『霊的ボリシェヴィキ』が面白かった

 どことも知れない施設に集められた外見も年齢もばらばらな男女。車座になり、中の一人が語る話に耳を傾けている。語られているのはある囚人の死刑の間際に起きた不気味な出来事だ。語り終わると、参加者のうちの若い男がつまらなそうに「結局、人間が一番怖いとしか思えない」と言う。するとすぐさま、会の中心人物である霊媒師が彼を殴り飛ばす。霊媒師の相方の眼鏡の男が「それは禁句です」と言う。不用意な発言でせっかく集まってきた霊気が散ってしまったのだという。それから、眼鏡の男は参加者たちに向かって「こういう時はボリシェヴィキ党歌を歌いましょう」と呼びかけ、その場の人間は皆立ち上がり、スターリンとレーニンの肖像の前でボリシェヴィキ党歌を合唱し始め、『霊的ボリシェヴィキ』というタイトルが画面に現れる。
 正直爆笑した。
 なんだこの映画は、と思った。わけがわからない。しかしながらこの映画、とても面白いのだ。
 この映画について考えようとした時、まず頭に浮かんだのは「怪を語れば怪に至る」という言葉だ。
 この作品は文字通り、「怪を語る」映画である。なんといっても、登場人物がただ座って怪談話を聴かせているだけの場面が大半を占めているのだ。これは映画でやることなのか?と戸惑うくらいに、とにかく語る。
 作中では、非常に限定された簡素な空間で、登場人物がそれぞれ自らの体験した怪談を語っていく。集められた人たちは皆、何らかの形であの世に触れたことがあるのだという。会を主催している霊媒師と眼鏡の男は、参加者に自らの心霊?体験を語らせることで、何かこの世ならぬものを呼び出そうとしているらしい。映画は、それから色んな怪奇現象が起こり、何やかんやあって破滅があり、新たな「霊的ボリシェヴィキ」の誕生を見届けて幕を下ろす。概ねこんなあらすじだったような気がする。書いてみてもよくわからない話だが、ストーリー自体は、怪を語ることから始まって、怪の出現で終わるという、非常にシンプルな構造だ。
 集まった人間が一人一人怪談を語り、最後の話が終わった時に怪異が起きる。これはつまり百物語である。
 パンフレットによれば、当初のプロットでは語りの要素はなく、監禁・拷問によって霊を呼び寄せようとする話だったらしい。つまり、何かを召喚する儀式、というのが元からのコンセプトだった。
 そのうえで、完成形であるこの映画は、百物語を儀式として活用した。怪を語って怪を呼び出そうとしたのだ。
 しかも、それはストーリーに限ったことではなく、この映画における映像・音の表現や、映画の外側まで巻き込んだメタな仕掛けも含めて、作品そのものが怪を語り怪を呼ぼうとしている。
 この映画における怪とは何か。生きている人間が怖いという常套句は真っ先に拒絶されている。また、物陰から突然に何かが飛びかかってきたり急に大きい音がして驚かせる類いの演出も、この映画では極力排除されている(個人的にはそれが非常にありがたかった…)。そもそも作中でやっていることが降霊会みたいなものなので、純粋に、超自然の恐怖を扱おうとしているのはわかる。スターリンとレーニンの肖像が掲げられているのも、いかにも彼らの霊を呼び寄せようとしているかに見える。
 しかしこれがちょっと曲者だ。作中で死後の世界からのメッセージが話題に出た時、浅野(霊媒師の相方の眼鏡の男)は、化けて出ることがあの世の実在の証明にはならない、現世に浮遊する残留思念の可能性もあるのだからとこれを否定している。さらには終盤で、霊媒師があの世なんて存在しない、化け物を呼び出すしかない、とこれまでの話をすべてひっくり返すようなことを言い放ってしまう。
 思うに、死んだ誰かの幽霊が出るというのも、ある意味では合理的で説明のついてしまう話なのだ。本当に得体が知れないのは、幽霊ですらない。
そう考えると、参加者たちが語った話にも、死者の霊だけではない何かの存在が感じられてくる。
 特に面白いと思ったのは霊媒師の話で、山でわけのわからないものに遭遇して障りを受けるというありがちな話なのだが、山の稜線を這うものというスケール感、土俗的な禁忌、そういう魅力が短くシンプルながらも感じられた。目撃した「何か」をドイルの妖精写真に喩えたのも興味深い。この世と異なるレイヤーに貼り付けられた存在ということなのか。
 ここで、杉浦日向子の漫画の次のような台詞を思い出した。「正体など見きわめる必要もあるまい。あれは、わからぬものなのだ」。こちらも『百物語』というタイトルである。
 つまり、この映画が扱っているのは「人間が一番怖い」の対極にある人知を超えた恐怖、「あの世」ですらない異界の、「わからぬもの」の恐怖なのだと思う。
 では、この映画はどうやって怪を語り、怪を呼び出しているのか
観ていて感じたのは、この映画における怪異は何かに紛れてやってくるということだ。
 舞台となる建物は、鳥の鳴き声、機械の作動音、街の生活音、といった、さまざまなざわめきに包まれている。語りに集中し、聞き手が静まれば静まるほど、それらの音が意識される。単調で無機質な音、囁くような音、ひたひたと猫の歩くような音。聴いているうちに、それらが皆本当に自然な音なのかと違和感を覚えてくる。足音に聞こえるのは一体何なのか。生活音と言ったが、設定では人里離れた場所のはずだ。ではなぜ雑踏のようなざわめきが聞こえるのか。さらにこのざわめきが、画面の中のものなのか、劇場内の音なのかはっきりしないのも不安をかきたてる。
 また、一人目の参加者が語っている時、監視カメラのようなアングルで実験の様子が映されるのだが、舞っているホコリに紛れて光の粒が時折飛び交っているのだ。これ、心霊写真でおなじみのオーブというやつではないのか。
 きわめつきは、参加者たちが皆して笑っている時に混ざって聞こえた男の野太い笑い声だ。それにしても、いきなり笑いだした霊媒師はなんなんだろう…。
 ついでに言えば、たびたび姿を見せる「裸足の女」も、停電や夜の暗闇に紛れてやってくる。
 このような、何かに紛れさせる表現は、怪異により実在感を与えている。それに加えて、画面の隅々に目を凝らし、些細な物音にも耳を澄まして恐怖を探し求めるという楽しみも生まれる。
 ホラー映画が魅力的であるかどうかは、語りたいシーンがどれだけ多いかによると思う。視覚の芸術である以上、何かこの世ならぬもの、異常なもの、恐ろしいものをどれだけ画面上に表現できるかが重要だ。
 この映画では、何かが現れそうな、潜んでいそうな画面の配置がとても多い。鏡、暗闇、物陰。長尾と話している由紀子の目線だけで裸足の女の存在が仄めかされる。三田(最初に話した男)がトイレで独りごとを言うシーンは、鏡を覗き込むというだけで怖い(「押入れにいたのは本当に人形だったんですか?」と鏡に問いかけるのも不思議な感じだ)。至るところに怪異の居場所がある。
 画面の端っこで何かが起きている、というのもこの映画の特徴だと思う。これは恐怖演出に限らなくて、冒頭のボリシェヴィキ党歌斉唱の際に初参加の由紀子に歌詞カードを見せている長尾、という笑えるシーンもある。片岡(浅野の弟子の女の子)が終盤、拳銃で参加者全員を粛正して回るシーンでは、射殺する相手に近づく彼女の姿が何か金属板らしきものに映っていた。また、終盤の由紀子が何かに憑りつかれたように豹変する場面では、画面の中心はスターリンとレーニンの写真と他の参加者たちに固定されたまま、スタスタ歩き去っていく由紀子が画面の端に映されていた。その時の由紀子の顔に光が強く当たって顔がぼやけていたのも興味深い。夢に出てきた女の顔がどれだけよく見てもどうしてもぼやけていたという長尾の話とつながるのか。幽霊は顔がはっきり見えないという話も思い出す。(ちなみにこの後の由紀子の高速ヒヨコ歩きはかなり面白い)
 ホラー映画を観る時は極力目を瞑り耳を塞ぎたいのだが、この作品は、ホラー映画こそ目を瞠いて耳を澄まして楽しむものだと教えてくれる。
 この映画は、工場の一室という狭い空間で話が完結している。この空間は結界であり、参加者は全ての儀式が完了するまで外に出ることが許されない。観客は怪談話をする登場人物の姿を映画館の暗闇の中で眺めている。そうしていると、ふと奇妙なことに気付くのだ。怪談話を聞く登場人物と、それを眺める私たち観客。どちらも語りを聞いていることに変わりはないのではないかと。ここに来て、怪談話を語る映画という試みの意味が解ってくる。観客と登場人物の置かれた状況をシンクロさせ、画面の内側と外側の垣根を取り払おうとしているのだ。というより、映画館を結界の内側に取り込もうとしている。その結果、観ている私たちも否応なく怪異の場に立ちあわされることになる。画面内のざわめきと映画館内の音の区別がつきにくいのもこの印象を強めている。だとするなら、上映が終わって映画館内が真っ暗になる瞬間は、百物語の最後の蝋燭が吹き消される時なのかもしれない。
 正直ボリシェヴィキ等の思想・歴史的なことは全然わからないので触れられなかったが、映画の最後に現れ、歩き去って行ったアレの姿には、恐怖以上に不思議な解放感を覚えた。

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