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しじまにて

 うるさいばかりの油蝉の鳴き声があちこちから聞こえてくる。コンクリートで固めた海岸線にはまばらに船が停まっていて、昼近い今の時間に小さな港はすっかり落ち着いていた。
 この町に訪れるのは学生の時以来だった。卒業後留学し、そこの教授についてあちこちの深海を調査していた。同じ学校で同じ海を学んだ学友たちも日本中世界中のあちこち様々な海にいると聞いていた。
 久方ぶりの日本の夏はひどくじっとりとしていた。もう何年も実家にすら帰っていない。風はなく、海は凪いでいる。何度か訪れただけの小さな町を、古い記憶に照らしながら歩いて行く。随分と寂れてしまっていると思うのは、若者の気配がないからだろうか。
 もくもくと天高く育った入道雲が太陽を遮り、町は濃い影に覆われている。抜けるような青い空を見上げると、厚い雲の端から金色の天使のはしごが渡っていた。きれいだ。
 着慣れない服で滲む汗をハンカチで押さえ、複雑さとは無縁の道を行く。
 途中、濃い影に沈み込む町の中でひときわ明るい一角を見つけて近寄ってみると、花屋があった。色とりどりの花が重なって打ち寄せる波のように段々に飾られ、一番上に、まるで花の水平線に沈んでいく太陽のごとくに大輪のひまわりがあった。花に目などないというのに、光を凝縮したような黄色い花弁と目が合った気がした。
「ごめんください」
 声をかけると店の奥からふっくりとした頬の可愛らしい女性が出てきた。寂れがちなこの町にいるには何とも不似合いな都会的な雰囲気のある。
「いらっしゃいませ。……お花、お包みしましょうか?」
「はい。あの奥のひまわりを全部ください」
 女性は控えめな笑みを浮かべていたが、私がひまわりを所望するとあからさまに驚いて戸惑った。それもそうだろうと思いはしたが顔には出さず、色鮮やかなセルリアンブルーの包み紙に金色のリボンをかけて欲しいと申し出る。
 人の背丈ほどもあった大輪の花を短く整え、包んでもらっている間に店の中を見て回った。どの花のものかはわからないけれど、甘ったるい香りが満ち充ちている。町中を包む潮の匂いはこの店の中までは届かないらしい。
「こんなところにお花屋さんがあるだなんて知りませんでした」
「二年ほど前にここにできたんです。夫がこの町の出身で、Iターンっていうんですかね」
「旦那さん、漁師をされていらっしゃるんですか?」
「はい、修行中ですけどね。お義父さんの船で。……この町のご出身の方ですか?」
「学友がそうなんです。大学生の時に何度か遊びに来たっきりで」
「そう、なんですね……」
 美しく包装されたひまわりを受け取り、代金を支払う。手提げ袋を提案されたが断った。どうせすぐに渡してしまう花束だ。
 礼を述べ、夏の町をゆく。顔を出した太陽に熱されたアスファルトの地面から立ち上る熱気が風景を揺らめかせ、まるで濡れたように輝いている。
 逃げ水だ、と気がついて目的地への道すがら追いかける。決して近づくことも触れることもできないそれは非現実的な気配さえあり、このまま知らない場所へと誘ってくれたらいいのになと思った。
 坂道を上っていく。息切れしないのは普段の労働のたまものか、あるいは今、私に心臓が二つあるからか。履き慣れない黒いパンプスでかかとが擦れて痛かった。
 かさかさと固い透明なビニールとセルリアンブルーの包み紙が鳴いた。よく見るとひまわりの太い茎にはトゲとは言い難いが毛というには強すぎるものが生えていて、きれいな花には何とやらなのだなあと思った。
 低い前塀に魚網を乾かしている数軒を通り過ぎた先に青い甍を波のように葺いた屋根の古い家を見つけ、どきどきと強く鼓動する心臓を落ち着けた。
 門前に待ち構えた女性の顔に、懐かしいと思えるほども時間の経っていないひとの面影を見い出してしまってぐっと唇を噛んだ。
「こんにちは」
「あら! 千波穂ちゃん、来てくれたのね」
「ご無沙汰しております、おばさま」
「立派なひまわりね。ありがとう、あの子喜ぶわ。さあ、上がって。是非ゆっくりしていってね」
 玄関にひしめくたくさんの靴。家の中はどこもかしこも見知った顔でざわめいている。招きあげられた主室にそろりと入り込むと、色とりどりの贈り物が山となっていて、私はひまわりをそこに加えた。
「……………………」
 贈り物の山の中心に、太陽のように明るく朗らかに輝く笑みを浮かべた写真が飾られていた。人好きのする懐っこい笑みはいつも通りの彼で、みんながよく知っている彼だ。そばに空っぽの白い壺が置かれていた。
 写真に向かい合って座り、焼香をあげ、手を合わせる。
 嘘みたいだ。もう会えないだなんて。到底信じられないというのに、目の前にあるのが動かしがたい現実であることを痛感する。まわりにひしめく友人たちの礼服が織りなす黒黒黒に黒の波が、今日の集いが葬式であることを証明していた。そうでなければ、本人だけがいない祝宴のような賑やかしさである。
 最後に会ったのはたったの数ヶ月前。年に数度会うだけの私たちは互いの海を行き来して逢瀬を重ね、言葉にできない想いの代わりに肌を重ねた。
 彼の海に招かれ、珊瑚礁を見た。それはそれは美しく生命にあふれ、私の海とも繋がっていることが信じられないほど豊かな魚たちの楽園だった。
 満月が夜の海を明るく照らし、銀色に輝く水面にSUPで漕ぎ出し、海獣たちがまろぶのと同じように水しぶきをあげて遊んだ。
 シュノーケリングで潜った浅瀬の海はセルリアンブルーの透きとおる海水と白い砂地で構成され、そこが彼の楽園だった。極彩色の優美な魚たち、伸び上がるように育つ海藻、水流にたゆたういそぎんちゃく、どこまでも広がる夢のような珊瑚礁。それを愛おしげに見つめる彼の横顔――。
 そこまで思い出し、焼香から細く立ち上る煙の匂いにはっと我に返った。彼の写真に捧げられた色とりどりの贈り物はあの日潜った海のようだ。温かさに満ち、泣きたいような感動がある。
 席を立ち、集まった懐かしい面々と二三話して私は部屋の隅に座った。
「よう、帰国したんだな」
「お葬式とあればね……」
「最後に会ったのは誰かって話してたんだ。おまえじゃないかと」
「かもしれないわ」
「今頃どの辺の海流に游いでいるんだかなあ……言ってた通りになっちまったな。死ぬなら海の食物連鎖の輪に還りたい、だったか。最後まで海の男かよ、あいつ」
「ちっぽけな壺に詰め込まれて墓に安置されるなんて嫌だって言ってたよね。いいなあ」
 海に生き海に死んだ。あっけないほど簡単に、船は沈んでしまったと聞いた。救い出されたひともいるというが、そこに彼の姿はなく、ついに遺体も上がらなかったそうだ。
 しかし、海で死ぬこと、それが彼の本望だとみんな知っている。だからこれほど和やかな空気が充ちているのだ。彼の遺体のないことをどこかで安心しているのかもしれなかった。死した後に誰かの手で望みを叶えられるのではなく、その身まるごとで海に還り、陸地に戻らない。彼らしい、と思うと悲しいけれどくすっと笑えた。
 彼は人の身を脱ぎ去って海となったのだ。水を吸ってやわらかくなった身はついばまれ、やがて魚たちの血肉となって生きる。残った骨は死んだ珊瑚のように白く砕け、いつしか海底の砂になるだろう。誰の手も届かない場所で、彼はきっと太陽のように笑っている。そのうち砕ける波のひとつひとつになって、深い場所にある海流に乗って世界中を旅し、大きすぎる海に同化していることに気がついたときには喜ぶに違いない。その身にあまたの生命を抱きしめて、わあっと声を上げて笑うのだ。
 集まった懐かしい顔もみんな、頬に泣いた跡を残して笑っていた。
 遺体のない葬式はどこまでも嘘っぽく、けれど、彼が二度と誰の目の前にも現れないのだということを痛感させる。
 あちこちで口々に語られる様々な思い出話に花が咲いて、遺されたご家族の方々も笑っていた。こんなに和やかで楽しい葬式は初めてだ。二度とないだろう。
「次はクリオネ見てアザラシと泳ぐんだって言ってたくせに。親不孝者」
 ご厚意のもてなしを受け、学友らはみんな遠慮なく長っ尻で、私もそうした。彼だけがいない同窓会のような空気があった。日が傾く頃になると重い腰を上げ、ひとりふたりとそれぞれの日常へと帰って行く。
 しめやかな通夜が始まるころ、私もおいとまするために立ち上がった。馬鹿みたいに明るい笑みの写真にひと言文句を言って、おばさまを探す。
 言っておかなければならないことが残っていた。
「あら、もう帰るの?」
「はい」
「千波穂ちゃんが調査しているのは北極海だったかしら」
「はい。でも今は北大西洋での調査研究を」
「いいわよね、海は。でも、暫くは見たくないわ……嫌いになってしまいそうで……この町じゃそうも言ってられないけれど」
「おばさま」
「なあに?」
「私、今、心臓が二つあるんです」
「…………それ、って」
 おばさまははっとして言葉を失い、口元を押さえた。様々に押し寄せる気持ちでいっぱいになって、どれひとつ言葉にならないのだろうとわかる。震える腕で私を包み込み、声を上げずに泣くひとを、私のほうが慰めた。
「私、産みます。いつか落ち着いたら、会いにきてください。彼がみたいと言っていた氷の下の海で泳ぎましょう。クリオネやアザラシをお見せしますよ。シャチウォッチングだって」
「冷たすぎるわ。わたし、あの子のいた南の海しか知らないの」
「大丈夫です、最近の装備は凄いので。この子もきっと、海を大好きになると思う……」
 まだその存在のはっきりとわかるほどでないお腹をさすり、瞑目する。
 父親のいない子になってしまうのは少しばかりかわいそうだったが、産まない理由にはならなかった。海に藻屑と飲まれて消えた男はきっと今ごろのんきに世界中をめぐる海流に乗って旅している。
 世界でもっとも大きく豊かで、様々な色や温度や感触を持つ海が父なのだと教えよう。塩からい水に触れればそれが父であり、抱かれたければ泳げばいいのだと。そこに彼はいて、私たちをみてくれている。
「こまめに連絡してちょうだい。産まれたらすぐに会いにいくから……」

 ――あの日のおばさまの顔を思い出しながら、私は海に潜っていた。
 ドライスーツは水温零度の中だというのに、まるでカイロで全身を包んでいるかのような暖かさである。大きくなりつつあるお腹のために暫く水の中に入ることができなくなるだろうと思い、産む前最後のダイビングに興じているのだ。
 重たい酸素ボンベも水の中ならほとんど気にならない。いつの日にか見た濃い雲から放射される天使の梯子が、今は厚い氷のすきまから水中に降る。その光に照らされて、爪の先ほどの大きさの氷の妖精が懸命に泳ぐのを眺めていた。
 日々の仕事のことなど忘れ、ただ泳ぐだけのことを愛していた。ひとなどとてもじゃないけれど生きていけないこの海こそが私の生きる場所だった。暗く冷たく、あまり澄んでいるとはいえない海に沈みながら、彼を想う。
 あなたの游ぐ海流はあまりに大きく目に見えない。生息海域の異なる私のもとに、いつかあなたの方からふれるのかもしれなかった。
 あなたの笑みは氷のひびのすきまから降る銀の光が輝かせる、クリオネの橙色の心臓の鼓動みたいだった。私の大好きな宝物を、あなたが私を珊瑚礁に招いてくれた時のように見せてあげたかった。アザラシたちのこぼれそうな黒いひとみ、シャチのするどい牙、分速16メートルで泳ぐサメの穏やかさを。
 独りで親になる心細さを凍りつかせるように泳いでいると、ぬうっと突然視界に巨大な魚影があらわれた。青暗い海で不気味な緑色に光る目が、私の横をスローモーションに泳いで過ぎ去る。ずんぐりした身体、はっきりしないまだら模様、身体に対して小さなひれ――ニシオンデンザメだ。
 目に付く寄生虫のために視力はほとんどないといわれている。その一個体は何百年と生き、地球上の生き物の中でも群を抜いて長生きする。調査のために一時的に捕獲する以外で、彼らがただ泳いでいる姿をこんなに間近に見るのは初めてだった。
 フィンのひと蹴りでいとも容易く隣に並び、ゆったり泳いでついていく。年に1センチしか成長しないというサメのこの大きさならきっと私の十倍以上の時間、この海に生きてきたことだろう。とんでもなく長い時間だ。永遠にも思えるほど。濁ったまま緑色に光る目が私を見る。酸素がこぼれるせいでごぼごぼと濁る水の音が不快だった。このサメみたいに、無音の海を深海に潜って生きていけたらよかったのに。

 ねえ、ともういない愛しいひとに語りかける。あなたもこんな風に海の底に憧れて、ついにそこに至ってしまったの? 陸上でなければ、この子を育てていけないのに。私もそこに行きたかった。あなたと手を繋いで、呼吸さえままならないまま。
 水を蹴る足を止め、泳ぎ去るニシオンデンザメの姿を見えなくなるまで見送った。春の訪れを知覚できない氷雪の地で私はこの子を産むけれど、初めての夏にはあなたのいた暖かい海に連れて行こうと思う。この子が初めてその肌で泳ぐ海は氷の浮かぶ冷たい私の海ではなく、珊瑚礁のあるあなたの海がいい。
 生きていたらきっと、太陽みたいに明るい笑みで喜んでくれただろう。
 あなたは不器用な手つきでこの子を抱いて、もしかして泣いたかも。寂しくなんてない、大丈夫、と自身に言い聞かせ、名残を惜しんで私は水面にあがった。
 途端に重力に縛られる身体で船に這い上がり、ゴーグルなど顔周りに装着していた機材を捨て置いた。四季などないに等しい灰色の空を見上げていると、こぼれた涙で頬が凍りついた。
 うるさいばかりの蝉の鳴き声、熱気を立ち上らせるアスファルトの道路、遠くにきらめく逃げ水、坂道を上がった先の古い家。この世はもうあなたのいない場所しかない。
 私は取り残されてしまった。海底のしじまに身を投げ出していっそ眠ってしまいたかった。酷いひと。あなたばかりずるいじゃない。
 凍りついた風の吹く鈍色世界のただ中で、過ぎ去った夏を幻視して、私は凍らせることのできなかった寂しさに泣いた。

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