『ウィッチ』

とても怖い映画だった。観ている間、背筋の寒気が収まらなかった。何が怖いのかと考えるより先に、言語化できない恐怖に身体が反応している、そういう怖さだった。


映画の舞台は17世紀のニューイングランド、トマシン(アニヤ・テイラー=ジョイ)の一家は父親が教会から破門され、人里離れたこの地に流れ着いた。厳格なキリスト教徒(清教徒)である父親の下、一家は信仰生活を送っていた。ところがある日、末っ子のサムが姿を消してしまう。子守りの最中、トマシンが目を離した一瞬のことだった。この日を境に一家を次々と異変が襲う。そしてトマシンは魔女ではないかと家族から疑いを向けられてします。一人また一人と死に追いやられていく一家。最後にはトマシン自ら母親を殺めてしまう。一人残った彼女の元に、本当の超自然の存在が姿を現す(?)。


家族間の不和、生活の不安、父親の隠し事、厳格な信仰生活に塗り隠されていた不信が表面化していく。そもそも、在るものを無いと、無いものを在るとしていたからこそ歪みが生まれ、見ないようにしていたから見えないものがやってきてしまったのではないか。


この映画の中で起きていること(特にラストシーン)を主観か客観かと問うことにあまり意味はないような気がする。人の心が生んだとも、元から存在していたとも言い難い。驚くべきはむしろ、最後に姿を現す超自然的存在が、そこに至るまでの積み重ねでなんの違和感もなく受け入れられるようになっていること。


この映画はとにかく音が怖い。怖がらせるための演出というだけではなく、姿の見えない「魔」は音になって登場人物たちに忍び寄る。音は画面の構成要素なんだと思う。この映画は見えないものを怖れ、見えないものに苛まれる話だ。

恐怖には何種類かある。娯楽として享受している恐怖で言えば主に三つ。一つはビックリ、というかビックリさせられることに対する警戒。二つ目は背後や部屋の戸締りが気になってくる類いの恐怖。主に活字や文字媒体から喚起される感覚だ。読んでいる文章の内容に加え、一人で読んでいる状況自体に不安を覚える。3つ目は考えることと独立して身体が反応しているような恐怖。「悪魔のいけにえ」のレザーフェイス一家と過ごす悪夢の一夜、あの神経を苛まれる感じや、「ウィッチ」を観ている時の理由の解らない寒気など。

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