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ヤンキーと優しさ

わたしはヤンキー。
産んでくれたことや十分すぎるほどに恵まれていることには感謝しているものの、たまに心の中では中指をたてる。そんな風に、冷めた心と生きている。

そもそも生命の誕生って、他者のエゴから始まっていると思えてならない。ほら、ミスチルも恋なんていわばエゴとエゴのシーソーゲームって言ってるし。生命の誕生の元をたどれば恋ですし。

望まれてうまれてきた、といえば聞こえはいいが裏を返せば、望まずとも産み落とされた、ということだと、ヤンキーの心はすさんでいる上にひねくれてるからそう思っちゃう。
生命誕生秘話のハッピーエンドの裏にある、産み落とされる側の選択のNASAがわたしをヤンキーにする。いやもちろん、産んでくれたことに感謝してますし、出産は素晴らしいことで、人類の繁栄に貢献しまくってるのはわかってる。子は宝で、子供は好き。少子高齢化は社会問題!

ここからはもちろん個人的な経験と主観なので、誰かを否定しているわけではない。

産み落とされてから未成年の間は、保護者の義務を果たすために当たり前に世話をやかれ、自我が芽生えたら強弱の差はあれど未成年の名のもとに抑制され、節目節目で将来という未知数100%の未来について考えさせられ、選択を迫られる。思春期、反抗期、あって当然。わたしも必死に抗った。

そして、あっという間に大人になる。
義務は果たしたから好きに生きなさい。時間には逆らえないから、親は先に死ぬの。1人で立派に自分の責任で生きるのよ
といわんばかりに社会に放流される。

わたしは不自由な毎日に抗ってたのに、時限制でもたらされた自由に違和感が拭えなかった。

わたしのペースはどこにある?
そんな気持ちでいっぱいだった。
中学生時代から過保護という名の不自由に抗い、家出を目論み続けた10代を経て、唐突にもたらされた自由にとまどいながらもマイペースで生きたいと強く思った日々が、おそらくわたしの原体験。

心配だと過保護になると、今ならわかる。責任感が強ければ強いほど、過保護に拍車がかかる。子は子で必死だし、親は親で必死なのだ。立場や役割が違えば、みんな正しくて、悪者は1人もいない。でも、わかりあえもしない。
人間関係って、こういうことがよくあるよね。そんなとき、わたしの心はヤンキーになるし、もはや議論も時間の無駄、という気持ちになる。だから戦争は起こるのだよ、なんて、ワールドワイドなことを考えたりもする。

中学生で思うまま生きて幸せに満ち溢れた毎日を何不自由なく手にしている人が身近にいないから目が届く範囲にいてほしいと、愛しているからこそ願わずにはいられないんだとエゴすら覚悟の糧にして、親という役割を果たしてる。親ってすごい。

愛は与える側のエゴだけれど、役割を果たしきる覚悟があればいいのかもしれない。
このnoteを書く前は、マジでありがた迷惑という言葉がある通り、優しさは受け取る側の気持ちによってはエゴにしかなり得ないこともあるから本当の意味で優しくなりたい。優しさについて考えながら、優しさを極めたい。と書くつもりだったのだけれど、書きながら少しだけ考えが変わった。書いてよかった。

覚悟ある優しさは、受け手のことを本当の意味で考えているから、多少の強引さがあってもいいのかも。

まだまだ優しさマスターへの道のりは遠い。
生きながら、考えよう。

あっという間に今日が1時間も過ぎちゃった。寝る寝るねーるね!



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