「逃げてもいい」と子ども達に言う私たちが、考えなくてはならないこと

おはようございます。
夏の面影がすっかり薄れ、秋晴れの東京・西部です。

プロフィールでも少し触れていますが、私は公立高校を1年で中退し、16歳でフィリピンの片田舎に単身留学した経験があります。(トップ写真はその当時のもの)

それは、自ら選んで飛び込んだという勇ましい武勇伝ではなく、小学校から果てしなく続いた「いじめ」の結果の逃亡でした。
(フィリピンであったのは、偶然の縁があったからであり、その時は特にフィリピンである必要性はありませんでした)

おそらく、あのまま公立高校に在籍し続けていたら、今この世にはいなかっただろうと思います。そして逃亡先のフィリピンで、本当に周りのフィリピン人の方々に助けられ、「生かされた」経験が、今の外国ルーツの子ども達の支援活動の原点になっています。

いじめのひどかった「ここ」でなくても生きていける

という実体験を当時もてたこと。いつでも生き場は変えられる、という事実は、その後も折々で私を支えてくれました。

心の中に「フィリピン」というサードプレイスが生まれたことで、私は息苦しさ(生き苦しさ)から開放され続けているのだと思います。

今日は9月1日。
あちこちのタイムラインで、子ども達に「逃げてもいい」というメッセージが発信されています。私も、その内の1人です。

今でなくても、ここでなくてもいい。

その、当たり前のような感覚をもてるかどうか。簡単なようで、とても難しいことなのだと今になって思っています。

学校に行って死ぬくらいなら、逃げてもいいと、他人の、見知らぬ子どもに向かって言葉を投げかけることは簡単です。そうした大人たちのメッセージが大きくなってきたこと自体はとても前向きに捉えています。

でも、それを受け止める親にとってはどうでしょうか。

私も子どもが2人いて、上の子は小学校中学年です。
春先に「登校しぶり」があり、しばらくプチ不登校のような状態になりました。

その時、親としての私は「行かなくていい」とはいえなかった。
頭の中をかすめたのは、その日の仕事であり、万が一このままずっと学校に行けなかったらどうしよう、という強い不安と打算でした。

「学校に行かなくてもいい」

という言葉は、それを支え得る家庭環境や親の(時間的・金銭的・精神的)余裕があって初めて、スムーズに成立する戦略であり、大人側の環境整備なくして、あまり実効性のない言葉でもあるなと感じています。

(特に子どもの年齢が低ければ低いほど、子どもが学校に行かない=親が仕事を休まなくてはならない/または家庭内で「放置」せざるを得ないこともあり)

それでも、いじめや生き辛さに苦しむ子ども達には、今は「学校である必要性はない」「逃げてもいい」と言いたい。
そのためには、大人が「子どもをそうさせることのできる環境」の議論をセットでしなくてはなりません。(いじめ撲滅は言うまでもなく)

たとえば、フリースクールに通所する際の費用負担であったり、
子どものこうした緊急事態に、(金銭的にも精神的にも)親が仕事を休みやすい職場の理解であったり。

「逃げて」という以上、大人たちにはやらねばならないことがあるはずだと。

 

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