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弥太郎の書いた「リアルな」日記

 前回岩崎弥太郎の日記は「当時ほかに類を見ない」と書きましたが、そのとき私は当然、自分が別の「黒い白鳥」の出現を恐れるべき立場であることを忘れていました。江戸時代の教養ある人士が、遊郭での放蕩を記録した日記が家族や子孫の手によって秘匿され、どこかに眠っている可能性はないとは言えません。

 前回、「黒い白鳥」の説明をし忘れたので、ご存じの方が多いとは思いますが、この記事の最下部にWikipediaの「コクチョウ」の項の「逸話」を引用しておきます。

 ところで、岩崎弥太郎が自らの遊郭での行状を詳らかに記録したこと自体、確かに驚くべきことではあるのですが、彼の日記の価値はそこに留まるものではありません。自らの心神の状態に目を向けていること、書き手の変化、成長が読み取れることを前回記しました。明治初期以前の日記で、こうしたものを私は他で見たことがありません。

 ドナルド・キーンは『百代はくたいの過客』で、江戸期の多くの日記が単調で平面的であるのに対し、司馬江漢『江漢西遊日記』からは江漢という人物が立体的に浮かび上がると指摘し、前者の日記を絵巻物にたとえています。私はこの記述から、時折山水画や浮世絵の中に見られる、簡素に描かれた時間が止まったかのような人物たちを連想しました。

 江戸時代の旅日記では、時間が経過しても書き手の人格、筆致は常に一定です。登場人物はおしなべて棒立ちしているかのようで、その背景が名所絵葉書のように移り変わって行くのです。結果、退屈せずに読めることは滅多にありません。

 弥太郎の日記はまるで違います。江漢の日記が立体的であるとしたら、弥太郎のそれは立体的であるに留まらず、書き手の全身に血が通い、活き活きと動き回る様子が伝わって来るのです。遊女屋の真っ暗な廊下で便所を探していたら片足を落とし、足袋を汚してしまって、店中の者が驚愕した……こんな文章、当時弥太郎以外の人間に書けたとは私には思えません。

 しかも、日記の中の弥太郎は変化し続けています。長崎の商人やその周辺にうごめく人物たちとの関係にストレスを感じたり、長崎に滞在する清人との間で筆談で話ができることを喜んだものの、やがて交易のために来た清人に学識のある人物は殆どいないと悟って失望したり、土佐から監察に派遣されて来た下横目の動静に疑心暗鬼になったり。

 中でも長崎の弥太郎の変化をありありと示すのは、花街丸山での「成長」です。遊郭での行いは当時でも大っぴらに自慢することではなく、しかもやがて大きな借金をこしらえて公金横領の嫌疑をかけられるわけですから、こうしたポジティヴな表現は似つかわしくないかもしれません。しかし、田舎出の初心うぶそのものの青年が花街丸山で一端の遊び人となっていく経過は、一種の「成長」に違いないでしょう。

 近代以降、「読ませる日記」が登場し、中には出版されてベストセラーになったものもあります。弥太郎の風体や行動、日記の文体はいかにも古めかしく見えますが、弥太郎が書いた日記の内容は、江戸期よりも明治以降の「リアル」な日記にはるかに近いものでした。明治以降の日記に馴染んでいた人々には、そのために却って弥太郎日記の新しさ、特異性が見えなかったのです。新書を書こうとしていた時の私を含めて。

「長崎丸山、誘惑の引力」の回に弥太郎がいかに花街丸山に深入りして行ったかを記す、と予告したのですが、ここまで書かないままです。他にも、予告だけで終わっているテーマがあるかもしれません。脇道に逸れて、どこが本道かわからなくなって来た感があります。とはいえ、書きたいことは尽きず、新しい課題も見つかって……もうしばらく、この調子で進むことになると思います。

 英語にはかつて、無駄な努力を表す言葉として、「黒い白鳥(ブラックスワン)を探すようなものだ」ということわざがあった。それほど黒い白鳥はいないと信じられていたが、1697年に実際にオーストラリアでコクチョウ=「黒い白鳥」が発見され、当時の人々からは驚きをもって迎えられた。この発見によって「常識を疑うこと」、「物事を一変させること」、「自分を絶対視しないこと」の象徴として使われるようになった。またこれを下地にして、「ありえないと思われていたことが突然発生すると、予想されていた場合よりも影響が苛烈になる」というブラック・スワン理論が提唱された。

 トップ画像は歌川広重『名所江戸百景』より、「飛鳥山北の眺望」の一部。 Wikipediaより。Online Collection of Brooklyn Museum

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%82%AF%E3%83%81%E3%83%A7%E3%82%A6


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