『ラッキ―』・・・老人版『パターソン』のような

かなり前に観た映画の感想。

老人版パターソンという言葉が浮かぶ、繰り返しと対話の映画。ラッキーの日常はそれ自体が言わば詩だ。ヨガをやり、牛乳を飲み、クロスワードパズルを解き、悪態をつき、タバコを買い、クイズ番組を観て、ブラッディマリアを飲む。リズムを刻むように、毎日のルーチンをこなしていく。

パターソンとの一番の違いは独身者であること(とはいえ決して孤独ではない)と死が遠くない年齢だと言うことだろうか。

そんな彼の日課が、ある日、ちょっとした出来事で中断される。それからラッキーは「死」について思い始める。繰り返しの日常が断ち切られたように、変わらない人生もどこかで終わるということに向き合わされれる。

現実主義者のラッキーは、現実(真実?)は物(THING)だと常々言っている。来世は無いと自分で言っているようなもので、そういう人間が死について考えだすと逃げ場がなくて本当に怖くなってしまう。家族もいないから、死んだ後にも残るものという救いもない。ハワード(デヴィッド・リンチ)が亀に遺産相続しようとするくだりや弁護士に喧嘩を売ったところなど、死んだら終わりという彼の認識が表れている。(弁護士となんとなく気を許しあっているのが良かった)。

遺された家族のために遺言状を書いたという弁護士に対して「でもお前は死んだままだ」と言うラッキー。この感覚には非常に共感できる。後に残る人達がいようと、死んだ後のために十分な備えをしようと、記憶を引き継いだクローンやAIが目覚めようと、本人は死んだままだ。

それをどう乗り越えるのか。

終わりが近づいても、まだ成長できることはある。それは「自分がいなくなること」との向き合い方を知ること。終末に際してできることは、ただ微笑むだけだと。それが、90を過ぎたラッキーが新たに学んだことだ。

この映画は対話の映画である。誰もかれもが自分の来歴を語り合う中で時間が流れていく。

時間と言えば、この映画で印象的な存在である亀とサボテンは、どちらも人間より長い時間の中で生きる動植物である。

亀の飼い主である、デヴィッド・リンチ演じるハワードの善良な変人ぶりも楽しい。

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