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天然である人は幸いである。

昨年の夏、麹町にある大きなカトリック教会の施設でマーチフォーライフについて講義をさせてもらう機会があった。参加者はおもに外国の方が中心になるということで、慣れない英語でのプレゼンテーションを試みることになった。当然プロライフに関心のある人たちが相手だから拙い英語でも好意的に理解してもらえるだろうと居直ることができたのだが、どうにか最後までひととおり話をした後でちょっとしたハプニングがあった。

講義が終わろうとする頃に途中から入室され、射抜くような目でこちらを睨み続ける小柄な日本人男性がいた。なにやら”殺気”のような胸騒ぎを感じた。自分の話が終わったあとで司会者が質疑応答を呼びかけると、真っ先にその人が手を挙げ、おもむろに立ち上がるや挑みかかるような姿勢でこちらに畳み掛けてこられた。英語で話されはじめたのと、内容があまりに意表をつくものだったので、最初はちょっと何を言っているのかわからなかった。

妊娠した自分の子どもがダウン症かもしれないと医師から告げられて中絶しようかどうしようか悩んだ経験があるか。なんとか伝わったその方の質問の主旨がそれだったのである。自分には子どもは4人いるが、妻の妊娠中にダウン症の可能性を医師から指摘されたことは一度もなかったので、素直に「ありません」と答えることにした。すると、60歳近いご年齢だった思われるが、男性は険しい目つきのままさらにこう話をつづけられた。

30年ほど前に奥さまが妊娠をされ、最初の診断でお腹の子どもにダウン症が出る可能性があると告げられた。二度目の診断でもダウン症の可能性は消えなかった。夫婦は大いに悩み苦しんだ。そして、最後の診断の日を前に、けっきょくそれは受けないで出産すると奥さまは決意した。無事に産まれたお子さんにダウン症はなく健常だった。

ん?ちょっと何が言いたいのかわからない。自分はラッキーだったってこと? どうもそんな話ではない。子どもが産まれるまでどれだけ苦しい思いをしたかわかるか、と迫ってこられるのである。この方はカトリック信者である。自分の乏しい英語力のせいで何か聞き間違えをしているのではないかと最初は耳を疑った。終始恐い顔で話をされてはいたものの、無事に子どもが産まれたことを神様に感謝するとともに、一瞬でも中絶しようかどうしようかそんなことで悩んでしまった自分を痛悔しましたというような話なのではないかと自問してみたが、ぜんぜん見当違いのようだった。

オマエにオレの苦しみがわかるわけないだろう。自分の子どもがダウン症かもしれないと考えることがどれほどの重荷かわからないだろう。オレと同じ苦しみを経験をしたこともないくせに軽々しく「中絶やめよう」などと口にするんじゃないと叱責を受けたのだ。それだけ言い放つと、いっそう憎しみのこもった眼差しを投げつけて、さっさと退室してしまった。

繰り返すが、この方はカトリック信者である。実は、この方のような自己中心的経験論者が日本の教会ではかなり幅を利かせているようである。神父が信者の結婚や家庭の問題に踏み込もうとすると、あなたは独身で子どももいないくせに何がわかる、余計な口出しはするなと神父を追いつめるような輩がいるらしいが、それはこういう人なのだと合点がいった。中絶や避妊の問題が日本の教会ではほとんどタブーとなっている原因のひとつが、こういう困った自己中心的経験論者の存在があると腑に落ちた。あの目で「オレと同じ経験をしたこともないくせに」と睨まれたら、純粋な神父さんたちは萎縮するしかないだろう。

2月23日のイベントを主宰してくれたのはHIRAYAのシンコさんである。シンコさん夫妻とは独身時代からの友人である。お二人には小学生の息子さんと、こんど小学校に上がる娘さんがいる。その娘のはるちゃんはダウン症である。はるちゃんが健常ではないことは奥さんの妊娠中からわかっていた。

「産まれてくる子はダウンからもしれないんですよねー」 シンコさんはいつものように気さくに話をしてくれた。「へー」 こちらの反応も案外そっけなかったと思う。ちょうどプロライフの活動を始めた頃だったので、産まれる前にダウン症とされた子どもの多くがどうなっているのか重々承知していたはずだが、そのときのシンコさんの言葉をとくに重く受けとめることはなかった。シンコさんが、「そんなこと」しないのはわかっていたからである。

次にシンコさんに会った時も、いつものようにひょうひょうと話をしてくれた。「産まれたらすぐ手術をしなければならないので準備がいろいろたいへんなんですよねー」「そうなんだねー。お祈りしてます」こちらの反応もまたそっけなかったかもしれない。「そんなこと」考えもしないことはわかっていたが、夫妻が前向きにお産に向かっていることがわかって少しホッとした。

お産が終わった時も、すぐ連絡をもらった。「やっぱりダウンでしたー」。その事実を話してくれるシンコさんの様子はもちろんいつものとおりのシンコさんだった。「おめでとう!」 手術のことはよくわからないが、そのとき彼とは喜びを分かち合う以外なかった。その後、はるちゃんは何度も手術を受けた。そのたびにたいへんなご苦労ご心配があっただろうに、シンコさんはちっともたいへんそうじゃない。手術前と手術後の様子をたんたんと話してくれる。もちろん、はるちゃんは今とっても元気である。ダウン症の子どもに接したことのある人なら皆そう言うが、天使そのものだ! 

シンコさんは、どんなときでも、いつも肩の力が抜けて、どこか楽しそうに、「今を生きて」いる。この姿は、多くのカトリック信者に見習ってもらいたいと思う。神の御旨のままに生きるとは、こういうことではないかとつくづく思う。あとから尋ねてみたら、奥さんも「そんなこと」思いもしなかったと笑った。夫婦の一致があることもカトリック信者に見習ってもらいたいものである。

「そんなこと」しないよね。するわけないよね。しないことわかっているからね。「十戒」は、本来のヘブライ語では、こういうニュアンスの訳になると聞いたことがある。神の掟とされるものであるが、決して「汝殺すなかれ」といった強い禁止命令ではないのである。神がこわいから仕方なく守らなければならないというのではなく、神は自分の似姿として人をそのようにつくっているのだ。「そんなこと」はしないように、わたしたちはつくられているのだ。うまれながらに神に対する信頼があるから、自分の頭で考えるまでもなく、殺すわけないのだ。中絶なんかするわけないのだ。

シンコさんには、ご夫婦ともども「天然」という言葉がよく似合う。いまどき天然というと、周りの空気を読めない奔放な人を指す場合などに使われることが多く、たしかにお二人にも天然キャラなところはある。しかし、天然キャラの真骨頂を世間は知らない。

天然と自然は似て非なるものである。「てんがしからしむ」のと「おのずとしからしむ」のでは、それこそ天と地のちがいがある。自然ということばに、すべてを超越する神を見出すことは難しい。十戒は自然にできたものではなく、神によってつくられた、まさしく天然ものである。天然のものとして人にインプリントされているのである。「そんなこと」しないよねという天の神の期待に然りとこたえることが「天然」なのだ。十戒は、聖書で読んだことがなくても、われわれは天然であるなら本来それを知っているはずなのだ。中絶の二文字が頭をよぎりながら五戒(汝殺すなかれ)をおかすことはできないと悩み苦しむ近代的自我の葛藤パターンに陥るよりも、たんに「そんなこと」考えもしない天然キャラのほうが、十戒をほんとうに知る人の態度に相応しい。信者ではないが、てんがしからしむとおりに天然に生きているシンコさんは、多くの信者よりよほどカトリック的である。

中絶なんかしないよね。おなかの赤ちゃん殺さないよね。そんなことしないよね。するわけないものね。天然の屈託の無い声で、十戒が心の奥底に刻み込まれているはずの一人ひとりに、そう語りかける。それが、マーチフォーライフなのである。


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