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ていねいな暮らしか、淡々と続く生活か。

「ていねいな暮らし」に憧れをもつ人は多い。豆から挽くコーヒー、無添加のオーガニックコスメ、生成り色のワンピース、ちょっと高い出汁パック。ぼくのイメージはこんな感じだ。

で、自分で言うのも変だけど、ぼくは「ていねいな暮らし」をしている側の人間だと思う。ほぼ毎日自炊をするし、お風呂場はウタマロクリーナーでこまめに掃除するし、スーツにはスチームを当ててシワを取っている。


でも、ぼくは自分の日常に「ていねいな暮らし」というフレーズを当てはめるのになぜか抵抗がある。というか、「暮らし」という言葉を使うこと自体に違和感を感じてしまうのだ。

逆に一番しっくりくるのは、「生活」という言葉。自分が営んでいるのは「ていねいな暮らし」ではなく「淡々と続く生活」だ、という意識がある。

すでに抽象的な話になっていて申し訳ないのだけど、今日はこの「暮らし」と「生活」について書いていこうと思う。


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最初に言っちゃうと、もはや「ていねいな暮らし」はファッションであり、消費されるものになっている気がするんだ。

ライフスタイル雑誌やインスタの「#ていねいな暮らし」を覗いてみると、そこには質素ながらもキラキラした世界が広がっている。コーヒーは豆から挽くのがていねいですよ、調味料はちょっとお高めのヤツを使いましょうね、食器は職人がつくった一点ものがいいですよ……。

まるで近くのスーパーで買った食材では「ていねい」に暮らせないような、時間をかけることが正義であるかのような、そんな雰囲気を感じてしまう。(ぼくが斜に構えすぎなのかもしれないけれど)


そうやって作り込まれた「ていねいな暮らし像」を見るたびに、ぼくたちは色んな感情を持つはずで。「自分もていねいに暮らせているぞ」「自分の暮らしって雑なのかなあ」「もっと日常のクオリティを上げなきゃ」とかとか。

そして自分も理想に近付こうとして、背伸びしちゃう人もいると思う。本当は6枚140円の食パンでじゅうぶんなのに、パン屋さんで買った1個180円の惣菜パンを朝ごはんにしたり。本当は乾燥機を使いたいのに、外干しするのがていねいかも……と悩んだり。

背伸びして頑張るうちに、いつしかその「暮らし」には手触り感がなくなって、自分の守備範囲からどんどん外れていっちゃう気がするんだ。


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手触り感がなくなった「暮らし」の代わりに、ぼくは「生活」という言葉がしっくりくる。

「生活」は地味だ。「ていねいな」という修飾語がつくこともないし、淡々と過ぎていくし、どこか雑な響きさえある。毎日の料理に使うのは西友で買った1リットル150円の醤油だし、洗濯物は乾燥機にぶちこむし、飲んでいるコーヒーはネスカフェのインスタントだ。

でもそんな「生活」には確かな手触りがあって、自分の守備範囲に収まって、淡々と過ぎていく中に心地よさがある。


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「ていねいだけど背伸びした暮らし」「雑だけど手触りのある生活」、このふたつを分けるのはなんだ?と考えたとき、やっぱりそれは「自分の意志があるか」だろう。

もう少し具体的に言うと、「なにを丁寧にして、なにを雑にするか」に自分の意志があること。他人の価値観をコピーするのか、自分で手探りしながら見つけるのか、そんな感じだ。


たとえばぼくは、日常のコーヒーを雑にする、と決めている。毎日3杯はコーヒーを飲むカフェイン中毒だけど、正直言って味の違いがまったく分からないからだ。

毎日飲んでいる安いネスカフェも、1杯ずつ個包装になったドリップコーヒーも、喫茶店のマスターが時間をかけて淹れたブレンドも、全部同じ「コーヒー」としか認識できない。だから普段飲むものは、とびきり雑にしてやろうと決めている。

ほかにも、洋服はユニクロで買って1シーズンで捨てまくる。パスタを茹でるのは電子レンジ。シャンプーは大容量で買ったパンテーンだ。ぼくの生活の中には、およそ丁寧とはほど遠い「雑」な部分がたくさんある。


でも一方で、ぼくには「丁寧」を妥協できない瞬間もあるのだ。たとえばこうやって文章を書く時間。ぼくにとって書くことは「考えること」「自分に向き合うこと」と同義だから、この時間だけは絶対に雑にしたくない。

たとえば食事。調味料や食材にはまったくこだわらないけれど、「自分でつくって食べる」行為にぼくは喜びをおぼえる。外食が続くと自分が自分でなくなっていく感覚があるから、自炊する時間はなんとしても確保する。

ぼくの生活にはくっきりと「丁寧」と「雑」の線引きがあって、それが全部自分で決めたものだからこそ、確かな手触りと心地よさがあるんだと思う。


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「暮らし」と「生活」、どちらの言葉が正解だとか偉いとか、そんなことはまったくない。でも絶対忘れちゃいけないのは、その暮らしや生活の中に「自分の意志はあるか?」ということ。

雑誌やインスタグラムの投稿をコピーして、いつしか背伸びをして、自分の守備範囲から外れてしまった日常。そんなものに価値はないし、丁寧とはほど遠いし、なにより自分がしんどくなるだけだ。


自分が丁寧にしたいものはなにか? それを守るために雑に済ませたいものはなにか? それを考えて考えて、日常の中に反映していった暮らし。あるいは生活。

それが淡々と続いていくことこそが幸せだと思うし、ぼくらが目指すべき姿なんじゃなかろうか。


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