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結論や答えを出さぬ不安定さに耐えられる心を育みたい

本音の本音を聴いてあげたら、本音の本音を聴ける子になる。


これ聞いて、ハッとする自分がいた。聴けてるかな??子どもの本音。そして自分の本音。夫の本音。仲間の本音。


3歳半にもなると、娘は「○○ちゃんがごめんねしてくれないの~」「○○ちゃんが貸してくれないの~」とか、こんな内容の事をこぼすことがある。


昨晩は家にある くまもんと、ミニーマウスの人形をお友達に見立てて、二人がけんかをしたと言うていで、何やら遊んでいる。


娘「ミニーがね、くまんもんを バンって たたいたの。くまもんが いたくて ないてる。かわいそう。」

私「どうして?」

娘「くまもんは つみきで あそんでた。ミニーも あそんでて、おなじものが ほしかったんだとおもう。くまもんは とられて いやだったんだとおもう。」

私「そっかー。二人とも遊びたかったんだ~」

娘「ふたりで、ごめーんねーしよーね、はい、ごめーんね(ふたりをお辞儀させながら(笑))」


昨日こんなやり取りをした。最後には「ごめんなさい」を促されているのかなぁ、と思いながら見ていた。


叩くことがどうやらいいことじゃないことは、2歳くらいから分かり始めているように思う。。こういう誰かを傷付けてしまうことにおいて、保育園に対しては、「どうぞ、致命傷にならないように保育をお願いします。」と心から願うし、心から信頼して預けている。


傷を負った・負わせたの当事者になった時はきっと一度は動揺することだろうが。


この表面のことはここまでにして。いわゆる事件、些細なものも含めた、人間同士のいざこざの裏には、ちゃんと本音がある。


くまもんも、ミニーも、つみきで楽しみたかっただけだ。


そして、この本音が簡単には探れない時がある。子どもの本音など、親は分かるわけがない。時に子どもだって分かっていない。親だって大人だって自分の本音に気付けていないだろう。


だから、一緒に探りたいなと思っている。


そして、相手が幼かったりして探りきれなくなると、自分で探るだけ探った本音に着地させたくなるが、相手の本音も自分の本音も着地させないままにする覚悟を持ちたい。そこで着地させてしまったら、自分の理解の中でしか相手を理解しなくなる。分かろうとして自分の理解のなかに相手を収めてしまう。


相手の本音を知る術は対話であるはずなのに、対話しても気付けぬ本音がある。悲しきかな。でも美しきかな。


結論や答えを出さない不安定さに耐えられる心を育みたい。


それが、答えのない時代を生き残る、自力で答えを出すために必要なベースじゃないだろか。


本音を聴こうとしたら、本音を聴こうとする子になる、のかな。



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なかなか変われない…それって自分自身のせいじゃなくて、捉え方を変えたら今から変われるもの。そんな言葉を文章で伝えたい。最後はやっぱり自分と向き合い切るかにたどり着くから、その強さを持つ人になりたい。