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一時間だけ死や生や幸福や不幸について考えてみる。

しがなくもTwitterなんぞをやらせていただいておりまして。
そのフォロワーの一人が大変興味深い死生観をお持ちでちょいちょいそれについて言及していたので、僕もなんとなく死やら生というものに少し興味を持って考えてみようと思った。
なので思いつくままにどんじゃば書き連ねてみようという試みだがおそらく死については数行で終わってしまうので、おそらく出生についての所感というのが主な趣旨になるのではないかと思う。
特にしたい主張もなく指の向くままに打ち込んでいくのでとりとめがとりとまないので1時間だけひたすら打ち込むことにする。録音でいいんじゃないか。そうですね。でもこれまたフォロワーが最近note書いてらして大変おもしろいので僕も書こうと思ったんです。ゆるして。

ということで死についてまず簡潔に書く。
だが書くのはつまるところ死について考えるだけ無駄だという話。
死はそのままデッドエンドであり、その先行き着く場所というのは存在しない。天国も地獄も生者の平穏の為にあるもので、死者の為に誂えられたものは何もない。墓も葬儀も公衆衛生の為だし。追悼は精神衛生の為だし。
そもそも熱心な積極的ニヒリズムの体現者たらんとする僕には、始まりも終わりも論じるだけの価値を持たないので「願わくば、のたうち回るように苦しんで死にたくはないな」という甘き死に対する希望があるぐらいだ。

さて。なぜ人は死を想い畏れ忌避するのか。
それはひとえに人間がポリス的動物だからだと考える。
結局「社会」を形成する為には生産的な人口を保ち続けなければならない。
そしてその最たる敵は消極的ニヒリズムだろうと思う。
なぜなら実際、現時点で不幸ならば今すぐに死んだほうが累計プラスである可能性が高いし、現時点で幸福なら不幸になる前にすぐ死んだほうが累計プラスである可能性が高いというのもある意味の真理だからだ。
そのくだらない真理にたどり着いた勇気ある愚か者が旗を振りながら死ねば、無知なレミング共が次々と断崖から飛び降りていくので、生産的な人口が減ってしまい、完璧で幸福な社会を形成する事が危うくなる。
故に社会を維持しようとする者たちは死を忌避し、畏れ、敬うものとして神性視して安易な死の選択を咎め続ける。
ネタがバレればただそれだけの話で、何一つスピリチュアルでもモラリスティックなものでもない現実的な損得の話だ。
そんな薄っぺらいネタをいつまで考察しつづけているのか。
何か閃くよりも先に無駄な知恵熱で脳が沸いて死ぬぞ。

くだらない話で無駄な時間を取ってしまったので少し楽しい事を考えよう。
実はみんなが信じている幸福や不幸というものに実態はなく、唯一この世に確かにあるものは「可能性」だけであるという話。
幸福とはなんだろう、道を教えた大富豪から謝礼として二千万入ったアタッシュケースを貰ったらそれはもちろん幸福だろう。
不幸とはなんだろう、道を聞いた男が極悪人で案内にかこつけて路地裏に誘い出され身ぐるみ剥がされたらもちろん不幸だろう。
残念ながらこういった出来事は多くの場合選択権が当人にあるものではない。それらを運命と名付けて思考停止する愚か者も多く存在する。
だがそれらは「可能性」の通過点であると規定すれば、そこにネガもポジも存在しない創造的展開となる。
不意に手に入れた二千万円から広がる可能性も、不意に失われた財産から広がる可能性も同じだけ価値を持つものだ。
その先に必要なのは、それを活用し自らの望む可能性を創造・実現していく為の鷲の勇気と蛇の知恵だけである。

反出生主義という考えがある。たしかに不幸な生まれの人間は存在する。だがその先の可能性について無視し、他者が論じる事はあまりに高慢である。
当然産まない選択をするというのも当人が一つ選び得る可能性の一つなので非難するのは見当ハズレだが、産むことを選択した人をそれがどんなに愚かしい状況だとしても批難する事は同じく愚かであると考える。
そこにあるのは幸福でも不幸でもなく、可能性である。
何かを選び取る前に立ち消えるとしても。それがまた何かの可能性となる。

そんな感じで一時間超えちゃったので多分ツッコミどころ沢山あるだろうけれどもやめにします。画像は適当にあったものをお借りしました。
おしまい。

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