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【ふくろう通信11】ドイツ統一と「サイゴンのいちばん長い日」

 読売新聞の一面コラム「編集手帳」は、論説委員が書いている。その中のハノイ特派員経験者が担当したのだろう。5月7日のコラムは、産経新聞記者としてベトナム戦争を取材した近藤紘一(1940~86年)の著書「サイゴンのいちばん長い日」を引用して、<南北民族の真の和解の達成>が今なお果たせていない現状を指摘した。

1975年にサンケイドラマブックスの1冊として出版

 ベトナム戦争は1975年4月30日、北ベトナム軍が南ベトナムの首都サイゴンを陥落させて終わった。それから半世紀近くが過ぎても、敗れた南部の出身者がトップとなった例はないという。同じく冷戦時代の分断国家だったドイツで、吸収合併された旧東ドイツ出身のアンゲラ・メルケルが2005~2021年の16年間、首相を務めたのとは対照的だ。

南北で異なる地域性

 ただ、南北に細長いベトナムでは地域性の違いは大きい。北に位置する首都ハノイは秩序立った街並みが印象的なのに対し、南の主要都市ホーチミン(旧サイゴン)は雑多な色彩にあふれた生命力を感じさせる。近藤紘一は「サイゴンのいちばん長い日」で、<「メコン川の豊かな土壌に育った南の者の性格やものの考えは、一日つき合えば洗いざらいわかる。中部人を知るには二、三カ月必要。歴史や自然の厳しさと闘い続けてきた北の人間は、一生交際しても腹の底がわからない」>という中部出身者の言葉を引用し、<南は北の気性を小バカにしながら恐れ、北は南のおおらかさを羨望しながら、優越感を隠さない>と分析する。

 実際、南北に分断されていた当時のベトナム共和国(南ベトナム)でも、特にゴ・ジン・ジェム時代以降はベトナム民主共和国(北ベトナム)からの避難民が実権を握っていた。アメリカからの潤沢な援助は高級軍人の私腹を肥やすことになったが、その汚職軍人の頂点にいたのも、北出身で首相や副大統領を歴任したグエン・カオ・キ将軍だった。

共産党政権による統一

 共産党政権による統一だったことも南北融和にはマイナスに働いた。南出身者は軍歴を理由に職につけなかったり、再教育キャンプに送られたりした。党の統率が大前提となる以上、当然の帰結かもしれない。

 これに対して1990年のドイツ統一は西側陣営のドイツ連邦共和国(西ドイツ)に社会主義陣営のドイツ民主共和国(東ドイツ)地域の5州が加盟する形だった。さらに、首都をライン川沿いのボンから、ポーランド国境まで100キロもない東部のベルリンに移した。ベルリンへの首都移転には、ドイツ帝国主義時代を想起させるとして連邦議会でも激論が交わされたが、東西融和を重視するコール首相の主張が通った。

 統一前の東ドイツでは人手不足を補うため、大勢のベトナム人が外国人労働者として生活していた。日本人が「ベトナム人か」と尋ねられることも珍しくなく、理髪店に黙って座ると襟足を長く残すベトナム人好みの髪形にされることもあった。統一後はベトナム系の閣僚も誕生し、社会の多様性を示している。

顔もあれば眼もある

 「サイゴンのいちばん長い日」は、サイゴン陥落を目撃した近藤の洞察が光るが、それだけの書物ではない。むしろ、ベトナムの人々との生身の交流や温かいまなざしこそ胸に迫る。大学の同級生だった最初の妻との死別、サイゴンで出会った勝ち気なベトナム女性との再婚などドラマチックな人生を送った近藤の私小説のようでもある。

 やはりベトナム戦争を取材した小説家の開高健は次のように評している。
<それ自体が貴重な記録であることはいうまでもないが、登場人物たちの生彩がそれにまたとない肉や果汁や香りをつけている><これは、顔もあれば眼もある本である>

近藤紘一

では、また。


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