努力の量は人間の価値だろうか?

上の箕輪さんのツイートを見て少し気になったことがある.このツイートの文意は私が捉える限り,「妬みによって人の足を引っ張っている暇があったら,自分も妬まれるぐらいまで頑張る方が建設的だ.」という主張であるように思う.このツイートにはおおむね賛成であるが,少し私の心に引っかかる部分がある.それは,人間の価値とは何によって決まるのか.という問いである.

最近の潮流として努力をたくさんした人の方が称賛されるように思う.例えばイチロー選手の引退の時に努力の人と紹介されることが多かったり,たたき上げで起業した人が称賛されたりする.ただ,この努力をたくさんした人はほかの努力しない人よりも価値が高いのであろうか?直感的に考えれば努力をたくさんした人は人類のためにきっと貢献していて,努力をしていない人よりも価値が高そうである.しかし,人類のために貢献している人は本当に価値が高いのだろうか?

少し前に子供が産めない人の支援を政府は行えないといった旨の発言が出て炎上した事例がある.この主張の前提はやはり政府(人類)のためになる人を優遇する.つまり,人類のためになる人の方が価値が高いという思想が背景にあるように思う.


人類のためになる人が偉いのか?

人類のためになる人は確かに我々に便利さだとか,豊かさをもたらしてくれる.ただ,人類のためになるように,個人の幸福が損なわれるのはおかしいと思う.また,その論旨がまかり通るのであれば,終末医療などはなくしてしまうことになる.そこには人権も何もないのである.つまり,人類のためになる人に価値があるのは事実だが,人類のためになることが人間の生きる意味ではないということになる.


問題の本質は何だろうか

では始めのツイートで問題となる本質は何だろうか.このツイートの本質的なところは,人類のためになっている人に対する羨望による足の引っ張り合いが問題なのではないだろうか?若しくは自由でお金のある人(ちょっと偏見的)に対する妬みではないだろうか?恐らくこの考えも人類のためになる人は価値があり,人類のためにならない人は価値がないという思想が下地にあるのではなかろうか.

恐らく人類のためになる人にならなければという価値観が,人間を不幸にしているのだと思う.だから,無駄に努力をし,また努力が推奨されるのではないか.確かに努力は素晴らしいが,知らない他人の価値観による努力はむなしいだけであるし,そういった努力は大抵長続きしない.従って,努力が必要という価値観をうまく軽減させることが今後は必要になってくると思う.

努力の必要性に縛られない為には?

ではどうやったら,努力の必要性に縛られずに生きることができるのだろうか.また,努力の必要性に縛られずに生きるための支援はどうすればよいのか.ここは私もまだ答えが出ていない.可能性としてあるのはベーシックインカムである.ベーシックインカムによって,労力なしに豊かさを享受できるのなら,余った労力で適切な努力や,人類への貢献ができるのではないだろうか.また,人類が労力なしに豊かさが享受できるようになれば,身を粉にする努力の価値というものに魅力が減り,ちょうどよいバランスになっていくのではないだろうか.

この問いは人間の生きる意味や人権を考える意味で非常に重要な問いであると思う.その為,いろいろな人から意見が頂きたい.是非意見をお待ちしております.

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