを言い始めた。

「やっぱ、和風といったら竹だよね」
「は?」
「一年四組前の廊下は、両脇に竹林を再現するんだ、渋い風情のある感じに仕立てたい」
「竹?どこから持ってくるんだ?」
「ネコ部に小宮山がいるじゃないか」
「小宮山?そういえば彼の家って何してんだろうな、もしかして竿竹屋?」
「そうじゃなくて。彼の家は地主でアパート収入がメインらしいんだけど、山林と畑を持っていて、お父さんが農業やってるんだ」
「農業?竹?どういう関係?」
「要するにね、農作業に竹を使うらしくて、竹林も持っているんだ」
「へえ、そんな話初めて聞いた」
「君は中学時代友達が居なかったんだって?」
「そうだけど何か?」
「だから知らないんだよ、小宮山家といえば湯河原の古くからの名家にして大地主なんだ。湯河原にあるマンションやアパートと駐車場の、その四分の一くらいは、小宮山家とその親戚の私有地なんだよ」
「さすが地元の和菓子屋だけあって詳しいな。うちも自営業だけどクライアントは東京とか横浜が多いし、一応町役場もクライアントに入っているけど、町役場は個人情報保護に厳しい。だから地元のことはよく知らないんだ」
「君には君にしか分からない世界がありそうだし、これから友達を増やせばいいじゃないか」

 だから僕はそういうキャラじゃないんだって……

 ……

 一週間後。チガ子と半田の「ナマコ壁計画」。試作品が出来た。体育系男子達が段ボールをベースに紙粘土で作った「なんちゃってナマコ壁」一メートル。それを見て半田は即座に却下した。

「お前らなっとらん!ナマコ壁たるもの、どうあるべきか、長田左官工業の『ぎゃらりー左官』に行って勉強してこい!」

 興奮すると半田は本当に鬼瓦。長田左官工業というのは湯河原に本拠を置く左官工事屋さん。小さな会社だけれど、文化財の修復なんかもやっていて、その世界ではちょっと知られた存在。『ぎゃらりー左官』というのは、その長田左官工業が造ったギャラリーで、色々な左官工事のサンプルを揃えている。展示目的というより、職人さんの技術向上を目的として作られたということで、様々な種類の塗り壁がある。もちろんナマコ壁もある。しかし……

「半田、そこまで力を入れなくてもいいんじゃないか?ナマコ壁はネコミミ浴衣カフェの中心ではないだろう」
「君は甘い!そういう隅々の詰めの甘さが、みすみす黎明大賞を逃すなんていう悲劇に繋がるんだ」

 チガ子が取りなす。

「まあまあ半田さん、みんな一生懸命やってるんだし、そうだ、今度の土曜日の午後、一緒に『ぎゃらりー左官』行こうよ、ねえ小宮山くぅん、中島くぅん。土曜日の午後ならいいでしょう?あたしも黎明大賞欲しいな、お願いっ!」
「いくいくいく」
「絶対行く」

 小悪魔パワー炸裂。あるいは、チガ子と半田で「飴と鞭」と言うべきか。
 そして、小悪魔と言ったら叱られるが、僕を悩ませるお方がもう一名。

「あのー、イケダ先輩、ポスターの原稿、出来ましたでしょうか?」

 イケダ先輩は液晶スクリーンを睨んだまま返事をする。

「ごめん、細かいところが詰め切れてなくてさ、もう少し待ってくれないかな?」

 この人も大丈夫かなあ、あまり直前だとネコ部=一年四組のポスター出力と被るんですけど。

 五月は、僕はポスター制作、チガ子はネコミミ作りで、あっという間に過ぎていった。
 といっても出来上がったポスターはまだ九枚。

・動物の愛護及び管理に関する法律について(これが全ての基本にあると言っていい)
・猫という動物の始祖について。リビアヤマネコから進化した説が有力。
・猫が日本に来たのはいつか。奈良時代、唐から連れて来た説が有力。しかし弥生時代の遺跡から猫の骨が出てきたという例もある。
・猫という動物の性質について。単独行動、縄張り(雄と雌とで広さが違う)、ケンカ。
・猫の病気、飼い猫編。
・猫の病気、野良猫編。
・野良猫の一生(三〜四年くらいしか生きない)
・飼い猫の一生(一五年から二〇年以上生きた例もある)
・TNRについて。地域猫という概念

 ここまでで五月を使い切ってしまった。まだ課題は十一枚分ある。うち一枚は「地図」だが……これは、どうしたものだろう?ネットで、日本地図の白地図をフリーで配布しているサイトを見つけた。都道府県境と県庁所在地は載っている。だが、チガ子は「市町村をピンポイントで」と命令した。僕は地理は苦手だ。「岐阜県」は何とか書けるが、「エヒメケン」とか漢字に自信が持てない。だいたいエヒメケンって、どこだ?九州?都道府県の位置さえ自信が持てないのに、ましてやその配下にある市町村を地図にプロットするなんて勘弁して欲しい。
 昼間は授業、夕方はチガ子と代わり番こで夕食を作る。洗濯や掃除もある。だから作業はどうしても深夜に及ぶ。まあ夜には強い方だから、苦にはならないけど。僕はふと思う。何でこんな仕事を引き受けてしまったのだろう?誰のため?チガ子のため?そうじゃない。クラスの皆のため?まさかな。
 ただ、どうにも行き詰まってしまったのが地図だ。ポスター二〇枚の中で、もっとも厄介とも言える。
 ある日、僕は昼休みに、ふと思い出して白地図を机に広げてみた。
 白地図は、ネットからダウンロードしたものを、 とりあえずA4にプリントアウトした。真っ白い地図ですか、僕の頭も真っ白です。なんてふざけてる場合じゃない。昨夜も考えてはみたが、何もアイディアは浮かんでこなかった。昼間に見たら何か違うアイディアが湧くかと思ったが、昼でも夜でも僕は同一人物なんです、相も変わらず、みみちい頭脳で悩むことしかできない。だめだ、こりゃ……

「お!木戸!何の地図?」

 不意に岩崎が僕に声を掛けた。

「ああ、これか?」

 エースストライカーに相談してどうなるとも思えない。僕は愚痴をこぼした。

「チガ子がこれに、TNRの成功した場所をプロットしろというんだ。でもご覧の通り、真っ白。県境は書いてあるけど、小さな町の位置なんてよくわからない。本当に困っているんだ……まあ愚痴だけどさ」
「何言ってんだよ木戸、そんなことならどうして早く相談してくれなかったんだよ」
「は?」
「僕が湯河原南高に進学した理由を、君は知らない」
「サッカー強豪校の推薦を断ったんだって?そんな噂は聞いたけど」
「だから何でサッカー人生を選択しなかったか、ってことだよ」
「わからん。エースストライカーとしてやっていける自信が、実はなかったとか」
「キツいなあ、まあその通りだけど。あのさ、サッカー少年って、全国に何人いると思う?」
「さあ」
「部活だけでなく、地域のスポーツクラブなんかに所属している人も合計すると、二十五万人以上いるんだよ」
「そんなに?」
「真鶴中のエースレベルなんてね、二十五万人の中にはゴロゴロいるんだよ。僕なんて完全に埋没してしまう。サッカーの強豪校なんか行っても、その学校のレギュラーになるのだって神レベル。その先、プロを目指すなんてのは僕には不可能」
「そんな夢のない話をするなよ、やってみなきゃわからないじゃないか」
「違うよ。やってみたからわかるんだ。僕は中学二年の時、サッカーの合宿ワークショップに参加したんだ。全国規模のね、サッカー部顧問とかクラブの監督の推薦状なしでは参加できない合宿。推薦状をもらった時には浮かれたよ。この一枚が僕の未来を切り開くんだってね。ところがそれは違った。むしろサッカー業界から叩きつけられた最後通牒だったんだ」
「よくわからん」
「つまりね、合宿に参加して痛感したことは、僕くらいのプレーヤーは全然珍しくないってこと。それこそ掃いて捨てるほどいるんだ。それだけじゃない。ホント神様みたいな奴が、いるんだよ、マジ。その神様級だけでプロサッカー選手の定員なんか満員になっちまう。それが現実なんだ」
「厳しい話だな。しかし、何だっけ?僕らは何で君の進路の話なんかしてるんだろう?」
「いやだからさ、木戸、何で白地図なんて見てるの?難しい顔して。君のことだから、またネコ部関係なんだろう?」
「その通りなんだ。チガ子が、この真っ白い地図に、TNRの実績のある場所を書き込めというんだ。正直、地理って苦手なんだ」
「水くさいなあ、なんで僕に相談してくれなかったの?」
「君はサッカー部だろう?」
「サッカー部を馬鹿にしてない?サッカーだけで脳みそ使い切ってるとか思ってない?」
「いやそんなことは言わない。もしかして岩崎って、地理、得意?」
「そこで僕が湯河原南高に進学した理由が出てくるわけだよ」
「は?」

 岩崎が言うには、岩崎は将来、大学の地理学科に進学したいのだそうだ。地理学科の頂点と言えばは東京大学だけれど、別に東大に入学する必要はなく、駒澤大学にも地理学科があって、そこなら岩崎にも、湯河原南高で頑張って勉強すれば現役で入れそうだという。

「地理学科って、何するの?」
「地理の世界も細分化されていてね、まあいろいろあるんだけど、僕がやりたいのは地図の基本を徹底的にマスターすることだ。僕はね、地図が大好きなんだよ」
「そんな話、初めて聞いた」

 僕は素朴な疑問を岩崎に投げかける。

「つまり君は、将来にサッカー人生を選ぶことはしなくて、地図の会社に就職したいってこと?まあ確かにその方が手堅い感じはするけど」
「違うよ。地図業界のプロフェッショナルを目指すんだ。地図のプロといったら国土地理院だよ」
「コクドチリイン?」
「国土交通省の配下にある国の機関で、全国の地形図はここが作っている。民間の地図会社も、結局は国土地理院の地形図を加工しているんだよ」
「へえ、知らなかった」
「国土地理院に就職するには、大卒で採用試験を受けないといけない。それと、できれば測量士補っていう資格を持っていたほうがいい。測量学の知識も必要だ。そういう資格や知識を取得できる学科といったら、地理学科なんだよ。大学に入ってもサッカーは続けるつもりだけれど、仕事にはしない。国土地理院に入って、地図のプロフェッショナルを極めたいんだ。今でも暇な時には、サッカー雑誌だけじゃなくて全国地勢図なんかも眺めているよ」
「地名とか、強い方?」
「市町村レベルまで自信がある」
「実は今、チガ子がTNRを実施した場所を白地図にプロットしろとか言い出して、本当に困ってるんだ。聞いたこともない町の位置なんて、本当にもう、どうしたらよいものか」
「まかせろ。市名か郡名を見れば県名は一〇〇%分かる。あとは二十万分の一地勢図で絞り込めば位置が特定出来るだろう。君が町の名前をリストアップしてくれれば、全部この白地図に書き込んでくるよ」
「本当?」
「簡単だよ。そういう作業って好きだし」
「頼む、助けてくれ」
「引き受けた!」

 黎明祭の準備を進めているのは僕だけではない。というより、僕はそのごく一部にすぎない。やっぱり中心となるのはカフェと浴衣とネコミミだ。

 カフェと浴衣担当の半田はというと、浴衣を持っていない女子、および浴衣持参の女子を五人ずつ家(というかお店)に招いて、浴衣の衣装合わせ。和菓子屋だけあって、浴衣はたくさん持っている。衣装合わせには、なぜかチガ子も付き合っている。いつの間にそんなに仲良くなったんだ?
 半田は総合監督としてクラス全体にも目を光らせる。ネコミミ浴衣カフェの飾り付けの立案と制作進行管理。さらにはネコミミ浴衣カフェの価格設定、商品内容の詳細についての組み立て。お茶は普段絹屋では扱っていない。それでも家の仕入ルートを通じて色々当たっているという。

 ネコミミ担当のチガ子も、彼女なりに根を詰めるタイプであるらしい。ネコミミの試作品を十三個作った。色も何種類かあったが、外側が黒または白、内側はピンクに決定したようだ。もっとも、チガ子の本当の悩みは色ではなかった。何でも本物の猫の耳の中には、風を感じる繊細な毛があるという。それを再現したいのだが、どうしてもうまく行かないという。

「チガ子、本物の猫になる訳じゃないから、耳の中まではリアリティを追求しなくていいと思うよ」
「うーん。でも毛がないと気分が出ない」
「いや、チガ子は猫だったからその感触がリアリティに繋がるんだろうけど、他の人は猫経験ない訳だし」
「あたしの目指すネコミミはね、見る人をアッと言わせるネコミミなの。ありがちなネコミミカチューシャじゃない。リアルさにはこだわりたい」
「だからといって耳の中まで作っても、見てくれる人は少ないと思うよ。秋葉原の『膝枕耳かき』じゃないんだから。それより、耳の片方をカットして『さくらねこ』にしないか?その方が展示とも関連して一貫性が出るだろう」
「そうか、そういう方向で煮詰めればいいのね」

 それからさらに三つのネコミミ(さくらねこ)を作り、チガ子のネコミミ作りは、ようやく試作の段階を脱した。何でも耳を微妙にカールさせないと、素材がフエルトなのでピンと立たず、リアリティに欠けるという。耳のカーブをカチューシャの幅に収めつつリアリティのある曲線を表現するのが難しい。チガ子はカチューシャそのものを三種類比較して、一番太いカチューシャで、ようやく満足の行く結果を得た。

 ……

 黎明祭まで残すところ、あと二週間。他のクラスも徐々に出し物の支度が調ってきて、学校全体が黎明祭カラーに染まりつつある。
 一年四組(&ネコ部)も廊下の壁に「ナマコ壁」が現れた。
 ナマコ壁の材料は、本当は瓦と漆喰を使うのだが、それを扱うのは素人には無理だということで、ホームセンターで売っている塩ビパイプと石膏で代用することにした。何でもラグビー部の中島の、母親の実家が配管工事業なのだそうだ。そこの職人さんに、塩ビパイプを綺麗にカットしてもらったという。彼らなりに力を合わせている。
 ナマコ壁の出現は思わぬ効果を発揮した。一年四組は何やら凄い企画をやるらしい、という噂が、一年生全体に流れ始めた。
 一年四組と直接には関係ないが、コンピュータ研のゲームも「スマホに無料でダウンロードさせてもらえる」ということで、全校生徒が注目している。
 そういった情報とも関係しているのだろうが、今年度の黎明祭は例年を越える盛り上がりになりそうだというのが、生徒の間でのもっぱらの噂だ。僕の関係していないところでは、三年生の展示と劇が凄いらしい。二年生には職人級の凄い人が居るという。僕は不安になる。そんな盛り上がりの中で黎明大賞を狙うなんて、一年四組&ネコ部に、本当に可能なことなのだろうか?僕はその不安を、作業の原動力へと昇華させることにした。徹底した資料調査とグレードの高いポスター。出来る限りのチャレンジをしよう。実際、チガ子と半田はそうしているではないか。
 僕は残る十一枚のポスターについても、とりあえずタイトルを考え、説明文書の原稿をWordで書くことにした。

・TNR実施地図(岩崎原作)
・さくらねこについて。なぜ耳をカットする必要があるのか(答えは、誤って開腹しないため。オスはともかく、メスはお腹を開かないと避妊しているかどうか判別できない)
・TNRの成功事例(1)
・TNRの成功事例(2)
・避妊去勢で野良猫はどう変化するか(人間に攻撃を加えなくなる)
・日本における猫の殺処分頭数の年次推移
・野良猫はなぜ増えるか
・やってはいけない無責任な餌やり
・湯河原町の野良猫避妊去勢の補助金について(一定の予算内で、野良猫の避妊去勢に補助金を支給する規定がある)
・尻尾が短い日本猫、ジャパニーズボブテイル。
・TNRにかかわる諸経費の概算一覧

 深夜、父ちゃんの制作用パソコンを借りてIllustratorを起動する。学校のWordで作っておいた文章をコピー&ペーストして、見やすくレイアウトを整えて行く。
 フォントは高級感のあるものを選ぶ。アイコンは自作する。フリー素材の写真から猫のカットを選び、Illustratorで色々なポーズをトレースして猫のシルエットを造り、小見出しの先頭に配置する。フォントの選択は見やすく慎重に、高品位のものを使う。普通科でヒラギノ明朝とかイワタUDゴシックなんて使ってる高校は、多分ないだろう。「いかにも学園祭」みたいな安っぽいポスターにならないよう気をつける。
 野良猫の殺処分数の年次推移などはグラフを作る。減っているとは言え、万単位の命が失われている現状に心が痛む。

 そのデータを翌日、情報処理教室の大判出力機で出力して、刷り上げた都度クラスに持ち込む。その度に人だかりが出来る。
 地図のポスターは反響が大きかった。岩崎には地名を羅列したメモを渡しただけなのに、一晩で全ての地名を地図上にプロットした上に、該当する市町村の大まかな形まで地図に記入してきた。僕は市町村名の横に避妊去勢を行った猫の数をピクトグラムで入れた。
 このポスターを見て思ったことは、岩崎がサッカー少年であることがむしろ不思議ということ。むしろ地図少年がサッカーをやっているというべきなのではないか。
 しかし、これはこれで困った悩みの種を作ってくれた。地図がビジュアル的に立派過ぎて、他のポスターが地味に見えてしまう。読む人も飽きてしまう。かといって無意味なイラストを入れてみたりすると、かえって貧相になる。
 というわけで、以前にも増して「野良猫の写真が欲しい」と思うようになった。
 ふと、野良猫のことならチガ子に聞けばいいじゃないかということに思い当たった。チガ子は、猫だったころに「雄猫とかやってきて大変だった」と言っていたじゃないか。灯台もと暗し。

「チガ子、相談がある」
「何?」
「チガ子が知り合いだったという雄猫を紹介してくれないか?いや、雌でもいい。野良猫の写真素材を撮りたい」
「うーん、いいけど、まだ居るかなあ。雄も雌も、野良猫はその場所の居心地が気に入らないと、すぐ移動しちゃうからねえ。この辺だと、階段堤防に居た『内藤さん』と、あとうちの近くにも時々現れる『ニャウ子さん』かなあ」
「『内藤さん』?それ、内藤って家で飼ってるんじゃないの?」
「茶トラ猫なんだけどね、模様が『可愛くない』から『かわいくないとうさん』で、内藤さんなの。純野良だよ。あまり人なつこくはないね。『ニャウ子さん』は捨て猫なんだ。ちょっと洋猫の血が混じってる。可愛いよ。ニャウニャウ鳴いて人に甘えるの。でも、ここしばらく見ないなあ……連絡の取りようもないし」
「それだけでも情報があると助かる。うちの近所と階段堤防、こまめに歩いてみることにするよ」

 僕は父ちゃんからコンパクトデジタルカメラを借りて持ち歩くことにした。昼休みには階段堤防に出て内藤さんを探した。学校への行き帰りにも注意を払った。夕方には家の近辺を一周するように心がけた。
 だが結局、内藤さんにもニャウ子さんにも出会えなかった。野良猫の写真なんていつでも撮れると思ったら大間違いだ。彼らは気まぐれ、いつどこで出会えるかなんて、全くもって分からない。

 ……

 緊急手段として僕は、日曜日、一人電車に乗って江ノ島に向かった。神奈川県内では野良猫が多いことで有名なスポットの一つだ。チガ子はネコミミ作りで忙しいので誘わなかった。
 カメラは、父ちゃんの一眼レフに中望遠ズームレンズを取り付けた。
 湯河原近辺で猫の多い場所というと、熱海の初島もある。そちらの方が距離的に近い。だが湯河原南高は神奈川県立の高校なので、やはり素材写真も神奈川県内にしたい。初島は湯河原から目と鼻の先の位置にありながら、行政区画上は静岡県なのだ。

 江ノ島の状況は凄かった。至る所に猫が居た。観光客が多いせいか、人馴れしている猫が多い。
 神社の参道、脇道、商店街、公園。三毛トラ、鯖トラ、真っ黒、真っ白、白黒模様、シマ模様。
 健康状態はおおむね良さそうに見えた。だが、そうでない猫も居た。目やにを溜めている猫も見かけた。
 観光客に喉を撫でられて喜んでいる猫もいた。本当はそんなシーンも撮りたいところだが、著作権はともかく、今度は肖像権の問題が出てくる。煮え切らない思いで諦めた。
 カリカリの器を出しっぱなしにしている家もあった。江ノ島の猫は、おおむね可愛がられている、ようではあるが……公園で写真を撮っていると、通りすがりの男性から、強い口調で注意を受けた。

「場所が分からないように撮れ。ここがどこだか分かってしまうと、ここに猫を捨てればいいのかと勘違いする馬鹿が現れる。野良猫が増えてしょうがない」

 僕は凹んだ。
 男性は板前さんの服装をしていた。飲食店関係者は、野良猫による衛生環境の悪化で本当に困っているのだろう。それもまた江ノ島の野良猫を取り巻く現実の一つだ。
 神社の参道には、野良猫の避妊去勢費用を募る募金箱があった。
 僕は撮影料を払う気持ちで、百円玉を一つ入れた。
 江ノ島の猫は「さくらねこ」ではなかった。こういう場所ではTNR活動も難しいかもしれない。あまりにも猫の数が多い上に、首都圏からの交通の便が良いために、猫を捨てに来る人が後を絶たないのだろう。

 写真に関して言えば、江ノ島での収穫は大きかった。半日で一〇〇カット以上の猫の写真が撮れた。観光客の顔が分かるようなカットは使わないが、お土産物のコマと一緒に写っている鯖トラ猫、のような写真はOKだろう。
 僕は帰りの電車の車内で、一人、カメラの液晶モニターを見ては、にんまりとしていた。

 そして家に帰ってきたら、何と、家の前に真っ白い猫が居た。
 一瞬チガ子が猫に戻ったのかと思ったが、瞳がオッドアイではなかった。
 白いので「シロ子」と呼んでみる。
 シロ子は「ニャア」と言ってすり寄ってきた。
 でも首輪をしていないし、白い毛がくすんでいる。ふさふさの尻尾は、何となく汚れている。人間から餌を貰っている野良であろう。

 「君のような猫を探していたんだよ」

 その猫はカメラを向けても逃げなかった。だが、五カット撮ったところで、僕が食べ物をくれる人ではないことを察したらしく、ぷいと後ろを向いて去って行ってしまった。

 その日の夕食は、江ノ島で買ってきた干物を焼いた。父ちゃんも母ちゃんも旨いと言った。元々魚が好きだったチガ子は一際喜んで、ご飯をおかわりした。

 僕は、Illustratorで作り始めていたポスターの全てに、江ノ島で撮影してきた猫の写真を配置した。これまでに作ったポスターも再出力ということになるけれど、これは僕なりのこだわりだ。こんなことやってるから仕事が進まないんだろうな、と、自分でも思う。チガ子や半田のことを、どうこう言える立場でなくなってしまった。

 ……

 六月も第一週が終わり、いよいよお尻に火がついてきたにもかかわらず、僕はまだポスター制作という課題を残していた。クラス全体の準備はそれなりに順調なようだ。
 そして忘れちゃ行けない、イケダ先輩のポスター。コンピュータ研にはネコ部活動場所の確保で、ひとかたならぬお世話になっている。ここで礼儀を欠く訳にはいかない。だがコンピュータ研の原稿は六月に入っても上がって来る気配がなかった。この件は致し方ない。
 僕はネコミミ浴衣カフェのポスター制作を最優先とした。ポスターがなければネコミミ浴衣カフェの意義そのものがうやむやになってしまう。

 チガ子はネコミミがまだ仕上がっていないうちから「次はネコ尻尾を作る」と言い始めた。尻尾?どうやって作るんだ?

「細長い袋を作ってね、中に綿を詰めるの。色々な模様が出来るよ、でもこれはあたしだけでは間に合わない。作り方を教えて、女子全員で自分の尻尾を作るんだ。半田さん三毛がいいって。あたしは白よ。元の通りにね。でも針金を入れてね、折れた尻尾を再現するの」
 ある日の放課後、チガ子は女子全員を集めて「尻尾作り講座」を開いた。材料は手芸屋さんとホームセンターでチガ子が買い揃え、大きな箱に適当に投げ込んである。そこから好きな布や毛(フェイクファー)を選んで各自細長い袋を作り、芯になる針金に綿を巻きつけたものを入れて尻尾にする。
 女子全員で椅子を丸く並べて座り、真ん中にチガ子。最初にチガ子がサンプルを一本作ってみせる。

「袋の生地や色はなんでもいいのよ。ただ、猫の模様って頭と尻尾に出やすいから、なるべく濃い色の方がいいね」
「質問!ピンクとかでもいいの?」
「OKだよ。本物の猫になる訳じゃないし、好きな色を選んでいいよ」
「あたし縞模様がいい!」
「縞模様の尻尾はね、さきっちょだけ黒とか焦げ茶にすると可愛いよ。実際、そういう色の尻尾してる猫、多いし」
「質問!尻尾って長くなくちゃだめ?短い尻尾の猫とかもいるよね」
「尻尾が短い猫はねぇ、二種類あるの。尻尾の長さが中くらいの、もともと短めな猫もいる。そういう猫は太い尻尾が多いな。でも、もっと短くて丸っこい尻尾はね、実は、短いんじゃなくて、Uの字に折れて半分の長さに見えてるっていうのが、ほとんどなんだよ。里芋みたいな尻尾してる猫は、まあそうだね」
「チガ子の説明って、なんか具体的で説得力あるよね」
「まあねぇ〜。伊達に野良猫経験積んでないよ」
「すごーい!」

 ……

 黎明祭の前々日。放課後。今日もポスターを出力しようと、家の仕事場で作ったデータを持って情報処理教室に行くと、イケダ先輩が待っていた。

「出来たわよ!あたしたちのゲーム!湯河原南高生徒のスマホは私たちのゲームが独占するのよ!」
「対戦型ゲームなんですよね、格闘系ですか?」
「基本的にはシューティング。学校のサーバ経由で敵キャラを倒すの。複数のプレーヤーが同時プレイで協力しあえるようにしている。あとグラフィクスには私たちなりに凝ってるんだ。初心者でも見ていて飽きないように工夫してる。スマホの小さな画面でも見栄えのするグラフィクスには苦労したのよ」
「それは楽しみです、で、データを……」
「これからプレイしながらスクリーンショット取るからちょっと待ってて。説明とキャッチコピーは用意してあるわ」

 僕はイケダ先輩の用意したメモを受け取り、とりあえずWordで文字を入力した。
 その間にもネコミミ浴衣カフェのポスターを一枚出力。やがてイケダ先輩が、スクリーンショットを保存したUSBメモリを持ってきた。

「開いてみていいですか?」
「いいよ」
「……うーん、ちょっと解像度が足りないかなあ、でも、一つの画像をA1一杯に出すとかでなければ大丈夫ですよ、Photoshopで補間すれば何とかなります。特にアピールしたい画面って、どれですか?」
「ええと、一番が、この爆破シーン。それとタイトル画面は必要ね。あとは二〜三枚好きなのを選んでいいよ。ネコ部のポスターも綺麗に作っているみたいだし、細かいことは君の感性に任せるよ」
「わかりました。今夜中には出来ますから、明日出力しますね」
「仕事が早いね。よろしく頼むわ」

 Wordで説明とキャッチコピーを入力し、イケダ先輩のUSBメモリに保存して、家に持ち帰る。
 コンピュータ研のポスターのデータは、その夜、父ちゃんの仕事場で作った。画像がちょっと粗いようにも見えるが、多少のことは目をつぶろう。ロゴはスクリーンショットの画像データから作る。Illustratorのライブトレースに任せず、細かいところに手作業を併用するのがキモだ。キャッチコピーやタイトルには……JTCウインZ10を使おう。これ持ってるデザイナーって意外に少ないと思う。インパクトあるし。構成は、全体の印象を「シュッ」とした感じにする。こういうゲームのポスターは、もっさりした絵柄では見てられないからな。PDFに出力したのが午前二時。明日の朝一番で情報処理教室に行って、大判出力機で出力しよう。

 ……

 翌日、黎明祭の前日には授業がない。黎明祭の準備日として一日が割り当てられている。湯河原南高は進学校の割に学校行事が多い。それが一部の勉強家達には不評だけれど、行事に手を抜く生徒はあまりいない。特に三年生がそうだ。一年からヒートアップしている半田やチガ子は、二年後どうなってしまうのだろう?
 その半田とチガ子が今日は朝からいない。体育系男子十二人を引き連れて、小宮山家に竹を貰いに行ったのだ。いったい何本切って来るつもりなんだ?
 果たして、その答えは六本であった。
 昼前に学校に戻って来た彼らは、二人で一本ずつ、長くて葉の茂ったままの竹を持たされていた。

「チガ子、こんなにたくさん竹を持ち込んでどうするつもりだ?」
「全部使うんだよ。廊下の両側に半分に切った竹を並べて、竹林の中にカフェがあるみたいにするの。だって和風じゃん?」
「そこまでやるか?」
「当然よ!凄いじゃない!本物の竹だよ!」

 早速男子全員が駆り出されて、竹を切って廊下に固定する作業が始まる。半田は現場監督になっている。

「そこ!もっとしっかり固定する!倒し過ぎ!葉っぱはあまり切らない!」

 半田の横にチガ子がいるから、彼らも言うことを聞くのだと思う。二人三脚な半田とチガ子。
 僕はといえば、とりあえず情報処理教室でコンピュータ研のポスターを出力する。出来上がったポスターを見て、コンピュータ研のメンバーは歓声を上げた。
 イケダ先輩が喜ぶ。

「ゲームメーカーのポスターみたい!」

 だが僕には、まだネコ部=一年四組のポスター制作がまだ三枚分残っていた。ああこんな時、学校のパソコンにIllustratorが入っていればなあ……僕は半田に断って早退させてもらうことにした。急いでポスター三枚を仕上げなければならない。

 僕はふと気になったことがあったので半田に訊ねてみた。

「そういえばさ、お茶と和菓子の方は大丈夫か?当日二〇〇人くらい来るとして、二〇〇組の饅頭、用意出来そう?」
「職人を舐めるな。うちは葬式饅頭を一晩で四〇〇組作ったことがあるんだ」
「へえ、一晩で饅頭四〇〇個か」
「違うよ八〇〇個だよ」
「なんで?」
「葬式といってもただの葬式じゃない、名家の大お祖母さんだったんだ。亡くなったのが一〇八歳。そこまで長生きすると、大往生でむしろ縁起がいいってことで、紅白饅頭を出すんだ。紅白セットだから二個一組で八〇〇個」
「葬式に紅白饅頭が出るなんて知らなかった」
「滅多にないよ、よほど長生きした人でないとね」
「で、ネコミミ浴衣カフェの饅頭は何組仕込むんだ?」
「強気に出て、二〇〇組四〇〇個。君もうちで食べただろう?黄身しぐれと茶まん」
「あれは美味しかった」
「うちは白糖には四国の和三盆を使うんだよ。黒糖は沖縄産。上新粉も国産の上等品しか使わない」
「二〇〇組か、売れ残ったら最終日の放課後に高級饅頭パーティーだな」
「うるせえ!ボクはこれを二日で全部売り切るつもりでいるんだ!」
「マジか?」
「あたりめえだ!」

 帰宅する前に僕はスーパーに寄って、夕食用に安い弁当を四つ買った。安いといっても貧乏な我が家にとってはちょっとした贅沢。でも今日はチガ子も忙しいし、僕もポスター制作が切羽詰まっている。母ちゃんも父ちゃんんもこのところ体調が良くない。母ちゃんの喜ぶアジフライ弁当にする。こういう時に弁当は助かる。後片付けも楽だ。

 午後一時頃から仕事場でポスター制作を始める。全速力で飛ばして、五時までに、残っていた三枚を全て仕上げた。
 それらのデータを全てUSBメモリに入れて、僕は再び学校に向かった。
 情報処理教室ではコンピュータ研のメンバーが、最後のバグ取りに血眼になっていた。
 大判出力機にポスター三枚分のデータを送り出し、待ち時間の間にクラスの様子を見に行った。廊下は竹薮とナマコ壁がいい味を出している。教室内は二つに仕切って、スタッフルームと喫茶室に分けてある。野良猫に関する展示ポスターも、既に教室内に十七枚が掲示されていた。
 展示されたポスターを改めてチェックしてみると、ちょこちょこと誤字があったり、均等配置したはずの写真がズレていたりしている。それらをメモに書き留め、僕は情報処理教室に戻る。誤字は、上から紙を貼って修正する。写真のズレは二枚のポスターで発見した。こういうのを気にするのは僕だけかもしれないけれど、思い切って家に帰ってからデータを作り直そうと思う。明日の黎明再初日当日、朝早くに出力して教室に貼ってあるポスターと差し替えよう。半田は言った。「隅々の詰めの甘さが、みすみす黎明大賞を逃す」。

 ……

 そして僕らは黎明祭初日を迎えた。
 僕は朝から情報処理教室に駆け込み、差し替え用のポスター二枚を急いで出力し、教室のポスターと差し替えた。
 ネコミミ浴衣カフェには、幸いにして、まだあまり人が来ていない様子だった。黎明大賞の審査もまだだろう。

 黎明大賞の審査は、各クラスのクラス委員と文科系公認部活の部長が審査員になって行う。ネコ部はまだ非公認だからチガ子は審査員にはなれない。
 審査員は全てのクラスと全ての部活動の発表を見て、各発表を五段階評価で採点する。
 全ての審査員の採点が終わったところで、各出し物ごとに得点を合計する。その合計を審査員の数で割って、小数点第二位までを評価点とする。
 つまり、評価点は満点が5で、最低点が1、実際には3.52点とか、4.35点とかになる。3.50点以上が概ね優秀な発表とされるが、大賞に輝くのは最高得点を獲得した発表一点に限られる。

 チガ子が教室前の竹林に立って呼び込みを始める。

「いらっしゃいませ〜、ネコミミ浴衣カフェですよ〜!」

 半田が並んで声を挙げる。

「お茶は京都宇治から取り寄せた『かりがね』、お菓子は職人さんが作った本格派だよ〜!」

 さて、ネコミミ浴衣カフェは、最初の三〇分こそヒマであったが、カフェにチガ子が出ていることが次第に知れ渡り始めたのだろう、急速に一年生男子生徒の来場が増えていった。開始一時間、午前十時を過ぎる頃になると、廊下に長蛇の列が出来る騒ぎとなった。
 そして来場した生徒が、他の生徒にネコミミ浴衣カフェの、というより、チガ子の噂を拡める。やっぱり可愛いぞ、と。
 かくしてネコミミ浴衣カフェは一年生男子の巣窟となってしまったが、その状態は長くは続かなかった。チガ子目当てで来場してみると、他の女子にも自然に目がいく。みんなネコミミ+浴衣姿。上級生の男子、さらには次第に女子の来場が増え始めた。
 予想以上の反応に、半田が焦りはじめる。

「やばい、饅頭二〇〇組では足りない」
「本当か?」
「十二時の時点で残り五〇だ」
「時速五〇組か、午後一時に底をつくな」
「オヤジに電話して饅頭の追加を持って来てもらう。黄身しぐれと茶まんだけじゃ足りない。豆大福とか栗饅頭とかも含めて、うちの在庫を全部出す」
「午後一時から終了の四時まで三時間あるぞ。一五〇組、三〇〇個もの饅頭なんて、在庫あるのか?」
「もちろんない。そういう数は普通、予約注文でしか作らないもんだ」
「だろうな。どうしたものかな」
「予備のあんこも持って来てもらう」
「あんこ?」
「饅頭が尽きたら『ぜんざい』を出す。審査員はいつ来るかわからない。最後の一人まで手抜かりなく、徹底的にネコミミ浴衣カフェを堪能させる」

 チガ子はくるくると回るように立ち働き、まるで接客は慣れていましたというような滑らかな動きをしている。他の女子がまごついていると、すかさずチガ子が助け舟を出している。野良猫だったチガ子がどこでそんなスキルを身につけたのかは謎だ。
 カフェで接客する女子も忙しいが、バックで器を洗っている男子も大変だ。僕もその一人。教室には流しがないので、使い終えた器はゴミを取り除いてから家庭科室に運び、家庭科室の流しで洗わなければならない。運悪く一年四組は家庭科室から非常に遠い場所にある。食器を運ぶだけでも一苦労だ。

 ネコミミ浴衣カフェの人気は来場者が来場者を呼ぶ形で増えていった。
 ネコミミ浴衣カフェは、もはやチガ子効果だけでは説明のできない大盛況となっていた。浴衣が可愛いということと、饅頭が美味しいということが評判になっているようだ。
 写真を撮る生徒も多い。特に女子。他のクラスの女子が、浴衣姿の一年四組女子と一緒にスマホで写真を撮ったりしている。「いいなー!」「あたしも着たい!」そういう声が何度も聞こえた。

 午後一時、半田の危惧が的中し、当初の饅頭の二〇〇組が尽きた。まだ終了まで三時間を残している。彼女の判断は正しかった。
 追加の饅頭一〇〇組も飛ぶように捌け、予備のぜんざいも四十二杯出た。
 そうやって嵐のような一日目が終わった。

「半田、お前、リーダーの素質あるよ、饅頭の追加発注、早い時期に決定していたもんな」
「褒めても何も出て来ないよ」
「それはそうとして、明日、どうする?二日で二〇〇組の予定が、初日で三〇〇組以上行ってしまった。明日は日曜だ。もっと混むかもしれない」
「うーん、オヤジの生産能力にも限界があるぜ、昼間はお店に出てるし……木戸、今夜ヒマ?」
「夕食の支度をしないといけない。チガ子も今日は疲れているだろう」
「じゃあ、夕食が終わってから、君だけでいい、うちに手伝いに来てくれないか?」
「もしかして饅頭作りを手伝うってこと?」
「キライかもしれないけどさ」
「嫌いじゃない。むしろ好きだ」
「ほんとに?」
「ああ、一年四組だけの問題じゃないからな、ネコ部の存在意義に関わる問題でもある」
「何だ、そういう話か」
「何かまずいこと言ったかな?」
「いやいや、いいよ、君らしいなと思ってね」
「は?」
「ともあれ、饅頭作りと言っても材料の調合はオヤジがやる。うちの企業秘密だからな。でも餡子を丸めるとか、倉庫から材料を持って来るとか、蒸かし上がった饅頭をトレーに詰めるとか、そういう作業を手伝ってほしい。目標三五〇組、七〇〇個。徹夜にはならないだろう」
「わかった。出来る限りの協力をする」

 夜。僕が絹屋に向かおうとするとチガ子が呼び止めた。

「どこ行くの?」
「絹屋」
「半田さんのとこに行くの?」
「そうだ。今夜限りの饅頭製造助手としてな、まあ雑用係だけど」
「あたしも行く、っていうか、豆ちゃんだけ行くのずるい」
「別にずるくないと思うけど」

 半田に焼きもち?まさかな、鬼瓦だし……
 
「それに人手は多いほうがいいでしょう?」
「それもそうかな?よし、一緒に行くか」
「行こう!」

 という訳で午後七時、僕らは自転車で絹屋に向かった。
 絹屋は明かりを点けて店を開けていた。半田は白衣姿に白い帽子を被っていた。
 チガ子が付いてきたことに、半田は一瞬、戸惑った。

「わ、悪いね、チガ子は今日一日立ち詰めで疲れてるかと思ったんだけどさ」
「半田さんだって立ち詰めでしょう?あたしなら平気だよ」
「よし、じゃあ工場に行こう」

 和菓子屋絹屋は、一階の手前半分が店舗、奥半分が工場になっている。
 砂糖や上新粉は三〇キロ入りの袋で積まれている。
 何に使うのかよくわからないけれど、何かを撹拌するように見える機械もある。
 そして大きな作業台。卵が一〇〇個単位で紙の緩衝容器に載っている。
 作業台の前では、半田の父親が既に饅頭作りを始めていた。

「こんばんは」
「こんばんは」
「……」

 怖い職人さん登場。この人の神聖な仕事場に、僕らのような素人が入ることは、本来は許されないことなんじゃないだろうか?しかし半田って父親似なんだな。僕は笑いそうになるのをこらえる。

「悪いな、オヤジは無口でな、別に君たちを嫌っている訳じゃないから。じゃあ、まずこの帽子を被って。チガ子は髪長いから特に気をつけて。髪を束ねて全部帽子に入れるんだよ」
「わかった」
「白衣はこれ。それ着たら、二人ともあっちの流しで手をよく洗って。ブラシで爪の間まで擦って、それから肘の下まで流すんだよ」

 チガ子が髪を束ねている間、僕は半田に質問する。

「半田、もしかしてお前がベリーショートにしてるのって、この仕事のためか?」
「まあな。手入れが楽ってのもあるけどな、仕事に都合がいいのは事実だ」
「気合い入ってるな」
「君もお父さんの仕事手伝ってるんだろう?コンピュータウィルスに感染してお客さんに移したりしたら大変だろう?」
「もちろんだ。セキュリティには気を遣っている」
「それと同じことだよ」
「お互いプロだな」

 髪を結ったチガ子が会話に参加する。

「ねえねえ何二人で盛り上がってんの?あたしも混ぜて!あと、髪はこれでいいかな」

 半田が答える。

「いいよ。バッチリだ。チガ子、君もこの仕事場に立ち入る以上、アマチュアでは済まない。プロとしての自覚を持ってもらう。いいな?」
「頑張る」
「よし、気合い入れて饅頭作るぞ」
「うん!」
「おう!」
「じゃあ、二人とも手を洗って手袋をはめたら、そこの餡子を、こうやって……このくらいの大きさに丸めてくれ」

 半田が僕らに指示を出す。僕とチガ子はその指示に従って饅頭作りに取りかかる。
 半田親子の間は無言。言葉は不要らしい。
 僕らは半田の指示に従って作業をこなしていく。
 果たして、もう日付が変わろうかという時刻になって、饅頭三五〇組、七〇〇個が蒸し上がった。

「お疲れ!オヤジ、ありがとう!あと、君たちのお陰で何とか出来上がったよ!木戸姉弟」
「姉弟じゃなくて、いとこなんだけど」
「似たようなもんじゃねえか!とにかく、ありがとな!」

 半田の性質には、繊細と大雑把が同居している。そういうところもまた、同性から支持される秘訣かもしれない。

 ……

 黎明祭二日目。この日は午前九時の開場と同時に、ネコミミ浴衣カフェには行列が出来た。初日の評判を聞いた生徒だけでなく、どうやらリピーターも居るようだ。
 お茶と饅頭のセットがどんどん捌けて行く。今日は展示ポスターも、よく読まれている。ネコミミの片側がカットされて「さくらねこ」になっていることに、今さらながら気づいた生徒も多い。饅頭を味わった後に展示を見てくれる流れが出来た。

「木戸、ちょっといいかな?」

 半田が僕を呼び止める。今頃になってポスターにミスでも見つかったか?

「付き合って欲しいんだ」

 何コレ?生まれて初めてコクられた?半田に?

「お前何か変なこと考えてないか?一年四組のまとめ役として、他の組の有力な出し物をチェックしておきたいんだ。君、ネコ部の副部長なんだろう?一緒に来て欲しい出し物があるんだ。まだ黎明祭の二日目は始まったばかりだ。敵情視察、ネコミミ浴衣カフェに修正すべき箇所が見つかれば、修正したいが、ネコ部部長のチガ子は接客で忙しそうだから」
「あ、そ、そうだな、一年四組とネコ部の発表に、死角がないかチェックしておくのはいいい考えだな」

 僕は、ほっと一安心する。

「で、その有力な出し物って、何?」
「二年四組の『お化け屋敷』」
「『お化け屋敷』なんて僕らの敵じゃないだろう?」
「そう思っていたんだ、ボクも。だが、そこに死角があった。最後に意表を突くサービスがあって、そこに噂の『職人級の人』が関係しているらしい」
「サービスでは負けてないと思うんだが」
「二年四組のサービスが何か、気になるだろう?それに『お化け屋敷』に負けたら悔しいじゃないか、いくら上級生とはいえ」
「確かに。行ってみるか」

 半田もネコミミ浴衣カフェの接客に出ていたので浴衣姿。浴衣女子と一緒に文化祭回りですか、ある意味、夢のようですなあ……半田と一緒に二年四組に向かおうとすると、チガ子が呼び止めた。

「どこ行くの?」
「視察……といってもお化け屋敷だけど」
「本当に視察?二人で遊びに行くんでしょ?」
「いや違うんだチガ子、そのお化け屋敷が、何だか凄いらしいんだ」
「あたしネコ部の部長よ。他の出し物が凄いと聞いて黙っている訳にはいかない」
「そ、それもそうだな、よし、三人で行こう」

 両手に花、ってこういう状態をいうのだろうか?言わないと思うよ、言わないと思うよ……
 さて、二年四組の教室に着いた僕は、あれ?と思った。凄いサービスがあると言うので行列を覚悟してきたが、待ち人数ゼロ。本当に凄いのだろうか?ドアを開けて中に入ると、とりあえず暗い。教室内はダンボールで仕切った壁で、狭い通路になっている。

「いてっ!」

 僕は段差のある床に蹴つまづき、転びそうになる。反射的に半田が僕の左手をとる。顔に似合わず繊細な半田の指。

「大丈夫か?木戸」
「何か蹴飛ばしたみたいだ。正直、ここ、怖いというより、危ないって感じだな」
「ボクは苦手だ、霊とかお化けとか」
「だから僕を呼んだの?」
「まあそれもある」

 お前は「盗賊避け」であって「魔除け」ではないからな、と言ったら殴られそうなので黙っておく。

「チガ子は?」
「あたし平気。猫の時には公園で寝てたし」

 不意に目の前に、長い髪の女子。白装束。うらめしや。半田が叫びながら僕の腕にしがみつく。

「うぎゃぁあぁあ」

 もうちょっと可愛らしい驚き方は出来ないのか?だが半田が浴衣に忍ばせた匂い袋は、僕の意識を遠い世界へと誘う。
 さらに進むと行き止まり。単に真っ暗なだけだった。と思ったのだが……チガ子が叫ぶ。

「何かいるよ!」

 どん、と半田の背中をに何者かが押した。反射的に僕は半田をハグしてしまう。狭い肩。柔らかい二の腕。

「は、半田、あ、あの、だ、大丈夫か?」
「だ、大丈夫、ってゆーか木戸、今の、事故だからな!でも、ありがとう」
「あ、いや……」

 しおらしく礼を言う半田に、僕の心はピクリと反応する。

「しかしボクには、ここは、ただのお化け屋敷ごっこにしか思えないなあ。一体、どこが凄いんだろう?」
「あたしも。全然怖くないし」
「うーん、なぜなんだ。わからん」

 果たしてその答えは、教室を出たところにあった。出口脇の机に来場記念スタンプ。二年四組の女子生徒が、ポストカードに丁寧にスタンプを押してくれた。
 このスタンプ、ただものじゃない。お化け屋敷の入り口の、竹藪を模した風景が、ゴム版で精密に彫刻してある。絵柄の周りに明朝体で「好奇心を誘われる迷路の組・県立湯河原南高二年四組」との文字。パソコンを使えば明朝体のフォントをプリントアウトするのは簡単。だが、ゴム版。超アナログのデザインワーク。「誘」なんかどうやって彫ったのだろう?なるほど職人級だ。半田も驚く。

「なるほどこれは、意表をつくサービスだ」
「確かにこのスタンプは凄い。職人級だ。でもまあ、展示そのものという訳ではないから、賞を受賞するということはないと思うよ」
「だよな。よし!帰って後半頑張るぞ!」

 ……

 それからまた僕は、嵐のような食器運搬と洗浄に忙殺された。

 午後三時。終了まであと一時間というところで、教室の空気が変わる。

「武田さんだ!」
「武田さん!」

 一年四組男子全員が色めき立つ。昨年と今年、二年連続で「ミス南高」に選ばれたという、三年三組の武田さん。その武田さんが「ネコミミ浴衣カフェ」に現れた。噂では読者モデルに推薦されながら、学業優先のためオファーを断ったという話だ。美貌を鼻に掛けないところがまた、武田さんの人気を高めている。湯河原南高では有名人だが、何しろ三年生なので、僕も武田さんを間近で見るのは初めてだ。肩までの黒髪。涼しげな一重まぶたに、筋の通った形の良い鼻。仲の良い同性の友達を連れて三人で来た。その友達も十分かわいい方だとは思う。それでも今は、武田さんの引き立て役になってしまっている。

 小宮山が言いだす。

「俺、接客に行く!」

 中島が続く。

「俺も!」

 さらに次々に男子が名乗りをあげ、収拾がつかなくなる。
 僕は引き止める。

「まて、君ら全員、制服じゃないか。ネコミミも浴衣もないから失格だ」
「……」
「つまんねーの」
「木戸だって本当は行きたい癖に」
「まあそうだけど」

 あきらめきれない様子で、男子達はちょろちょろとカフェの様子を覗き見たりしている。僕も正直、興味を引かれている一人。ちらっと見てみる。
 美人って本当に居るものなのだなと感心する。チガ子が「キュートでカワイイ」タイプとすると、武田さんは端正な「日本美人」だ。
 よせばいいのに、チガ子が他の女子を差し置いて、武田さんにお茶と饅頭を持って行く。
 チガ子は背中からピリピリと、見えない電波を放っている。しかしチガ子、いくらお前が有名とはいっても、それは一年生男子の間だけで……

「あなたがチガ子さん?」

「おお!武田さんが喋った」

 小宮山が感動する。僕は呆れる。

「そりゃ人間なんだから喋りもする」

 しかしチガ子ってそんなに有名なのか?
 チガ子は返答する。

「はい。木戸チガ子です」

「ネコミミ浴衣カフェって、いいアイディアね。浴衣と尻尾、みんな違うのね。ネコミミ可愛くていいな。噂では、あなたがネコミミを作ったって聞いたけど」
「はい。でも私はネコミミだけです。尻尾はみんなで作りました。お茶とお菓子は半田さんが考えて、展示ポスターは、いとこの豆ちゃんにやってもらいました」
「ふうん。みんなで協力してるのね。感心しちゃうなあ」

 小宮山がつぶやく。

「廊下の竹なんかにも気がついてくれないかな?」

 確かに竹は小宮山家のものだし、力仕事で苦労もしている。その思いが通じたのか……

「廊下の竹も凄いわね、竹林にカフェがあるみたい」
「男子が頑張って飾り付けました」

 小宮山が喜ぶ。

「武田さんに褒められた!」

 武田さんが続ける。

「でもあたし、葉っぱで指切っちゃった。ちょっと痛いな」
「申し訳ありません!僕が舐めます!」
「え?」

 飛び出した小宮山に、戸惑う武田さん。
 ぺし。
 チガ子に坊主頭をひっぱたかれる小宮山。

 武田さんが退室してからも、余波が続いた。
 武田さんの食器を誰が洗うかで揉めている。このクラスの男子は食器フェチか?
 小宮山が、まだ少し残りのある湯のみを強引に掴み取り、お茶を一気に飲み干す。

「うわぁはははははぁ!こういうものは結局は早いもの勝ちなのだ」
「小宮山、それ半田の飲み残しだ。武田さんの器はもう家庭科室だ」
「ぐ」

 ……

 午後四時。第二日目の日程が終了した。黎明祭は二日間。やるべきことはすべてやった。饅頭も全て捌けた。
 生徒会室に各クラスの委員長と文化系公認部活動の部長が集められ、各発表の採点集計が始まった。
 待つこと一時間、といっても、待っている間も食器洗いとかゴミ出しとか、暇はまったくなかったのだけれど。

 午後五時。体育館で黎明祭の閉会式が始まる。全校生徒が体育館に集合する。
 生徒会長挨拶。んなものはどうでもいい。
 いよいよ黎明大賞の発表。

 まず「第三位」の出し物に贈られる、黎明優秀賞。

「発表します。黎明優秀賞……」

 生徒会長がうやうやしく封筒を持ち上げ、頭の上で封を切る。大袈裟な人だ。

「コンピュータ研究会、評点4.55」

 きゃー!と歓声が挙がる。コンピュータ研とはご縁が深い。個人的に嬉しい。
 次に呼ばれるのは「第二位」の、黎明賞。

「発表します。その前に……」

 生徒会長は、いちいち勿体ぶる人だ。

「今回の黎明賞と黎明大賞は、一位と二位が同点であったため、臨時に審査討議を行い、その後、決選投票を行いました。では、改めて。黎明賞……」

 ふたたび封筒持ち上げの儀式。封が切られる。

「一年四組・ネコ部共同、ネコミミ浴衣カフェ、評点4.85、決選投票六票」

 沈黙。

 ……一位じゃない。大賞を逃した……少し間があって、思い出したように僕らは歓声を上げた。
 この「間」が、僕らの悔しさを強烈に表現していたと思う。

 黎明大賞は三年四組の劇「元ちゃんの九十七年」。湯河原に住む九十七歳の老人「元三さん」が、第二次大戦中に大陸で国境警備をやっていた。戦局は思わしくなく、ついに突撃(玉砕)作戦が決定する。決行前日には遺髪を箱に収めた。ところがその翌日は八月十五日。終戦。混乱の中、ソ連兵や現地中国人を相手に商売をしてお金を貯め、苦労して帰国。波乱の人生。その「元三さん」を取材して作り上げた緻密な劇。評点4.85、決選投票二八票。僕らはそんな「大物」と戦っていたのか……

 閉会式の後、クラスに戻って簡単なミーティングが開かれた。クラス委員長の高橋が言う。

「ええと、今回は大賞こそ逃したものの黎明賞受賞は嬉しいことですし、そもそも黎明祭で、一年生が三年生と互角に争ったというのは、黎明祭始まって以来、初だそうです」

 おお、と、どよめき。

「ネコミミ浴衣カフェに関して言えば、人気の理由はネコミミと浴衣と美味しい饅頭でした。ネコミミを作った木戸チガ子さんと、饅頭の仕入れを担当した半田さんに拍手を」

 全員が拍手する。僕も拍手をする。

「ですが、決選投票前の審査討議で高く評価されたのは、ネコミミでも浴衣でも饅頭でもありませんでした。二〇枚の展示ポスター、これが充実していたことが評価されました」

 ほぉう、と感心の声。

「展示については『説教臭い』という意見もありましたが、展示会場を『ネコミミ浴衣カフェ』とすることで雰囲気が和らぎ、全体として好印象が持たれました」

 説教臭いか。まあそうかもな。

「という訳で、ポスターを取材から出力までほぼ一人で担当した木戸君に、改めて拍手をお願いします」

 拍手。半田と岩崎が次々に手を差し伸べる。握手。何だかなあ、こういう場面に慣れていないので落ち着かない。

 ミーティングが終わると、あとは帰るだけ。
 チガ子が僕を呼び止める。

「ちょっと来てほしい」
「どこへ?」
「階段堤防」
「は?別にいいけど」

 階段堤防に着くとチガ子は腰を下ろした。僕にも腰を下ろすように促す。

「ねえ。あれやって」
「あれって?」
「ごろにゃん」
「え?……あ、ああ、いいけど」

 チガ子は僕の膝枕に頭を乗せる。髪の甘い匂い。僕の本能をくすぐる。
 僕はチガ子の背中を撫でてやる。チガ子が言う。

「ごろにゃん、ごろごろにゃ〜ん」

 僕はチガ子の背中を軽く叩いてみる。ポンポンポン、と。「ポン子」だ。

「ごろにゃ〜ん……豆ちゃん」
「何?」
「半田さんのところに行かないで」
「え?いや別に半田とは」
「豆ちゃん、半田さんに取られちゃう」
「いやそんなつもりは」
「ハグして」

 チガ子の肩は驚くほど狭く小さく、暖かい。
 さざ波を背景に、吐息が聴こえた。
(終わり)

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Masaki Iijima

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