遊郭都市長崎での成長記録
前回、岩崎弥太郎がどのように丸山遊郭に深入りしていったか記すと予告しました。若い弥太郎について考える入口にしようと考えていたのですが、誤解を生む可能性があることに思い至り、道筋を変えることにしました。ただでさえ悪役にされがちな弥太郎に、長崎での遊郭通いのせいでさらに悪い印象が重なるのではと危惧したのです。
弥太郎の日記は彼自身の成長記録となっています。現代なら、長く書かれた日記から成長の過程が読み取れるのは普通のことでしょうが、明治維新期以前には(私の知る限り)他に類を見ません。同時に、この日記は時代を変えた人物の一人である岩崎弥太郎を知る上で、貴重な(しかも面白い)資料です。問題は、彼の成長とその記録の舞台が長崎という丸山遊郭を中核とする都市だったことです。
再び、誤解を生じないよう急いで注意を喚起しなくてはなりません。問題とは、彼が遊郭に出入りしたことではないのです。当時の男性は、機会と金があれば、そうした場所に近づくのは当然のことでした。弥太郎の遊女屋への(失敗した)最初の訪問が、悪友たちの拉致によるものだったのは、彼がそういう当たり前をしたがらない不思議な人物だったからです。
初心だった弥太郎は、その後遊郭に深入りしていった有様を日記に開けっぴろげに記しました。ところで、当時の男性の多くは、貧富の度合いに応じて、街娼から太夫まで様々な娼婦と関係を持ちましたが、そうした遊びを自己の体験として記録に残す人は滅多にいませんでした。特に武士にその傾向が強く、富裕な町人も同様でした(農民に関しては残された日記そのものが少ない)。
少数ながら、旅日記などに遊女との交わりを記録したのは旅の商人や芸人でした。私が目にした範囲では、この「はるかな昔」でも取り上げた商人の小杉屋元蔵(『近江商人 幕末維新見聞録』)や、芸人の富本繁太夫(『江戸の極楽トンボ』)くらいです。彼らは、武士のようには面子や建前にとらわれなかったと思われます。
弥太郎はというと、身分は農民と武士の間の地下浪人で、最初の長崎行きでは下士である郷士の身分を便宜的に付与されていました。しかし、彼の教養の程度は現代なら大学院修士課程修了程度に相当し、知識階級としての武士の中でも上位に位置しました(長崎滞在中、同宿者に漢文を教えています)。弥太郎が丸山遊郭に深入りしていく過程を明らかにできるのは、彼が高度な漢文や候文を自在に駆使し「正直」に記録したおかげです。
ところで、遊郭での自らの体験をリアルに記した文章は他には極めて例が少ないので、弥太郎の日記から遊郭関連の記述を取り出してまとめると、突出した遊び人の事例のように見えてしまう恐れがあります。やはり弥太郎は若い時代から遊蕩にふけった不道徳な人間だったのか、と思われかねません。実際には、彼は「遊郭都市長崎」を訪れた多くの単身者中のよくある一例に過ぎなかったのですが。
弥太郎が遊郭での個人の経験を何のためらいもなく記したことは、彼が封建的な制約――最下層民である遊女との交際など文章にすべきではない――を越え、来たるべき近代的個人の時代――自らの体験を何であれ日記に書くことができる――の側に立っていたことを示しています。
私が、弥太郎の日記から、丸山遊郭での「成長」を目に見える形で示す部分を抽出しようと考えたのは、こうした弥太郎と彼の日記の時代を超えた独自の性質を明らかにするためでした。ただし、日記を近代人のように書いたからといって、弥太郎が先駆的な近代的個人であったとは言えません。彼は父母への孝養を何より重んじる古くさい人間でもありました。自分の日記がユニークなものであることにも、弥太郎は多分無自覚だったでしょう。
しかし、弥太郎の生涯を注意深く見れば、その思考や行動において、封建制度の枠組みを超えていく要素が見つかります。そうした彼の資質があって初めて、三菱という先駆的な会社組織、近代企業が生み出されたのだと私は考えています。弥太郎の日記は、彼が持っていた脱封建的な「近代性」の有力な証拠となるものであり、きちんと読み込む価値があると考えています。まだ言い尽くせませんが、今回はここまでとします。
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