『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』の予習の記録

KOM公開前に観直したゴジラ映画+αの感想まとめ。


『ゴジラ(1954)』

「現実」に初めて侵入してきたゴジラ。小さい頃は苦手だったけど、何度も観返すにつれて良さがわかった。今ではオールタイムベスト。哀しく怖ろしく格好いい、怪獣のすべてがある。燃える都市の向こうに巨大な影が見えるどこか夢の中を思わせる不思議な情景が印象的。

このゴジラは古代生物と伝説上の怪物と人間の手によるミュータントという三つの異なる顔(出自)を併せ持っている。栄光丸が沈み、探査に向かった船も沈み、それを救助した漁船も沈み、そこから一人生き残った大戸島の若者もゴジラに踏み潰される。誰も生き延びられない連鎖が怖い。

『ゴジラの逆襲』

1作目よりも手探り感が強く、歪で、それゆえに意外な面白さもある怪作にして快作。怪獣プロレスが存在しなかった時代の怪獣バトルは、意図しない早回しや、噛み付きなどの動物的なリアルな格闘、クライマックスではなく中盤に持ってくる構成など、怪獣映画のフォーマットが確立された現代では見られない描写が新鮮。前作の映像が無音でただ上映される会議室や、やけに時間をかけて描かれる宴会など、必要性のわからないシーンが妙に面白い。乱杭歯が不気味なゴジラの造形や凍結による決着など、シン・ゴジラを先取りしているように思える要素もある。

怪獣の登場しない怪獣映画も意図せずに実現されている。最初のゴジラの日本接近は緊急放送と管制室の地図の上を動く手の映像に終始し、一度もゴジラが映らないまま新聞記事で危機が去ったことが示される。

脱獄集達の起こした騒動で灯火管制が失敗したり、廃墟から立ち上がる様が描かれたり、主要登場人物のドラマだけでなく、良くも悪くも人間臭さが物事を(映画を)動かしている。東京を破壊した前作から、破壊からの復興までを描いたのが「逆襲」だ。また、余談だが地下鉄構内の水没シーンが圧巻。

『キングコング対ゴジラ』

怪獣プロレスを確立した作品。ミレゴジの先祖と言えるキンゴジの造形が素晴らしい。大きい手足も独特の魅力。そして多湖部長のキレ味。前二作から趣向をがらりと変えてコメディに寄せているが、それでも成り立つゴジラというジャンルの懐の深さを感じる。

『モスラ対ゴジラ』

冒頭の台風のシーンから心を掴まれる。今作のゴジラは明確に悪役なのに、砂をふるい落とす仕草や尻尾がタワーに引っかかるところがなんか可愛くて(そのうえ段差を踏み外してお城に激突したりする)、でもちゃんと怖いという不思議。

それにしても干潟から登場するゴジラってなかなか思いつけることじゃない。ガイガーカウンターを使うくだりは1作目の足跡を思い出した。ドラマパートは新聞記者が映画の花形だった時代を感じさせる。

『シン・ゴジラ』の第一形態登場シーンは、干潟から飛び出したゴジラの尻尾を連想する。

作品の意図とは全然関係ないんだけど、コンビナートを襲うゴジラの合成が黒沢清の『回路』の幽霊表現っぽくて面白い。

『三大怪獣地球最大の決戦』

怪獣たちの出現の前触れとして異常気象や天体の異変が起き、「地球の箍が緩んでいる」という台詞が発せられる導入部。KOMの設定はこの辺も踏まえているなら嬉しい。群像劇風にストーリーが進行しながら主役たちが姿を現し始めるのがわくわくする。

キングギドラが異星人の手先ではない貴重な作品。ギドラの登場シーンは全部格好いい。三体が協力して反撃に出る場面は怪獣たちを善玉として感情移入させるところだけど、一方で避難した住民たちが悲嘆にくれているのが印象的だった。怪獣プロレスは怪獣プロレスでありながらあくまで怪獣災害だった。

『怪獣大戦争』

ゴジラ初の宇宙進出。UFOに連れ去られたり人類のコントロール下にあったりとこの時期の怪獣の扱いには思うところもあるのだが、例のコスチュームのX星人たちが登場するとテンションは上がる。

この作品で一番好きな画は後半の市街地で暴れるキングギドラ。怪獣映画の感動は風景と怪獣の相互作用にあると思う。

『ゴジラ・エビラ・モスラ 南海の大決闘』

海外版のタイトル『EBIRAH 〜HORROR OF THE DEEP〜』がかっこいい。嵐の中に現れるエビラは凄かった。正直エビラをナメていた。島から逃げ出してエビラに襲われたインファント島民が、初代ゴジラの政治(ゴジラに殺された新吉の兄)役の人に見えた。

敵に追われる水野久美を助けるゴジラは、キングコングの役を演じているだけと言えばそうなのだが、『ゴジラ(1954)』でゴジラが初めて姿を見せた場面を登場人物の立ち位置をずらして反復しているようにも見えて面白い。そもそもこの映画自体、平田昭彦と宝田明が役割をずらして共演している。

戦闘機がゴジラを爆撃するシーンやモスラが降り立つシーンの、ゴジラ映画ではあまり聞かない軽快だったりファンタジー調だったりする音楽が印象的だった。

『怪獣島の決戦 ゴジラの息子』

擬人化の進むゴジラ。そして流暢なカタコト日本語のヒロイン。ブラックな職場で精神を病んだ登場人物(土屋嘉男)がいるのが面白い。この作品の魅力はクモンガ、カマキラスの(怪獣というより)巨大生物としての実在感と、ゴジラの熱線描写だと思う。人間と怪獣の距離が近く、木々の間から見上げるアングルが多い。登場人物の目線で怪獣の巨大さを感じる。海中から背びれをのぞかせながら島に接近してくるゴジラが格好いい。そしてカマキラスがなかなかに怖い。巨大化する前はメガヌロンを彷彿とさせる不気味さ。この辺の節足動物モチーフはデストロイアに繋がると思う。

ミニラの成長を熱線で表すためゴジラが熱線を撃つ機会が多い。飛びかかってくるカマキラスに放射熱線が直撃して、ちぎれた前脚が燃えながら落下してくる演出は平成ガメラを連想した。怪獣プロレスでは投石のダメージ>>熱線のダメージになりがちだったので、この作品での熱線描写は満足度が高い。

『怪獣総進撃』

怪獣がたくさん登場すれば楽しいのは怪獣映画の1つの真理。凱旋門を地中から突き破るゴロザウルス、モノレールにからみつくマンダ。各地に現れる怪獣は、地球がヤバいというより夢の中の光景のようなシュールさがある。ラストシーンは人間(観客・作り手)の世界から去っていく怪獣(映画)という意味合いが感じられて寂しい。正直言うと小さい頃は「人間が怪獣を管理している」という設定が嫌だった。怪獣ランドから世界中に解き放たれても宇宙人に操られていることにモヤモヤして、理想の『怪獣総進撃』をよく想像していた。

『ゴジラ・ミニラ・ガバラ オール怪獣大進撃』

怪獣が実在しない怪獣映画。登場人物にとってもゴジラやミニラは映画の中の存在だ。大半の特撮シーンが過去作の使い回しだったり、メインの敵がガバラだったりするせいか、あまり人気はないが、ゴジラ映画を通して現実とフィクションの関係を描いているのが面白い。この時期の『怪獣総進撃』~『オール怪獣大進撃』~『ゴジラ対ヘドラ』という流れは中々に前衛的。主人公の一郎が反映しているのは怪獣映画の観客であった当時の子どもたちだ。(実際これを今やられたらたまったものじゃないというのは置いといて)使い回しの映像は、一郎がこれまでに観たゴジラ映画の記憶であり、ミニラとの冒険は一郎を(子どもたちを)スクリーンの向こう側に連れて行ったと言えるのではないか。この作品をただの夢オチと捉えるのは寂しい。天本英世の台詞で「一種の信仰みたいなものですな。大人の世界に神様があるように、子どもの世界にミニラ大明神があってもおかしくないでしょう」とあるように、夢というより想像力。空想の冒険で強くなって現実に帰ってくる。

『ゴジラ対ヘドラ』

唯一無二のサイケデリック前衛怪獣映画。ゴジラ映画とは思えない画が次から次へと繰り出されるのが凄い。冒頭のゴジラのおもちゃで遊ぶシーンから既に不穏である。クラブでラリって人の顔が魚になるなんて子どもの頃に観たらトラウマ必至だと思う。

ヘドラを振り回すゴジラと麻雀牌をかき回すサラリーマンの動きがシンクロして、投げ飛ばされたヘドラに呑まれてサラリーマン達が死亡する流れはヤバい。

主題歌をバックに工場の煙突にのしかかるヘドラ。排気ガスに覆われ太陽の光が届かず、画面は終始暗く煙っている。何もかも手遅れになってしまったような終末感が基調にある。映画の奇抜な表現だけじゃなく、怪獣としてもヘドラはとても魅力的。こんなのと戦うならゴジラも飛ぶしかないよなと思う。

『怪獣少年の〈復讐〉』でも指摘されていたジェットコースターの場面の奇妙さ。主人公の少年が一瞬ゴジラの影を目撃するが「こんな天気の良い日に来るわけない」と否定される。警報も出ていないし街は平穏なまま。その後ゴジラが出現するのだが、あの影が現実のものだったのかはわからない。ゴジラは少年の夢に現れ、おもちゃが存在し、しかし現実に石油コンビナートを破壊し、ヘドラと戦う。空想と現実の間で揺らいでいる。

『地球攻撃命令 ゴジラ対ガイガン』

キングギドラとガイガンは華がある。オープニングクレジットがちょっと格好いい。チャンピオンまつりは流血と火炎。とにかく燃やすし血を流す。後半はずっと戦ってた気がする。それにしてもアンギラスの鳴き声ってなんであんなに悲しそうなのか。

『ゴジラ対メガロ』

人生で最初に観たゴジラ。ジェットジャガーの手話を真似した記憶がある。今観返すとゴジラ映画もここまで来たか…と少し戸惑う。昭和ガメラのノリを逆輸入したというか。とはいえメガロはけっこう好きだし、ダム破壊は名場面。あとは戦車隊を空中から捉えた画が印象に残った。

『ゴジラ対メカゴジラ』

新怪獣あり爆発あり活劇あり昭和歌謡ありのメカゴジラの装備並みに盛りだくさんな作品。微妙に頼りないキングシーサーに何かを深読みしそうになる。この映画はなんと言ってもメカゴジラと火薬。記憶にある以上に強かったし燃やしていた。

『メカゴジラの逆襲』

『オール怪獣大進撃』以来にして最後の本多猪四郎監督ゴジラ。怪獣対決路線を継承しつつシリアスなドラマを作ろうとする苦心が伺える。容赦なく爆発を合成してくるメカゴジラⅡとチタノザウルスの都市破壊シーンは久々に凄かった。怪獣たちが異様に大きく見える瞬間があるのと、チタノザウルスの鳴き声がすごく印象に残っている。セピア色の海に去っていくラストが物寂しい。

『ゴジラ(1984)』

何度となく言われてきただろうけど惜しい作品だと思う。リアルさを志向しながらスーパーXという超兵器を登場させたり、避難命令が下っているはずの新宿でゴジラの足元に大勢の人達(どう見ても当時のゴジラファンの方々)がのこのこ集まってきたり、メロドラマ要素と妙に長い脱出劇があったり、色んな方向を向いていて「怖いゴジラ」「政治劇を盛り込んだリアルな怪獣映画」というコンセプトがブレている。でもそういうチグハグさも嫌いじゃないというか、放っておけない。

この作品が目指したことは後に『シン・ゴジラ』で達成されるし、カドミウム弾の使用に見られるようにゴジラを「放射能に動かされる生物」と捉える描き方はそのままVSシリーズの基調になっていく。平成ゴジラの礎になった作品であることは間違いない。武田鉄也とかまやつひろしについてはノーコメント。

『ゴジラvsビオランテ』

4代目ゴジラの格好よさ。「第~種警戒体制」や平成ではおなじみの「G」といった用語、ハリウッド映画を意識したようなアクションや掛け合いなど、(個人的な好き嫌いはあるけど)新しいものを、軽快で現代的なエンタメを作ろうとする意志は強く伝わってくる。

顔が映るだけで面白いサラジアのエージェントはずるい。あの最期は何回観ても爆笑する。

ストーリーは前作の直後、廃墟と化した新宿から始まる。ゴジラに破壊された場所にはゴジラの生体情報が残されているという観点が新しい(初代でも足跡の描写はあったが)。ゴジラの体温に言及していたり、ゴジラを生物(驚異的ではあるが)として再構築する流れは前作から続いている。オープニングも含めて「バイオ」の時代だ。このシーンは『シン・ゴジラ』にも響いている。

最後の方の「バットマンみたいだった」云々の台詞とか、ついさっき顔見知りが殺されたばっかりやぞと言いたくなる。こういう80~90年代のノリは苦手。でも「ヤングエリート」という言い方は妙に好き。超能力開発センターやGエスパーはオウム前夜だなあと思う。

大人しい描かれ方をしながら実は一番ヤバい人という点で山根博士に通じる白神博士。ビオランテが逃げ出した時の他人事ぶりに笑った。それにしてもゴジラシリーズは「父と娘」のドラマが本当に多い…。

芦ノ湖のビオランテのように異形のオブジェの周りで人間たちが右往左往している図は好き。全体の印象として、対象年齢は上がっているが大人向けというのも座りが悪い。怪獣バトル路線とも前作のリアル志向とも異なる独特の立ち位置である。若さというか、背伸び感。

平成ゴジラの芸能人のカメオ出演は好きじゃないけどデーモン小暮の入れ方は凄かった。権藤さんの部屋にあったゴジラ像はキンゴジだろうか。

『ゴジラvsキングギドラ』

映画館で観た初めての映画。経済大国日本!にバブルの匂いを強く感じる。しかし(未来人を除けば)人間パートに意外と浮ついた印象はなく、むしろ新堂会長とゴジラのドラマは良い線いってるんじゃないかと思った。ゴジラのオリジンが語られたことはとても価値がある。

ゴジラザウルスに命を救われた日本兵(=日本経済)が戦後の繁栄を経て、ゴジラによって最期を迎える構図は悪くないし、両者が向き合い容赦なく熱線が放たれるシーンにはおお!と思わず声が出た。 VSシリーズの好きなところはゴジラの熱線が強いこと。新宿を蹂躙するゴジラが素晴らしくて、だからゴジラ好きになったんだと思い出した。人間側もメーサー戦車が執拗に頭部を攻撃し続けていたのがポイント高い。海の泡に消えた初代ゴジラに対比させるように、泡の中で新生ゴジラが目を覚ますエンドロールが印象的。

ターミネーター、エイリアン、BTTF、ジュラシックパーク等ゴジラを観ればその時代の流行がわかる。未来人周りのチープさは昭和ゴジラの宇宙人たちの変奏と思えば許容できなくもない。霧の中でUFOを自衛隊が取り囲む画は悪くないし。とはいえ、ドラットが可哀想という視点がいくらなんでも無さ過ぎる。個人的には三大怪獣やGMK、キング・オブ・モンスターズのような人間に操られていないキングギドラが好きだ。

『ゴジラvsモスラ』

インディ・ジョーンズをお安くした感じのアクションや20世紀末特有の説教臭さなどドラマパートはしんどいが、モスラとバトラの幼虫は怪獣として面白いし、光線と粒子が飛び交う特撮は確かに「極彩色の大決戦」だ。モスラ成虫のぬいぐるみが欲しい。あと宝田明の英単語の発音が好き。

内容はともかくとしてVSシリーズは作り手がオタクじゃない感じがする。荒唐無稽な話でも一般向け映画を作っているんだという意識があるというか、あまり「引用」を感じさせない。

『ゴジラvsメカゴジラ』

VSシリーズの当初の完結編だけに、ストーリーも特撮も集大成の熱気を感じる。人造物(メカゴジラ・ガルーダ)に対して生命(ゴジラ・ラドン)を善とするのは当時のエコロジー的な流行りもあったのではないかと思う。

『ゴジラvsスペースゴジラ』

肉弾戦に光線・爆発・ビル破壊全部乗せの怪獣バトルはvsシリーズ最高だと思う。スペゴジの頬の辺りから生えてる牙はビオランテの名残りか。無人島で独りゴジラに戦いを挑み続ける柄本明には『終着の浜辺』辺りのJ・G・バラードの登場人物みを感じる。

超能力開発センターがサイキックセンターに名称変更していた。『vsビオランテ』の予知夢の絵は名シーンだったが、今作のピラミッドの中で瞑想する子供たちはなかなかヤバい絵面(しかも国の機関)。Mobile Operation Godzilla Expert Robot Aero-type略してMOGERAとかいう無理やりなネーミングは好き。

『ゴジラvsデストロイア』

赤熱し、凍結し、溶けて骨になる。これまでにない姿を見せるゴジラとそれを実現させた特撮が凄い。着ぐるみの仕掛けで窒息しかけたこともあったという文字通り命がけの演技。前作までは敵怪獣を描くためのゴジラだったが今作はテーマがゴジラ自身で、敵怪獣はそのためにオキシジェンデストロイヤーの化身として現れる。デストロイア幼体はまんまエイリアン(とはいえ劇場で観た当時はガチで怖かった)だけど『空の大怪獣ラドン』のように原因不明の事故が前触れとして描かれるとわくわくする。

冒頭から緊迫した展開、初代「ゴジラ」の文字が弾けて本作のタイトルが出る演出、そして1作目の出演者が40年後の本人役で登場。これで最終回という雰囲気が全編に漂っている。山根博士オマージュの台詞や1作目の映像が情緒に訴えかけてくる。

ラストの警句は蛇足だが、ゴジラの死と共に登場人物達が白い光に包まれる瞬間の時間が止まったような荘厳さに、何か(ゴジラだろうか)が向こう側に去ってしまったことを強く感じた。

雰囲気の暗さもあってvsで一番好きな作品。前作との間に阪神大震災と地下鉄サリン事件が起きていることも作品の終末感に影響しているんだろうか。

『GODZILLA(1998)』

特撮ファン・ゴジラファンはこの作品をきちんと評価していたという風潮があるので言いにくいが、子どもの頃はこの作品が嫌いだった。好き嫌い抜きに観れるようになってようやくこの作品がまぎれもない優れた怪獣映画だと納得できた。

ゴジラのキャラクター性を度外視して(ゴジラの名を冠する以上それはやっぱり問題だとは思うのだが)巨大な生き物=怪獣が現れる面白さ不思議さをこの映画では描いている。

この作品の魅力は何と言っても「大きいものが大きく見える」という怪獣映画の根源的な快感にある。トンネルの向こうから覗く眼、漁港を闊歩する爪先、木っ端微塵にされる桟橋と逃げる釣り人、マディソン・スクエア・ガーデンから突き出した顔。視点や対比を駆使して描かれる巨大さに何度も目を瞠る。

だからこそ後半のジュラシック・パークもどきの脱出劇には感心しなかったのだが。あと流石にあの巨体がマンハッタンを隠れ家にするのは無理があるのでは。水中に帰った方がゴジラ的ではある。

とても面白い作品ではあるのだが、ゴジラ映画はゴジラのキャラクター性と切っても切り離せないものだと思うので造形や解釈に対する戸惑いは残る。「ゴジラと思わなければ」なのか「こういうのも含めてゴジラ」なのかいまだに態度を決めかねている。

『ゴジラ2000 ミレニアム』

ミレゴジ雛形という最高に格好良いゴジラを生み出すきっかけとなった功績は大きい(スーツ版も好きですが)。冒頭の根室上陸はそれだけで元が取れる素晴らしさ。大きく恐ろしく驚異的なものがそこに居る、ということが信じられる特撮だった。・・・のだけれど、ゴジラを追いかける主人公3人がノイズになってしまっている。道楽に巻き込んだ娘をパートナー呼ばわりする父親も苦手だし、わざわざ同行しながら不貞腐れてばかりの記者もなんだかなあと思う。

「ゴジラとは何か」をテーマに掲げながら途中から宇宙人を追いかけ始め、微妙に歯切れの悪い怪獣バトルに持ち込まれる。VSシリーズから脱却しようとして、或はエメゴジに対して日本独自のゴジラ像を示そうとしてし切れない感じがフルメタルミサイルという兵器にも表れているのではないか。

『ゴジラ×メガギラス G消滅作戦』

ゴジラを撮りたくて映画監督になった人の作品はなるべく称賛したいのだけど・・・個人的には厳しいところが多かった。一応リアルタイムでも観ている。チャラい谷原章介が新鮮。超小型ロボットでカレー作るって十分凄いのに、手品のネタが割れて子どもにがっかりされる登場シーンの流れが納得いかなかった。こういうやり取りにしたいという型があってそこにディティールを流し込んでいるようなぎこちなさが全体的にある。登場人物のドラマとゴジラを結びつけた点や、ゴジラ襲撃による首都移転、水没した渋谷、メガヌロンを敵怪獣としてリメイクするなど面白いアイデアはいくつも見られるのだが。

とはいえG対策本部がなんとなくテレビの特撮っぽいノリだったり、戦闘機のデザインと機動性が現代日本の景観から浮いてたり、怪獣バトルでコマ送りやブレや不自然な加速を多用するのが(アニメ的な演出を意図しているのかもしれないが)個人的にはうーんとなってしまった。

『ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃』

ミレニアムで一番好きな作品。ゴジラ戦没者説を取り込んだオカルト風味の異色作(ゴジラには異色作しかない気もするが)。Jホラーを思わせる仄暗い画面と大谷幸の音楽が緊迫感を高める。伝奇的なバックグラウンドの怪獣に現実感を与えようとした(特に前半の)描写が素晴らしい。不鮮明な明かりの中に一瞬姿を現す海底のゴジラやトンネルのバラゴン、いつの間にか姿を変える景色、格子から覗く巨大な目、逃げ切れない生存者など、まるで幽霊のように怪獣を表現している。

GMKのゴジラ自体は怖いというより狡猾で、なんとなく人間臭い(戦没者の思念の集合体という設定だからかもしれない)。護国聖獣に殺される人間がことごとくチャラい若者なのも怪獣描写に感情が出ているようで気になる。

ゴジラ英霊説を採るとして、戦没者の怨霊と日本の風土の守護神が戦う構図はどうなんだろう、という疑問も浮かんでくる。それはともかくとしてこの作品の魏怒羅がキングギドラ一族で一番好き。あまり強くないけど。

主人公の職業にゴジラ映画におけるマスコミの立場の変遷を感じる。かつては新聞記者がゴジラ映画の花形で、政府や自衛隊の意思決定の場に(なぜか)堂々と顔を出していたのが、今作ではケーブルテレビの零細局。『シン・ゴジラ』ではとうとうSNSに追いつかれる。

『ゴジラ×メカゴジラ』

×メガギラスと話の骨格は同じだが洗練された印象。冒頭の嵐の中のゴジラが素晴らしい。暗闇と雨と爆発が着ぐるみに生命を吹き込み、住宅街を走るメーサー戦車という小さな驚きがゴジラという大嘘への橋渡しをする。雨で兵器の威力が落ちる設定は渋い。

ゴジラの影が薄いというより機龍がゴジラであり主役。八景島での暴走は『メカゴジラの逆襲』を思い出す。ゴジラとゴジラを戦わせる人間側の残酷さや、クライマックスのアイロニーにどの程度自覚的なシナリオだったのかが気になる。

『ゴジラ×モスラ×メカゴジラ 東京SOS』

機龍二部作の後編かつミレニアムの実質的な完結編。シリーズの疲弊と集大成の両方を感じる。機龍は存在が矛盾の塊。ゴジラと戦う兵器でありながらゴジラを呼び寄せる原因で、ゴジラにとっては敵であると同時に同族であり、二体の殺し合いは(親子の)抱擁でもある。モスラは蛇足感があるが、幼虫が糸を吐く場面はゴジラを弔うかのようだった。 モスラとゴジラの対決は本筋に関わらない脇役同士の戦いのようで感情移入に困る。全体として、マンネリというかオマージュというか、何かが何かをなぞっているような、怪獣映画を演じる怪獣映画という印象を受ける。

そもそもゴジラの骨は1作目で溶けてなくなっているはずなのだが、骨格が残り兵器として再利用される設定は2作目以降リブートし続けられるゴジラ映画の隠喩に思える。オチは正直蛇足に感じた。

VSと比較したミレニアム期の特徴はゴジラの上陸をきちんと描いているところだ。エメゴジの桟橋シーンの衝撃はそれだけ大きかったのか。

『ゴジラ FINAL WARS』

良かった点:生頼範義版のポスター、ゴジラの熱線の射程距離、カイザーギドラ、北村一輝 平成版チャンピオンまつりというか怪獣映画の着ぐるみを被ったアクション映画。マグロ云々の台詞に喜んだことを今は反省している。

人間パートと怪獣特撮が連動してないからって人vs人の格闘とシンクロさせればいいってものじゃないだろう、と公開当時は思っていたが、監督が描きたいのはむしろ人間同士のアクションで怪獣は添え物、とは言わないまでもその延長で怪獣を撮っているのだとわかった。理屈の上では許容しにくいけど意外と楽しめたのはノリがハイローっぽいからか。生頼範義ポスター版のFWゴジラが見たかったという思いはある(まあアレはミレゴジですが)。

『GODZILLA(2014)』

平成ガメラに通じる守護神ゴジラ。「ゴジラが目覚める、世界が終わる」ではなく「世界が終わる、ゴジラが目覚める」なのだからキャッチコピーでも実は示唆されていた。『キング・オブ・モンスターズ』もそうだけど、レジェンダリーのゴジラは1カット1カットがとても絵になる。

今作の一連の事態は人類の罪というよりミスや不手際と言った方がよく、その尻拭いをゴジラがやる形になっている。神話的存在=怪獣に対する人間の無力さの表現なのだろうけど、制作に板野義光が関わっているので『ゴジラ対ヘドラ』的な皮肉か?とも思ってしまう。

暗くて良く見えなかったり美味しいところを省略したりすることに欲求不満を感じなくはない。ただ、それらの見づらさは登場人物から見えるものだけを見せているからだとも思う。視点によって人間を描こうとしているというか。

空港の爆発で悲鳴を上げる人間たちがゴジラの出現で静まり返るシーンが好き。

『シン・ゴジラ』

ゴジラの脱構築かつ再構築。怪獣はそこにいるだけで、ただ歩くだけで世界を一変させることを再発見させてくれた。60年以上に渡って積み重ねられたキャラクター性を一旦脱ぎ捨て、ファーストコンタクトに立ち返ってゴジラ的なものを(ゴジラとは何かを)再び作り上げた。

いかようにも深掘りできるが、表面的には過去のゴジラ映画の文脈が可能な限り排除されている。ゴジラをゴジラと解釈したうえで、新たに出会い直すことを可能にしている。歴代のゴジラ映画や怪獣映画を踏まえつつ、それらの文脈に依らない強度を持ち得たことが凄い。

人間パートはすべて手続きの問題として描かれる。組織に属する個々の人物の描写はあれど、あくまでゴジラという事象への対処に一切は集約される。

面倒な手続きを、形式的な会議を繰り返し描き(この作品の凄いところはそれすらエンターテインメントにしていることだが)現実の地歩を固めていったからこそ、ゴジラが東京を焼き尽くす光景が夢の中のような幻想性を帯びる。

『空の大怪獣ラドン』

炭鉱町の怪事件が世界規模の災害に繋がるスケール感。連続殺人のミステリーから人類対ラドン、そして彼らの最期までを描いて80分に収める完成度が凄い。メガヌロンは怪獣の不思議さを、ラドンは怪獣の哀しさを体現している。

『モスラ(1961)』

モスラ幼虫の特撮は怪獣映画の最高峰だと思う。そこにいるだけで世界を一変させてしまうのが怪獣だと教えてくれる。話の骨格は『キング・コング』と同様だが、モスラを制御できない自然の象徴として描いた点が日本の特撮映画からのアンサーか。

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