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自分の「好き」を再構築する

最近、自分の「好き」ってなんだろうなって考えて、立ち止まって、少し歩いてまた立ち止まったりしていた。

きっかけはいつも「写真」だ。Lovegraphという環境にいると、カメラとか写真とかが、とてつもなく好きな人たちが集まっている。

「CanonとNikonの色の違いがうんぬん」
「新しいあのレンズがほしい」
「デジタルよりやっぱフィルムだよね」

写真の話をしだすと止まらない人たちばかりだ。一方ぼくはというと、いまだにフルサイズとAPS-Cの違いを聞かれてもはっきりと答えられないし、レタッチも感覚でやってるし、フィルムで撮る楽しさも説明できない。

だから時々「自分はここにいていいのだろうか」と立ち止まる。

でも、撮影に行けばお客さんには喜んでもらえるし、ときには写真を評価してもらえる。詳しくないだけで、もっと上手く撮りたいという気持ちは人一倍あるのだ。

じゃあ、この「好き」のすれ違いがなんなのだろうと考えてみると、ぼくは写真が好きでLovegraphを撮っているわけじゃないんだなと思う。きっと、自分の撮った写真を喜んでくれる、幸せを感じてくれる人がいることが好きなんだろうなと思う。

だから、きっと描いたイラストで喜んでもらえるならイラストレーターに、文章で喜んでもらえるなら作家にでもなっていたんだろう。でもぼくは、写真という手段を使って人を喜ばすのが一番自分にフィットしたからこの方法を選んだんだ。

ぼくにとって写真は目的ではなくて、手段だった。

このことを実感したのは、友人の結婚式パーティーに参加した時だ。友人に依頼されてカメラを持っていった。本来なら参加者なので、普通に飲み食いして「おめでとう」といって愉しめばいいものを、ぼくはひたすら写真を撮って、下手なりに動画も撮って編集して友人に渡してあげた。
このとき、写真はもちろんだけど、動画もいいなって思った。それは、写真と同じように動画でも友人が喜んでくれたからだな、と。

こうやって「好き」について考えてみると、思考が止まらなくなる人なので、他のことにも頭が回る。次に思い起こされたのは、とある本で見たある言葉だった。

「たとえば、ラーメン好きの人は、本当にラーメンが好きなのではなく、ラーメンを好きな自分が好きなんだ。」

これを読んでそんなはずはないと思った。ぼくは年間81杯もラーメンを食べたことがあるほどラーメンが好きだし、そんな自分を好きなわけじゃない。

しかし、今年驚くほどにラーメンを食べていない。(といっても月1~2くらいは食べている)これはダイエットを始めたからではあるんだけど、特に我慢して食べていないという気持ちでもない。ただ、単純にラーメンという選択肢が少なくなってきただけだ。

そう思うと、やっぱりぼくはラーメンじゃなくて、たくさんラーメンを食べている自分が好きだったのかなと思い至る。

これは、ラーメンの例じゃなくても、他のことにも使えそうだ。ということでようやく、写真に話を戻すと、写真好きではあるけれど、本当に写真が好きかと言われるとウーンといったところで、写真がなくなったら死ぬというわけでもない。

でもきっと、人に喜ばれることがなくなったら、ぼくは寂しさで死ぬんじゃないかなと思う。(ただ、人から喜ばれる自分が好きなだけなのかもしれない)

そんな折に、サクちゃんこと桜林直子さんのnoteを読んだ。

文中の一節を引用すると、

夢中になる能力がある「やりたいことがある人」を「夢組」だとしたら、やりたいことがない人は「叶え組」だ。

ぼくは声を大にして「これをやりたい!」「こうなりたい!」といったものはない、ここでいう「叶え組」だ。

ぼくの好きは「人に喜ばれること」そして「夢組の夢を叶える」ことだ。

そう考えると、やっぱりぼくはLovegraphで写真を撮っていることが好きだし、たくさんの人の夢を叶えるためになにかできたらなと思う。

ぼくにとって写真はやっぱり手段です。(写真好きの皆さんすいません)
それはでもネガティブな意味での手段ではなくて、自分の「好き」を叶えるためのRPGでいう武器であり、旅行でいう移動手段であり、手紙でいう便箋やペンなんだと思う。

だから、皆さんの夢を幸せを叶えるために、写真を続けていきたいなと思います。決意表明みたいで恥ずかしいけど、頑張ります。

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表紙画像:photograph by memeichigo

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