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人のために生きすぎて死ぬな

Facebookには「過去のこの日」
という機能がある。

なつかしい思い出とともに
振り返ることができてとても素敵な
機能だと思うけれど、Rちゃんと
一緒にいた投稿がでてくるたびに、
胸がきゅーっと苦しくなり、いつも
ちょっと涙が出る。

Rちゃんは、2017年の秋亡くなった。

華やかな見た目からは想像できない
ような、凛としたところがあって、
利他の気持ちに溢れていて、
家族への愛があった。

自分がいい!と思った人、ことを、
他の人がなんと言おうと、
何がなんでも守るという強さが
憧れだった。

自分ブランドの安全安心な
お菓子をプロデュースしたり、
身体に良い食事を提案する仕事をしていたり
幸せに生きるための哲学をわかりやすい
絵本にして出版したり、ライフワークとして、
人の「はじめの一歩」を踏み出すための
支援をしたり、とマルチな才能を生かして、
人のためだけに生きた人だった。

自分の身体の異変を無視し、さすがにおかしい、
と思ったのにそこから半年、病院に行くこと
よりも人のためを優先した。

やっと病院にいった時にはもう、
かなり深刻なものになっていた。

元気な姿で絶対に戻ってくると
強く心に決めた彼女は、ごく一部の
人にしか病状を告げなかったので、
多くの人にとって、彼女の死は
突然のことだった。

私も、全く知らされていなかった。

私は悲しい反面、お葬式のとき、
彼女に強い怒りを感じてしまった。

人のために生きて一番大切な
自分をないがしろにするなんて、
おかしいよ!バカだよ!
なにやってんのよ!とか。

ものすごーーく忙しいのに
「千恵さんの誘いは断らない!」
と、急な観劇のお誘いなどに一緒に
付き合ってくれたりしたけど、
ホントは無理してたんじゃないか、
がまんして無理に合わせてたんじゃ
ないのかな…とか。

仲良しだと思ってたのは私だけ
だったのかな?なんで
言ってくれなかったんだろう、
とか。

様々な思いが去来した。

しばらくの間、私は怒っていた。

彼女の話をする会を仲間たちと
開催した際、みんな一切彼女の悲しい話に
触れず、大笑いしていた。

私ももちろん楽しかったのだけど、
なんでRちゃんをしのぶ会なのに
みんな大笑いしているの?

と、なんだか悲しくなり、
みんなの前で泣いた。

Rちゃんの生きていた意味って、
何だったの?

なんで、さすがにおかしい、と
思ったのに半年も放っておいたの?

無理して無理して、死んじゃったら
意味がないでしょう?

仲間に言われた。
「ちえちゃん、Rちゃんは、
その半年間で、人を幸せにするために
精一杯のことをしていたんだよ」

一緒にお葬式に出た経営者の先輩は
「Rちゃんみたいに頑張りすぎて
身体をこわす人がもう出ないように、
ごきげんなまま、がんばりすぎないまま、
会社も経営できる秘訣を広める活動をしたい」
といって、定期的にがんばる女性を集めた
会を開催することにした。

私は、めいっぱいつめこみすぎて
身動きがとれなくなる人を
減らしたいと、余白を増やすための
工夫をより多く発信するようになった。

いままでは自分が死んだら自分の
会社は終わり、でもいいと
思っていたけど、今は、自分が
死んでも残り続けるミッションが、
指針になるような会社にしたいと
考えはじめた。

確かに、Rちゃんはわたしたちの中に
生きている。半年を、ただただ、
無駄にしたわけではなかった。

でも、やっぱり悲しいよ。
それでも、生きていてほしかった。

シャンパーニュが好きだったRちゃんと
もっと飲みたかった。

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