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風土記の地名物語――常陸国12

 久慈郡くじのこおりの前編(全2回)。始まりは、久慈の地名起源。郡役所の近くの丘の形が鯨に似ていて、倭武天皇やまとたけるのすめらみことが久慈と名づけた、と。次は、地域のトピック。同地にある谷会山たにあいやまは岩壁が黄色味を帯び、その横穴に猿が宿って、壁の土を食べる、と。久慈郡の地誌は、省略したこの両者を含め、内容にも文章にも生彩があり、魅力的です。なお、上の写真はイメージです(茨城県で撮ったものではありません)。

 鬼と鏡と猿

 郡役所の西北六里に河内かうちの里があります。元は古古ここの村と名づけられていました(当地では、猿の鳴き声をココと言います)。その東方の山に石の鏡があります。昔、魑魅おにがいて、その鏡を見て戯れる内、自然に去っていきました。土地の言い伝えでは、威勢のいい鬼も、鏡に向かうや自ずと勢いを失ってしまうのだそうです。

 その地の土の色は青味を帯びた紺色で、絵を描くに用いると美しい。当地ではあをに、あるいはかきにつと言います。時に応じて、朝廷の命令で採取し、奉ります。いわゆる久慈川の源は、猿声ココから発したものです。

 盛夏の川辺で憩う

 郡役所の北二里に山田の里があります。開墾され多くの田が造られたことから名づけられました。その地を流れる清川きよかわは、北方の山に源を発し、郡役所の南側を経て久慈川に合流します。沢山の年魚あゆが取れ、その大きさは腕ほどもあります。

 清川には石門いわとといわれる淵があります。辺りに茂る木々は林をなして頭上を覆うように広がっています。清らかな泉は淵となり、下方へ注ぎ流れていきます。青葉は日射しを自然にさえぎる絹傘のようにひるがえり、川底の白砂は、川波に戯れて揺れる敷物のようです。

 夏月なつの熱い日には、遠い里、近いさとから、暑さを避け、涼を求める人々がやって来ます。互いに膝を並べ、手を携えて、筑波の雅歌みやびうたを歌い、久慈の旨酒うまさけを飲みます。これは人の世の遊びに過ぎないものですが、俗世間の煩わしさをすっかり忘れさせてくれます。

 機織はたおりをする神

 郡役所の東七里、太田の郷に長幡部ながはたべの社があります。古老は次のように語ります。珠売美万命すめみまのみことが天降っていらっしゃった時、お召しものを織るために付き従ってお下りになった綺日女命かむはたひめのみことという名の神が、始めは筑紫国日向ひむか二所ふたがみの峰に降り、次に三野(美濃)の国の引津根ひきつねの丘に移られました。

 その後、崇神すじん天皇の御代に、長幡部の遠い祖先である多弖命たてのみことが、三野を去って久慈に来ると、機殿はたどのを建て、初めて機織りを行いました。そうして織られた布で作った服は、ひとりでに衣装きものになり、改めて断ち縫う必要がないので、これを内幡うつはた(完全な服)と言っています。

 ある人が言うのに、機を織るにあたって、たやすく人に見られてしまうので、機屋はたやの扉を閉め、家の中を暗闇にして織るのだそうです。このことから、烏織うつはたと名づけています。この布は、たとえ強い兵士の持つ鋭い刃でも裁ち切ることができません。今では、毎年、神への捧げ物として特別に献納されています。

 常陸国12 解説
 久慈市から常陸太田市の辺りを中心とする回です。なお、大昔に初めて機織りが行われたとする静織しとりの里の言い伝え(上の機織りの話との関係は不明)と、ごく短い大伴の村の記述を割愛しました。
 私は、炎暑の夏の川辺での憩いを描いた文章を、倭武天皇が泉の清水に手をひたす叙述(常陸国2)と共に、常陸国風土記中もっとも深く愛しています。四六駢儷体しろくべんれいたい美文と、庶民の楽しみの描写が、ここでは例外的に見事に溶け合っています
 その文章の魅力は、悔しいのですが、口語訳では伝えきれません。ぜひみ下し文を参照して下さい(私のブログ「レワニワ書房通信」の #6に、該当箇所の『風土記』角川ソフィア文庫版の中村啓信氏による訓み下しが引用されています)。

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