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許すこと。赦すこと。

これまで一切触れてこなかった演劇というものに、ちょっとしたきっかけでいくつか観劇を始めたぼくです。

先日は、牡丹茶房(@botan_sabou)さん主催の『床這う君へ』という舞台を観てきました。それを観て思ったこと考えたことを少々。

劇の良し悪しについてはまだよくわからないので、一言だけ表しておくと「原作を飲み込みながらも、原作がモヤモヤと心の奥底に棲みついている」みたいな印象でした。ギャラリーしあんという会場も雰囲気あっていい場所だなあと。

さて、今回の『床這う君へ』というのは江戸川乱歩の『芋虫』を原作とした劇です。『芋虫』というとあまりのグロテスクさに当時発禁となった作品です。今回は、劇にのめり込むため原作を拝読して向かうこととしました。

傷痍軍人の須永中尉を夫に持つ時子には、奇妙な嗜好があった。それは、戦争で両手両足、聴覚、味覚といった五感のほとんどを失い、視覚と触覚のみが無事な夫を虐げて快感を得るというものだった。夫は何をされてもまるで芋虫のように無抵抗であり、また、夫のその醜い姿と五体満足な己の対比を否応にも感ぜられ、彼女の嗜虐心はなおさら高ぶるのだった。
ある時、時子は夫が僅かに持ちうる外部との接続器官である眼が、あまりにも純粋であることを恐れ、その眼を潰してしまう。悶え苦しむ夫を見て彼女は自分の過ちを悔い、夫の身体に「ユルシテ」と指で書いて謝罪する。
間もなく、須永中尉は失踪する。時子は大家である鷲尾少将と共に夫を捜し、「ユルス」との走り書きを発見する。その後、庭を捜索していた彼女たちは、庭に口を開けていた古井戸に何かが落ちた音を聞いたのだった…。(Wikipedia「芋虫(小説)」より)

小説も劇も内容は確かにグロテスクな内容で、キーワードを書き出してみると「責任」「執着」「愛」と言ったところでしょうか。

今回は、この原作・劇どちらにも共通して出てくる「ユルシテ」「ユルス」について考えたいと思います。「ゆるす」という言葉を使うときに一般的なのは、「許す」という感じですが、これは「許可する(permit)」の意味で、少し主旨とずれるので「赦す」という表記で考えたいと思います。

昔、小中学校時代の国語のテスト問題か何かで読んでことがあるんですが、タイトルがわからないせいで手がかりがないんです。ただ、その文章では「我々は本当の意味で赦せているのだろうか」みたいな問いがありました。

例えば小学生のころ、友人を殴ると「殴ったんだから謝りなさい」と叱られました。謝られた側もふてくされていると「謝ったんだから、赦してあげなさい」と叱られたもんです。

おとなになっても構造は同じで、「罪を犯したんだから、罰を受けなさい」「罰(服役)を受けたんだから赦してあげなさい」という感情になります。

でも、これってほんとうの意味で「赦せて」いるのだろうかとぼくは思うんです。自分が損害を被ったのだから、あなたも謝罪は罰を「損害」としてチャラにしましょう。ということにしかならないんじゃないかな、と。

原作『芋虫』のラストでは、眼を潰した妻が「ユルシテ」と伝え、夫は「ユルス」と書き置きをして古井戸に身を投げた(と思われる)わけです。これって謝ったから赦すではなくて、失敗を犯した相手を受け容れた「赦す」という返事なんじゃないかなと思います。

街に出てみると、店員の些細な間違いに腹を立てたり、電車の遅延に対して車掌に文句を言ったり、SNSで気に入らない相手を非難したりと、「上手く赦せてないなあ」と思うことが多々あります。

もっと広い心を持って「許す」ではなく「赦す」ことができればもっとみんな過ごしやすいのになあと考えています。

『芋虫』はかなりグロテスクな内容ですが、その特殊なシチュエーションだからこそ人間のそのままの性質みたいなものが見えてくるなあと思った観劇でした。


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