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働かないアリに意義があるを読んで思うこと

働かないアリに意義がある
長谷川英祐(著)

毎年ほぼ日手帳を使っています。1ページ毎に糸井さんや誰かさんの一言がのせてあります。最近余裕なく見れていなかったのですが、久しぶりに見た9月21日のページに書いてある内容が印象的でした。

働かないアリというのは、いざという時のピンチヒッターみたいなもの。誰もその仕事をやれなくなった時に、ヘルプに入ることができる。疲れていたらヘルプに入れないので疲れていないのを用意しておく必要があった、というのが僕らの結論です。

パレートの法則といわれる働かないアリの法則は、しょうがないよね、そういものだよね、というちょっとした笑いや諦めに使われがちですが、実はそうじゃないんだということが書かれていました。

冷静に考えれば、自然界の動物たちが8割もムダなことしているわけないなぁと思ったので、筆者の本を読むことにしました。

公園で休む営業社員的なアリ

どういう本か

アリやハチなどの社会性昆虫に関する最新の研究結果を人間社会に例えながら、わかりやすく伝えようとする意欲作です(本の表紙より)。生物の特徴から人間社会を考えるということですが、結構似ていて驚きます。そこから個と群れの考えや進化についての考察が書かれています。人を細胞レベルで見たり、人1人を群れと考えてみたりとアリやハチ以外からも意外な見方で人間社会を考えることができて面白いです。

人間の社会を人の歴史からでしか学べないと思っていましたが、生物を学ぶことからも今の社会を考えることができるんだということに気付けます。

そんな面白さと気づきの元となるサボっているアリを調べる研究は血尿が出るくらい辛く厳しいものだそうです。そんな働き者しか出来そうもない最新の研究により書かれています。それでもわからないことはまだまだあるそうです。

著者の思い

本書を通じて真社会性生物の世界を、初心者の方にもわかりやすく紹介するのが目的です。多くの生き物好きが魅せられる真社会生物。その一端をご紹介することで、読者の皆さんの社会生活を豊かにすることに少しでも貢献できれば幸いです。

基礎科学は、すぐに役に立たないという意味で働かない働きアリと同じです。しかし、人間が動物と異なる点は無駄に意味を見出し、それを楽しめるところにあるのではないでしょうか。科学は役に立つから重要なのです。しかし絶対に、役に立つことだけをやればOKというわけではありません。

変わる世界、終わらない世界がどのようなものになっているかは誰にもわかりません。しかし願わくはいつまでも無駄を愛し続けてほしい。ちっぽけなムシが示しているように短絡的な効率のみ追求するような世界は長続きしないかもしれませんし、なにより無味乾燥で、生きる意味に乏しいと思います。

社会が息切れしそうになったとき、働かない働きアリである私や、他の生物の研究者たちの地道な基礎研究が、「人間」が生き続ける力になればいいなぁ。確かなことはわからないけど。

読んでのまとめスケッチ

アリと人間(ヒト+無駄)との対比を考えてみました。

読んでふと思ったこと

ムシの研究により、ムシのムダだと思われていたことはムラから発生していることであり、ムシの社会を存続するためにそのムラは必要なことであり、ムラによりムリが無くなり、ムシはムシとしてアリ続けている、ということが分かりました。

「ム」が多くてわかりづらいですが、ムシが絶滅していない(ムリしていない)ということは、ムラがムリしないために必要だといことでは?と思いました。
そうすると、ムリを減らすにはムダとムラを増やす必要があるのでは?と思うに至ります。

最近あまり聞かなくなった気もしますが、ムリムダムラを無くし、生産性をあげよう!といったことを聞いたことがあるかと思います。

ムリ:能力以上に負荷がかかっている
ムダ:能力に対して負荷が下回っている状態
ムラ:ムリとムラが混在して不安定な状態

本来はこういうことだそうです。

今回のアリのムラは反応閾値なので若干違っていますが、ムリムダムラをなくすという発想で生きてきて、いかに生産性を上げるか考えている自分にとって、その根底を変えるちょっと驚く考えです。というのも、ムラが必要なのは百歩譲ってなんとなくわかるけど、ムダはいらないのではないかとも思ったりするからかと思います。

本を読んでいくと、ハチも受粉目的にビニールハウスなどの蜜が常に近場で取れる環境では働きすぎて過労死して、生まれるハチより死ぬハチが多くコロニーが壊滅することが起きるようです。そのため、ムラがあっても業務がありすぎると対応しきれないそうです。

ムラがあるムシも不自然に多くの仕事量があると、コロニーの能力以上に負荷ががかかり、コロニーが壊滅してしまうそうです。ムラがあるムシでも不自然で過剰な環境だとムリしてしまうということがおきます。そういえばムシも疲れるそうです。動物なので当然と言えば当然ですが、あまりそんなこと考えたことなかったです。

なので、餌が近場にありすぎるといった「予測不可能性」が過多になったときにムリを防ぐには何が必要かというと、ここでムダの出番になるかと思います。動物の世界にムダはないのですが(突然変異とかがもしかしたらムダに当たるのかもしれませんが)、人の世界にはいろいろとムダがあります。今回ではムダとは、今この瞬間は必要ではないことと考えると良さそうです。いつかどこかのタイミングで必要なことになりうることなことと言い換えても良いかもしれないです。本書では狂牛病の時に役立ったブリオンの研究があげられていました。

整理してみると

ムリ:(アリ)業務量過多 → (ヒト)業務量過多
ムダ
:(アリ)なし → (ヒト)今必要ないことをやる
ムラ
:(アリ)反応閾値の差 → (ヒト)個人の能力差

と考えるとよいかと思います。

アリの世界は反応する閾値の差とその処理能力さであり、その差により気づいた個体から働き出し、アクシデントや疲れた時にその気づくのがちょっと遅い個体が動き出して働き出すことを繰り返しています。ヒトで言うところの個性かと思います。

抽象化しすぎてわからなってきましたが、個人の能力さを発揮できる環境にして、本筋とは異なることを取り込むことで、業務量過多に対抗しうる可能性がある思考方法といえそうです。木こりのジレンマで例えられるように、今必要ないことをやることはめちゃくちゃ難しいですが、そういうことを頭の片隅に入れながら、平均的に個人を働かせるのではなく、個人の能力に合わせた業務を行うことで力を100%出せる環境を整えることができれば、ムリが少し減ってくるかもしれません。

ムラを最大限活かすことでムリを減らし、ムダを少しづつ増やして未来のムリに対応する、といった順番がよさそうだなぁと本書から外れて思考してました。端的にいうと余力が必要ということですね。


本書の内容からだいぶずれてしまったので、話を戻します。印象的だった話題を何項目かあげて終わろうと思います。

【同一遺伝子の世界】

社会性生物のアリでは、生殖で遺伝子がオスメスとでまじ合わなかったり、全く同じ遺伝子が続く主もいるらしく、人間社会で空想するような社会がすでに存在しているそうです。

自分の分身が欲しいと思うことが仕事の場面で多々ありますが、同じ個体だとさきほどの反応閾値が同じでかぶってしまうため、うまくいかないのではということもあるそうで、問題につまづくことも同じ箇所で起きてしまうのであまり良くないんだなとおもいました。個体が同じだとウイルスなどで壊滅する可能性があるのも問題としてあるそうです。

【フリーライダーの登場】

働かないアリも基本は働きたいと思っていて、サボっているわけではないという素晴らしい社会みたいですが、コロニー単体ではなくちょっと視野を広げるとアリの社会にもそのコロニーに入り込む裏切り者もいて、出し抜きや殺害、戦争も起こるそうです。

アリの世界では、自分の子供しか育てないものから、殺した巣のアリの頭を被って巣に入ってきたする殺人鬼的なものや、女王アリを殺してその中に入って臭いをつけて女王になりすます猟奇的なものまでいるそうで、防ぎようがないことがあります。ただ、そういった巣はチーター(そういうズルするアリ)により潰れてしまうので、一時的にはよさそうですが、結果その巣が壊滅するので、チーターともども死んでしまうそうです。

人間だと罰則を与えるなどの社会的なルールによって制限させるなどである程度その社会が壊滅することを防げてそうですが、実は目に見えないところで徐々に衰退していっているのかもなぁと感じました。後はゲーム理論で長期的なスパンで考えるという対応もありそうですが、今この瞬間での思考ではないので効果は薄そうです。

【群れと個人の境界】

生殖能力がなくても群れのために働く蟻がいて、家のために命を捨てる武士みたいな人間と同じような活動をしていたりするので、家族、会社などの組織単位でなんとなく似ていて想像できることもあります。

本書に書かれていますが、群れをどう考えるかはどの単位で見るかによって違ってきて、普通我々は自分を個人と考えていますが、細胞レベルで見ると複数の個別の細胞が集まっている群れとして個人を考えられるのではないかと書かれています。自分とはどこまでかと厳密に考えると結構難しそうです。ちなみに握手をすると素粒子が相手と交換されているそうなので、原子レベルでの境界はさらに曖昧みたいです。

例えば、ピラミッドと呼んでいるけれど、ピラミッドを構成するのは大きな石でそれ自体はピラミッドではないため、ピラミッドという概念があるだけでピラミッドは存在しないという考え方があると最近知りました。個人と細胞の関係はそんな感じなのかもしれません。

どこまでを個人と考えるか群れと考えるかで、社会に対する考え方が変わりそうです。ピラミッドからエジプト、アフリカ、南半球と括りを広げていくように、群れとして捉える範囲を広げて、社会全体として捉えられれば、全体を群れとして存続し続けられるかもしれません。

「変わる世界、終わらない世界」

完全な個体としての自分も癌細胞によりうまく機能しなくなることもあるので、どれだけ完全な個としての群れを作れても、結局は何かしらどこかで終わりが来るものかもしれません。この世はマクロで見てもミクロで見ても、人の歴史から見ても他の生物から見ても、栄枯衰退、諸行無常なのかもしれません。自然選択がされながらも繰り返されているだけなのかもと漠然と思えてしまいました。そう考えると全てがムダのように思えてきます。

人間が動物と異なる点は無駄に意味を見出し、それを楽しめるところにあるのではないでしょうか。お話ししてきたように、生物は基本的に無駄をなくし、機能的になるように自然選択を受けていますから、無駄を愛することこそがヒトという生物を人間たらしめているといえるのではないでしょうか。

本書p187より

最後の章を読み、無駄を愛せるのが人間であるということなので、全ての無駄を含めて愛して生きていけるといいなぁと思えました。


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