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食堂車の記憶

上記記事の筆者は多分知ってて書いているのだと思うけれど、北陸トンネル火災事故の本当の原因は「石炭コンロ」ではなくて「従業員休憩室の電気暖房装置の漏電火災」なんですね。当初は石炭コンロが疑われ、「列車内で裸火を使うのは危険である」という判断を下したことそのものについては、大きな間違いとは言えないとは思いますけど。詳しいことを知りたい人は、Google先生で色々検索してみてください。

まあ、国鉄の本音は、乗客を乗せて儲けられる訳でもなく、鉄で出来た鉄道車両内で水を使うのでどうしても傷みが早くてメンテナンスの手間が掛かる「面倒な車輌」を辞めたかった、ってあたりにあったんじゃないかという気が、私的には凄く感じられるんです。まあそれも食堂車の一面ではあります。それでも特急とか新幹線とかには「プライド」としての食堂車の意義のようなものがあって、すぐには辞められなかったのではないだろうか。

そんなプライドのかかった食堂車がJRからなぜ消えたのかというと、一つには利益を出さなきゃならない営利企業になって背に腹は代えられぬ合理化という課題もあったのだろう思うけれど、それだけじゃない、と、私にも少し感じたところがあります。

私が最後にJRの食堂車に乗ったのは、1993年の「グランドひかり」100系168形3000番台2階建て食堂車(JR西日本バージョン)。青春18切符を使った旅行でしたが、時間の都合上どうしても広島から岡山まで新幹線に乗る必要があった。それがたまたま「グランドひかり」だったので、折角なので食堂車に行ってみた訳です。

確か夕食時を少し外した遅い時間(夜)だったと思いますが、がら空き。隅っこの席になぜかコーヒー1杯だけをテーブルに載せてちびちび飲んでいる太った若い男がいた。

食堂車で注文したのは、2200円の「ビーフシチュー定食」。
料理が運ばれてきて唖然としました。
ビーフシチューとライスは辛うじて別の器に分けてありました。そりゃそうだわな、カレーライスじゃないんだから。でも、器はそれだけ。ビーフシチューの隅っこに、お飾り程度のニンジンのグラッセと茹でたホウレンソウが乗せてある。おい待てよ、これ猫の餌かよ?いや猫の餌を注文してこれが出てきたら驚くけど、私が頼んだのは1食2200円の「ビーフシチュー定食」だよ?2200円だよ?岡山駅の売店で売ってる「ろうまん」1個100円とかの方が全然美味しそうじゃないですか。
それでも渋々食べましたが、あまり美味しいとも思わなかった。
で、30分くらいで食べ終えて私は食堂車を出ましたが、来た時に隅っこの席でコーヒー1杯の太った男は、まだちびちびコーヒー飲んでるんです。私は直感しましたね、こいつキセルだと。こんな有様では、食堂車、もう終ったな、って思いました。それが1993年。

その2年後、阪神大震災で山陽新幹線が不通となる。あの時の東京駅の行き先表示「のぞみ新大阪行」「ひかり新大阪行」「こだま新大阪行」「のぞみ新大阪行」「ひかり新大阪行」「こだま新大阪行」……の、全部「新大阪止まり」の電光表示の悲しさは忘れられない。食堂車は営業休止。

その後山陽新幹線は復旧し、グランドひかりの食堂車も再開しましたが、2000年、グランドひかりの食堂車は営業を終了。私がすっかり食堂車から興味を失っている間に、いつの間にか消えていました。

上記記事にあるように「混雑時に自由席に座れない客が食堂車で粘る」という現象は、新幹線でもよくあったみたいです。でも、そんなに酷かったかなあ、1970年代後半頃、私、0系時代のひかり号の食堂車「36形」に何回か乗ったことあります。小学校高学年から中学の頃。夏休みとかに乗った訳ですけど、酷い人はあまり居なかったように思う。結構お客さんが入れ替わってました。「36形」って、一番奥の席だけ仕切りのあるボックス席になっていて、当初の構想ではそこを「予約席」にする案があった。
1985年、新幹線100系試作編成9000番台、2階建て食堂車「168形」登場。1000円のモーニングサービスを頼んだ。コーヒー、トーストにバター、ハムエッグ、サラダ。大きな車窓から眺める浜名大橋。あのあたりが、ある意味、食堂車の「頂点」だったのかもしれない。

あと、食堂車といえば1980年「やくも」のキサシ181とか、1984年「まつかぜ」のキシ80とか。キシ80で渡る餘部鉄橋から眺めた真夏の日本海。1000円のランチを食べた。あと、食堂車じゃないけど、1981年、東武特急DRC1720形にはビュッフェがあった。コーラ280円を頼んだら、コーラを満たしたグラスのふちにスライスレモン。DRCのビュッフェには「ジュークボックス」が設置されていた。私は聞かなかったけど、100円で「小さな針式アナログレコード盤」の中から1曲選んで音楽が聴ける。1970年代の喫茶店とかにはよくあったのだけれど、揺れる列車内でどうやって針飛びを防いでいたのか、今思うと不思議です。列車搭載用アナログジュークボックスって、2019年の技術で作れなくはないとは思う。アクティブサスペンションみたいな技術で揺れを打ち消してしまうとか。でも、そもそもアナログ盤で今の曲が手に入るはずもなく、CDなら新譜が聴けるし強力なエラー訂正で少々揺れても大丈夫、って今時CDなんて入れ替えない。HDD?フラッシュメモリ?いやいやもうストレージメディアを乗せるって発想自体が古くて、定額ストリーミングサービスをWimaxで受信して……って、そんな装置、もうお客さんが自分で持ってるじゃん、スマホ。ま、どう考えても、どんな豪華列車でも「列車搭載用アナログジュークボックス」は、あり得ないだろうね、衛星放送4K8Kとかなら登場するかもしれないけれど。

1985年、小田急「初代SE」ロマンスカーSSE3000形江ノ島線特急「えのしま」には、ガラスの器を使った紅茶のシートサービスがありました。これも食堂車とは違うし、当時のSSEといえばリニューアル直後でキレイではあったけれど窓は狭いしシートはリクライニングしない。でも乗り心地は良くて、高速仕様のため床が低い、だからすれ違う通勤電車の窓がはるか高いところに見える。ホットレモンティーをオーダーすると、しばらくしてお姉さんが来て、窓際から細長いテーブルを引き出してセットして紙のコースターを敷き、八分目まで紅茶を注いだグラスを乗せてくれた。レモンを添えて。

ななつ星in九州のマシ77とか、TRAIN SUITE 四季島のE001-6とか、トワイライトエクスプレス瑞風のキシ86とか、多分私の所得では永遠に乗れないだろうけれど、あまり乗りたいとも思いません。理由はわからない。別にへそ曲げている訳ではないです。本当にそう思う。SSEのホットレモンティーの方が今でも「また飲んでみたいな」と思ってしまったりするのです。

※写真は私が13歳の時、厚紙を切り抜いて作ったNゲージの「オシ16」。ビュッフェ車(軽食堂)。1960年代頃、急行「銀河」とかに連結されていました。

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