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去りゆくものよ

春から夏への変化はゆるやかだ。
夏から秋、秋から冬も同様。けれど冬から春の変化だけはあまりにも大きくて毎年戸惑ってしまう。
三寒四温のこの季節は、冬が溺れているみたい。冬の息ができなくなっていくのをわたしはただ流されて流されて眺め見るだけ。止まった吐息はあぶくになって、そこいらで爛漫と咲く。

すこし前まで春が嫌いだった。春はわたしからいつも何かを奪っていくものだったから。親しいものとの死別や離別、喪失はいつだって春なのだ。これまでずっと。いつも。

死は別れだ、というのは誰でもきっと知っているだろうけれど、別れが死であることも、ねえ、ぜひ知っていて、辛くなる前に、と思ったりする。
別れは誰かとの、何かとの、そしてそれまでの自分との訣別であって、変化を余儀なくされる。喪失は大きく、実感している以上にどこもかしこも穴だらけになっていることを、後々知っていくんだろう。

大切だった人を完全に失ったのだと思った日から、もうすぐ一年が経つ。昨年の今頃は連絡の有無にそわそわして、でも半分諦めていて、その両方を合わせた以上に本能が直観がもう己のちいさな死を悟っていた。
さよならの言葉すらなく、それは終わっていった。平成という時代の色に、それは合っていたように思う。どんなに深く関わったと思っても、思い出せなくなっていった。
諦め、死んでから一年経って今年は、痛むほどの心も残っていないのだ、と笑えてくる。

けれど不思議と、春は、あんなにも嫌っていた春が、嫌ではない。未練がなくなって成仏したのかもしれない。墓もたたない恋心が。さよなら、さよなら。どこかでしあわせでいてね。

過ぎ去っていくものをぼんやり眺めていることの淋しささえ無くしていってわたしは、これから何をしようかとわくわくしてもいる。
舵をきって。歩を進めて。手を伸ばして。どこかへ。どこかへ。どこかへ。

行くんだ。

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