いまさら『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』

 公開から1ヵ月以上経ってしまったがやはり感想は書いておこうと思った。なんであれ2年間待ち続けた映画だから。
 正直に言うとこの映画を初めて観た時、少なからず戸惑ってしまった。これが観たかった!という満足感と同時に、観たかったのはこれだった?という違和感もあった。


 唐突だが、怪獣映画はファーストコンタクトと怪獣バトルの大きく2つに分けられる。
 ファーストコンタクトの古典ははたとえば第1作目の『ゴジラ』で、この作品は怪獣という未知との遭遇によって起きた変化を描いている。
 だがゴジラ映画が語ってきたのはそれだけではない。第二作の『ゴジラの逆襲』から現在に至るまで、ゴジラと敵怪獣の戦いが何度も何度も繰り返されてきた。

 近年の作品で言えば『シン・ゴジラ』は前者について様々な先行作品を引用しアップデートした。それに対して『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』は後者の最新型だ。
 この映画は怪獣の出番を出し惜しみしない。冒頭のモスラの誕生から南極でのゴジラ対ギドラ、メキシコでのラドン・ギドラ・ゴジラの交戦、ゴジラ復活、そして最終決戦へ。人間ドラマなど知るかと言わんばかりに、話がダレる間もなく怪獣が現れる。
 前作にあった「怪獣とのファーストコンタクト」という要素は薄れた分、怪獣バトルが前面に押し出されている。
 すでに怪獣と出会ってしまった世界を描く以上、この怪獣バトルへの開き直りは潔い。

 この映画の魅力はなんといっても怪獣たちの圧倒的なビジュアルだ。生頼範義の描くゴジラのポスターがそのままスクリーンに現れたかのように、1カット1カットが美しく、迫力に満ちている。
 特に好きなのは噴火口でギドラが雄叫びを上げるシーンだ。画面手前に映る十字架、偽の王の目覚めという状況も相まって、宗教的と言いたくなるような荘厳さと不気味さが同時に感じられる。
 そんな凄い絵が自由自在かつパワフルに暴れ回る。カメラも怪獣も目まぐるしく動く。怪獣映画という以上に「怪獣のアクション映画」だと思った。

 個人的な印象だが、怪獣映画は多かれ少なかれ引き算の表現で成り立っている。
 何かを十分に見せないことで、その見えない余白によって怪獣の存在を大きくさせる。
 あるいは、着ぐるみ・ミニチュアというニセモノっぽいニセモノを、演出によって「ニセモノが本物らしく見える」という手続きを経ることで独特なリアリティを生み出す。
 たとえば『シン・ゴジラ』は「ゴジラがただ歩いているだけ」と言われることもあるが、歩いているだけで大都市を瓦礫の山に変え、ビル街に佇むだけで景色を一辺させる、その見せ方に凄さがある。
 とはいえ、予算やCG技術の制限によってそういった表現を取らざるを得ないところもあるのだろう。『シン・ゴジラ』もゴジラをもっと動かしたかったと聞いたこともあるし。

 それに対して、『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』はほとんど足し算だけで作品を成立させてしまった。驚くべきことに。
 ニセモノが本物らしく見えるという手続きを経るまでもなく、本物と見まがうCGが圧倒的な物量で展開される。それによって、これまでの怪獣映画が持ち得なかったリアリティを獲得した。

 また、怪獣のキャラクター性、擬人化の強さも特徴的だ。
 この映画では怪獣の顔にフォーカスするカットが印象に残る。モスラの幼虫、ラドン、ゴジラ、ギドラ。彼らの登場シーンでは見得を切るように顔への寄りが挟まれる。(しかも専用の登場曲まである)
 人間の視点という制約が取り払われ、怪獣というキャラクターをいかに印象付けるか、という方向に映し方が変化している。

 地球上で発見された17体の怪獣をモナークが監視しているという設定、彼らの科学力、唐突に出てくる超兵器「オキシジェンデストロイヤー」、地球空洞説や海底に沈んだ超古代文明など、全作と比べて現実離れした設定が増え、作品のリアリティラインが上がった。登場人物も芹沢博士やエマ・ラッセル、アラン・ジョナなどキャラの主張が強い。VSシリーズっぽいという感想をよく見かけたが、専門用語やネームドキャラが飛び交うフィクション度の高さが理由だと思う。

 描かれているのは怪獣という非日常をすでに受け容れている世界だ。ここでは怪獣は現実に侵入する異物ではない。ゴジラの(怪獣の)出現によって世界が変化した、ということが映像と作劇の両面で表現されている。
 『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』はいわば、「『シン・ゴジラ』が選ばなかったゴジラ映画」だ。

 というわけで、基本的にはとても楽しめたが、いま一つ乗り切れないところもあった。
 怪獣のCGは想像で補う必要がないくらい「本物」なのだが、それに加えて登場人物のキャラが濃く、背景となる世界もフィクション度高いとなると、何が当たり前で何が驚きなのかが分かりにくい。なんというか、世界に濃淡が欠けているという印象を受けた。

 ゴジラは色んな顔を持っている。水爆の犠牲者も、太古の巨神も、巨大化したイグアナも、植物由来の怪獣王も、みんなゴジラだ。
 ゴジラは着ぐるみで生まれた。それ自体は空っぽの器である。どんな意味も飲み込んでしまう。こういうのがゴジラだとかこれはゴジラではないという議論はそもそも意味が無いのだろう。
 今はとりあえず、新たなゴジラ映画が作られ続けているという状況に感謝しながら『ゴジラvsコング』を待ちたい。

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