見出し画像

何気ない日常の立ち位置

「当たり前の事を当たり前と思うな」

私の苦手な言葉である。

もちろん、その言葉の本意は、わかっているつもりだし、
そして、その通りだと思っている。

では、なぜその言葉が苦手かというと、

「当たり前」という言葉に、幾度となく振り回されてきたからだ。

「○○できて当たり前」
「優しくするのが当たり前」
「助け合うのが当たり前」

まるでロデオゲームみたいに、幾度となく振り回され、地面に振り落とされては、また乗って、それでも全然前には進まない。

いったい何のために乗り続けるのか。
振り落とされる私が、悪いのか。
それとも、振り落とそうとする暴れ馬が悪いのか。


出来るものなら、私は暴れ馬には乗りたくないし、振り落とされたくもないと何度思っただろうか。

それでも私は、傷だらけになりながらも知っているだ。

「当たり前が、本当は当たり前ではないこと」
「だから、当たり前の事に感謝すべきであること」を。

知ってるからこそ、何も知らない人に言われたくないのだ。
知ってるからこそ、人知れず悩んできたのだ。
「当たり前」の言葉の呪縛に、悩んだことがある人なら、わかってくれるかもしれない。

だから、私は「当たり前」という言葉は、なるべく使わないようにしている。

誰かを傷つけるのが嫌だから。

そして、最後に方向転換して。

もし、私にとっての「当たり前」がそうではない人がいて、その人にとって、それが望んでいるものだとしたら、余計なお世話で、単なる私の自己満足の為だとしても、例え「当たり前」には、ほど遠くても、叶えてあげられたらいいなぁと思うのだ。

例えば、私の好きなマックに、行ったことがなくて、行ってみたいと思っている人がいたら、連れていってあげたいと思うことである。

でも、やっぱりそれは、私の「当たり前」を押し付けてしまう事になってしまうのだろうか。

「当たり前」って、本当は特別な事で、本当は難しいものなのかもしれない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?