1948年7月13日をめぐる狂想曲

note for life (2)

南山大学の教授職等をつとめ、日本に倫理神学の礎を築いたアントニー・ジンマーマン神父が、宣教師として来日したのが1948年1月のことだった。

その年の7月13日、優生保護法が成立する。世界を唖然とさせた、人工妊娠中絶を認めた法律である。 この法律の施行によって「団塊」のベビーブームは終わる。

「麻痺し、萎縮し、極貧に陥った日本に600万の兵隊と引き揚げ者が海外から帰国してきて、食糧配給の列に加わりました。そして、再会した夫婦が戦後のベビーブームをもたらしたのは当然の成りゆきでした。人口は1945年の7,200万から1948年は8,000万に膨張し、人口学の専門家群が一夜の中に出現し、声を合わせて、人口調節運動の必要を説いたのです」と記すジンマーマン神父は、優生保護法成立前後の当時の日本の混乱状況をもっとも冷静にウォッチできた人物である。その頃の多くの資料が失われている中で、神学者として高い評価を得た外国人宣教師の証言は貴重である。

日本の戦後の人口問題についてジンマーマン神父がのこした論考を追ってみる。

「1948年、日本は人口過剰と産児制限の話で持ちきりでした。ダグラス・マッカーサー元帥が率いる連合軍の司令部は、そのような日本の状態を見極めるために、強力なアメリカ人専門家のチームを動員しました。(…)その中の何人かは公然と日本の経済・社会的生存のためには、産児制限が必要であると主張したものです」とジンマーマン神父も述べているとおり、GHQの政策として優生保護法の導入が図られたとする見方は少なくない。中絶の合法化は、敗戦国日本のさらなる弱体化を意図した戦勝国アメリカによって押し付けられた占領政策であると。 

しかしながら占領政策憂国論は的外れだったようである。ジンマーマン神父によれば、マッカーサー元帥は公的には彼らの勧告を採用せず、公開書簡で、彼らの考えが「個人的なものであり、占領軍の権威ある意見とか見解に基づくものではない」と発表したというのだ。

この指摘は極めて重要である。日本の戦後とわたしたちの今日を決定づけた「1948年7月13日」をもたらした力学は、アメリカの意思とは無関係に突き進んだのだ。人口削減の手段として中絶を導入するなどという悪魔的な発想は「鬼畜米英」だって思いもしなかった。世界に先がけて中絶法を成立させ、その後各国の中絶合法化の流れに影響を及ぼした責任は、すべて日本にある。とりわけマスコミの責任は大きいだろう。 

しかし、アメリカ人の専門家による報道へのリークは、全国の報道関係者にもてはやされ、結局、アメリカが日本に産児制限政策を採用することを迫っている、ということに、なってしまいました。日本の諸悪は人口過剰によるもので、解決策として急進的な産児制限を主張することが政治的に正しいと、多くの人が考えるようになりました。 

ジンマーマン神父が描く報道関係者の暴走は、とても60年以上も昔の話とは思えない。メディアが事実を歪曲し人々を煽りたてる状況は、当時も今日と何ら変わるところはなかったということだ。なかでも毎日新聞が「総力を挙げて日本の赤ちゃん攻撃の先頭に立ち」、戦時中の「生めよ、増やせよ」政策の逆を行くキャンペーンを張ったのだという。

「急進的な産児制限」とはすなわち中絶のことである。それが「政治的に正しい」=ポリティカルコレクトネス(PC)であるという世論をマスコミがでっちあげてしまうのだ。なんと恐ろしい。いや、いまだにその恐怖の延長線上にわたしたちの今日があるという事実がさらに恐ろしくて哀しい。

新聞、ラジオによる赤ちゃんを攻撃するキャンペーンは目覚ましい成果をあげる。「増やすな、産むな」が、国民を総動員する新しい合言葉となり、世紀の立法へと突き進む。 

1948年、専門家とマスコミが作り上げた紋切り型の見解は、日本は8,000万人以上の人口を養うことができない、それ以上人口が増えると、1)永久に合衆国の食糧援助に頼る、2)永久に人間以下の生活水準に甘んじる、3)生活空間を求めて再び戦争に走る、という三つの選択肢しかない、というものでした。 

この外国人宣教師の明快な分析に誰か反論できるだろうか。これが本当なら、国の弱体化ひいては破滅に向かう道を日本は自ら選び取ったのかと呆れるしかない。こんなデマが新聞社説等で大まじめに吹聴された当時の世相は戦時中より悲惨ではないか。それまでの交戦国に対する敵意が、今度は自国の赤ちゃんとお母さんに向けられる。

予防的見地(?)に基づく「ジェノサイド」を正当化する屁理屈が用意され、それをマスコミが金科玉条のごとくに祭り上げる。日本の日本による日本のためのジェノサイドである。狂気の沙汰と言うほかない。自虐史観という言葉があるが、まさに自虐を実践してしまったのが戦後の日本なのだ。 

ジンマーマン神父の述懐において、日本が集団ヒステリー状態に陥った当時の様子を生々しく伝える描写がつづく。  

人口減を提唱するプロパガンダは、ちょうど日本上空を吹き荒れる台風のように、手が付けられなくなっていました。北海道北端の稚内から、九州南端の鹿児島に至る日本の隅から隅まで、産児制限の方法が教えられるようになりました。劇場ではそのやり方を教える映画が上映され、PTAでもその件で話し合いがなされ、新聞も毎日、関連記事を書き立てるという時代でした。 

小さないのちを守る会の辻岡健象代表によれば、当時は小学生でも「産児制限」という言葉は知っているのが当たり前の世の中だったという。それ無しには日本に未来は無いと小さな頭にも刷り込まれるほど「プロパガンダ」は徹底していたのだ。 

1948年7月13日に優生保護法は成立するが、その後のさらなる混乱状況について、ジンマーマン神父は次のようにリアルに記す。悪夢が現実になった。 

約8,000人の産婦人科医が、人工妊娠中絶手術を施す資格を得るために、所定の課程を終了しましたが、これは正に打ち出の小槌でした。助産婦は赤ちゃん減少の影響をもろに受け、時には縄張まで定めて、コンドームを売って収入を補ったものです。 

産ませることが仕事の助産師が産ませないために奔走するとは世も末である。法律の施行と同時にジェノサイド計画は進行する。中絶件数は数年のうちに10倍になり、年間100万を超えるようになる。大量殺戮をもたらした不幸な戦争が終わった後で。平和になったはずの世の中で。 

子供を少なく産むことこそ社会に対する義務であると、母親たちが考えるほどでした。「政府の指示に従わないで、恥知らずにも次から次に子供を産む」人並みでない女性は、すぐに悪口を言われました。住まいも、一律に二子家庭がやっと入れるように小さく作られるようになりました。隣に三人目の赤ちゃんの泣き声が聞こえようものなら、隣人たちはお祝いの喜びではなく、敵意をむき出しにしたものです。 

三人目の赤ちゃんが敵視されるのは必然だった。最初に成立した優生保護法は、まさしく「三人目」を標的にしたからである。(つづく) 

★アントニー・ジンマーマン神父の引用はその論考「過熱した日本の人口調節」より。Originally an article in Social Justice Review 126, July/August 1994. Translated with permission from the same Institute and the author by Fr. John A. Nariai, Humanae Vitae Research Institute, Japan

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ikedam

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