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62【もっとはやくに、秘密と別れ】(百合)

(12232文字)

 サチエさんとは公園で出会った。ただしくは、ベンチに佇んでいるところを不審に思い、私から彼女に声をかけた。サチエさんは遠目からでもお歳を召していると判る背格好をしており、いちどは通り過ぎた私であったけれど、用事を済ませてからもういちど通りかかったところで、来るときと同じような体勢でじっとしているサチエさんを見かけたのだった。

 ベンチのうえには、邪魔にならないように重ねて置かれている荷物がある。猫が三匹折り重なっているふうに見えなくもない。彼女には持って歩くには厳しい量だ。

 ひとまず、だいじょうぶですか、と近寄ったところで、私とサチエさんの縁は結ばれた。

「あのときのあなたときたら強引なんだもの」

 サチエさんの淹れてくれたお茶をすすりながら私は、そっちこそ、と言い返している。「サチエさんなんか、だいじょうぶの一点張りなのに、ずっと動こうとしないし。暗くなってからもその場から動かないでしょ」

「だってそれはあなたがたくさん話しかけてくるから」

「事情を聞きだそうとしてたんです。誰かさんがしょうじきに困ってるって言わないから」

「あら、そうなの」

 家が公園の近くだと判ったところで、ムリヤリ荷物を手に取った。ダイエットがしたいので、と言い張り、半ば荷物を人質にとって家までの道を案内させた。

 部屋のなかは思っていたよりも片付いていた。私の部屋よりもよほどきれいで、どこかの旅館の一室じみた質素さがあった。

 何もおもてなしはできないけど、と晩ごはんをご馳走しようとするサチエさんを手伝いながら、家族はないのか、と水を向けた。聞けば、どうやらずっと独りで生きてきたという。

「周りのひとたちに負けたくなくて、たくさん働いてたころに、こんな大きな家を買っちゃって」

 たしかにサチエさん一人で住むには手に余る広さの家だ。

「掃除のしがいがあるから、暇をつぶすにはもってこいなのよね」

 もってこい、の言い方がかわいらしく、私はそのとき、ああきっとこれからも私はここを訪れるだろうな、と予感したのだった。

 案の定、その週の休日にサチエさんの家を訪れた。初めて出会った日の別れ際に、またきてもいいですか、と許可は得ている。彼女は、こんなところでよければいつでもどうぞ、ときょとんとしながらも言ってくれた。

 いざ訪ねてみると、忘れものでもあったかしら、なんてオロオロするものだから、私のほうでかしこまってしまう。電話の一つでもかければよかったのかもしれない。思うものの、サチエさんの生態からすると、ふだんから電話が鳴ってもでないだろうな、と想像ついたので、いなければいないで帰ってくればいいや、と足を運んだのだった。

 それからというもの、休日になればサチエさんの家へ遊びにいくのが私の習慣となった。サチエさんが独りだったように、私もずっと独りだった。どこかで、人生の先輩として、その道を歩んでみた末の答えを知りたかったのかもしれない。

「寂しくないんですか、独りで」

 ようやくそんな失礼な言葉を投げかけたのは、サチエさんと出会ったからずいぶん経ってからのことだった。このころになると私は仕事が終わったその足でサチエさんの家へと、おみやげを持っていき、いっしょに夕飯を食べることも珍しくなくなっていた。

「寂しく? そうねぇ」

 サチエさんは近頃足腰がめっきり弱くなってしまったらしく、椅子に座りきりでいることが多い。「寂しいと思えば寂しいし、寂しくないと言えば寂しくないし。なんだか昔の思い出みたいなものよねぇ。思いださなければそれがあるのかもよくわからないし」

「おー、なんか含蓄深いお言葉が」

「そう? うふふ」

 サチエさんは私の、なんてことない言葉にもよろこんでくれる。そこに屈託はなく、無邪気な幼子を見ているようで、なぜかは分からないけれど、私は無性に居たたまれなくなることがある。

 なぜこんなひとがずっと独りで?

 そういう失礼な思いがあったのかもしれない。

 サチエさんの暮らしぶりはどちらかといえば裕福と言えた。税金暮らしとはいえ、蓄えはあるようで、ときおり私に黙って旅行に出かけることがある。旅行と言っても日帰りが多く、私が家にあがりこむ時間帯には折り目正しくいつもの椅子に座って、いらっしゃい、どうぞ、と笑顔を見せてくれる。

「サチエさんはあれだね。警戒心が足りない気がする」

「警戒心?」

「玄関口に鍵もかけないで。私がかってにあがりこむのも咎めないし」

「違うのよ」サチエさんは言った。「きょうはもう疲れちゃって。お出迎えできないから、こうしてるだけなの」

 いつもじゃないですか、と反論するだけ無駄なので、

「きょうはどこに行ってきたんですか」

 テーブルのうえのおみやげを手に取る。「おせんべい? 美味しそうですね。食べても?」

「どうぞ」

 以前からちょくちょく買ってくるようになったそれは、あなたが食べるかと思って、とサチエさんが言うものだから、遠慮するのも却って失礼かと思い、見つけしだい食べることにしている。そうでないとサチエさんはずっととったままにして、しまいには忘れてしまうのだ。消費期限を大幅に過ぎた、飲食物を溜めこむことに抵抗を覚えないひとだから、おみやげ以外にも、私はたびたび、サチエさんの台所整理を手伝ったりする。

「うん美味しい」まずは一口齧る。「お茶がほしくなりますね。淹れていいですか」

「ごめんねぇ。疲れちゃって」

 立ちあがろうとする素振りをいちおう見せるサチエさんに、いいからいいから、と手のひらを向ける。「そう言えばずっと訊こうと思ってたんですけど」

「あなたはいつも質問するのねぇ」

「サチエさんはあれ、ヘルパーとかは頼まないんですか」

「ヘルパー? 介護とかそういうの?」

「ええ。まだまだお元気ですけど、お手伝いさんが昼間にもいたら便利じゃないですか」

「まるで夜にもいるみたいね」

「いるでしょ、ここに」

 地団太を踏んでみせると、サチエさんはコロコロと笑った。

「そうねぇ。頼んでもいいのだけど」

「何か心配ですか? まあ、たしかに家に見知らぬ他人を招き入れるのには抵抗がいるでしょうけれども」

「あなたがいるのにいまさらよねぇ」

「最初は私が入るのすら躊躇していたじゃないですか。いえ、それは正しい反応ですから、よいのですけれども」

「あらあら。根に持たれちゃった」

 お茶を淹れるついでに、夕飯の準備をする。素材だけごろりとまな板のうえに載っている。私を当てにしているわけではないのだろう。本当に、ここまでやってから疲れてしまって、料理をつづけられなかったのだ。さいきん頻繁にこうした光景を目の当たりにしているので、いつも玄関のまえに立つと、この奥に動かなくなっているサチエさんがいるのではないか、とついつい嫌な想像を巡らせてしまう。

「お金の心配もありますもんね」

 トロロを擦らずに、細切りにしてオカズにした。サチエさんは顎が弱いくせに、シャキシャキじゃないと美味しそうに食べないひとなのだ。

 醤油をかけてさっそく箸を動かすサチエさんは、

「トロロ。しゃきしゃきで、美味しい」

 案の定、ほくほくと顔をほころばせた。ヘルパーの話を振っても、のらりくらりと交わされる。

「お金は補助金が出ると思うんですよ。サチエさんのお歳なら、年金の範囲内で雇えると思うんですよね」

「あなたにお給料もだせてないのに」

「そりゃ私はべつに働きにきてるわけじゃないですから」

「あなたがこなくなっちゃうのも寂しいし」

「や、ですから」

 いっしゅん胸がつまった。言いたくなかった言葉だったのかサチエさんは、それよりも、と話を逸らすようにした。「あなたにはいいひとはいないの? こんな老いぼれにかかわずらっていたら、あたしみたいになっちゃう。あなた、まだ若いのだから」

 だからなんなのだ、と頭に血がのぼる。せっかくつまった胸のナニカがしゅるしゅると抜け落ちていくようだ。

「サチエさんみたいになりたいんですよ、私は。人生の先輩のもとでこうして修行を積んでいるわけです。これからも末永くご教授ねがいたいですね、私は」

「あら、うれしい」

 とぼけた顔でサチエさんは言った。

 サチエさんがたくさんの薬を飲んでいるのは知っていた。ピルケースとでも言えばよいのだろうか。網の目に区切られたプラスチックケースに、宝石を仕舞うみたいに、錠剤がいくつも並んでいる。

 一日に何種類もの薬を飲んでいるのだ。

「なんのオクスリなんですか」

「秘密」

「なんでですか、いいじゃないですかケチ」

「そうなの。ケチなの」

 じぶんの弱みとなると意固地になって漏らさんとする姿勢は、学び甲斐がありつつも、もうすこしそばにいる人間の気持ちにもなってほしいとヤキモキした気持ちを抱きもする。

「サチエさんはまだ私のことを信用してくれないんですね」

「信用?」

「私はもうずいぶんじぶんのことをしゃべりましたけど、サチエさんはご自分のことを私には教えてくれないじゃないですか」

「そうかしら」

「そうですよ。だいたい、本当に身寄りがないんですか? こんな大きな家一人で抱えて。税金だってバカになんないんじゃ」

「ちゃんと払ってますよ。計算だってじぶんでしてますからね」

 はるか年下の私が舐めた口をきくとしっかり張りあってくるあたり、未来のじぶんを見ているようだ。

「年金だけじゃムリじゃないですか? 貯金切り崩してますよね。ヘルパー雇えないのもそれが理由とかなんじゃ」

「またお金の話。だいじょうぶですよ。あたしが死んだら残った財産くらい、あなたにちゃんとあげますから」

 ピンと張った糸でこちらの頬を弾くような言葉に、私はカッとなる。「いらないですよ、冗談でもそういうこと言わないでください。なんですか。サチエさんは私がサチエさんの遺産目当てで仲良くしてるって、慕ってるって、本当にそう思ってるんですか。だったら私哀しいです。すっごく、とても、哀しいです」

 こちらの想いがうまく伝わっていなかったと突きつけられたようで猛烈に悔しくなった。なんだったら初めてサチエさんのことなんかどうなってもいい、いっそのこともう顔も見せなくなって、そのまま一人で野たれ死んでしまえ、とひどい考えを、それはどちらかといえばふだんから脳裡に浮かべおそれているじぶん自身の将来像じみていたのだけれど、浮かべては、消した。

 ごめんなさい。

 言ったのは私ではなく、サチエさんのほうだった。

「あなた、もうこないほうがいいと思うの。人と関わるのもすこし疲れてしまって。ううん、あなたが気にかけてくれたことはすごくうれしいの。うんとうれしい。ただ、ね?」

 その、「ね?」に込められた言葉がどんなものであるにせよ、サチエさんが私を拒んでいることだけはハッキリと伝わった。

 私は冷静だった。じぶんで思っていた以上に、彼女との別れを目のまえに突きつけられても、涙の一つも滲みませられないのだと、そんなじぶんに失望できたくらいには感情を乱さずにいられた。

「そうですね」

 私は言った。「いままで付きあわせてすみませんでした。楽しかったです。お元気で」

 頭の芯が静かすぎる。

 ふしぎに思いながら、食器を台所まで運び、ヘルパーの件、考えてみてください、とだけ告げ、サチエさんの家を、あとにした。

 サチエさんは、「ね?」のあとは何もしゃべらなかった。一言もなく、ただ私が去るのを見届けた。

 つぎの日から私は仕事帰りに、サチエさんの家を遠巻きに眺めて帰った。家の窓から明かりが漏れているのを目にし、息をひとつ吐いてから帰路につく。

 サチエさんがどうなろうと知ったことではなかった。そのはずだった。ただ、独り身の年配者に気を配るのは、いっぱしの社会人として、あるべき姿の一つだとじぶんに言い聞かせる日々を送った。

 せめてヘルパーを雇ったと知れればそれでよかったのに、ひと月経っても、サチエさんの家からサチエさん以外の息遣いはうかがい知れないのだった。

 ある日、サチエさんの家に明かりが灯っていなかった。寝たのだろうか。残業をした日だったので、寝ていてもおかしくはない時刻だったが、ふだんのサチエさんならまだ起きている時間帯だった。

 胸の奥がざわついたものの、その日はじぶんの不安から目を逸らし、通りすぎた。

 翌日、定時で仕事を切りあげ、気持ち早足で道を進んだ。夕暮れまでは時間があった。缶コーヒーを買い、これを飲んでいるだけだから、のテイをとりつつ、サチエさんの家を見張った。夜の帳が下りてからも、サチエさんの家に明かりは灯らなかった。

 嫌な予感はほとほと確信じみていた。

 もうこないほうがいいと思うの。

 サチエさんの声が脳裡によみがる。

 ね?

 彼女の声が、どこか寂しそうに聞こえた。いまさらのように、なぜ彼女はあんなことを言いだしたのか、とそんなことを考えながら、答えの像の結ばないままに、サチエさんの家の玄関扉に手をかける。

 鍵は開いていなかった。

 庭のほうに回ってみる。障子がしまっており、なかが見えない。

 救急車を呼んだほうがいいだろうか。

 まずは警察か?

 色々悩んだ末に、まずは隣の家のひとに事情を訊こうと結論する。お互い不審に思ったなら、窓ガラスを割ってでも中に入ろうと思った。証人がいれば、さいあく何かの間違いであっても、泥棒として逮捕されることはないだろうと考えた。

 いざ隣家のインターホンを押し、出てきた婦人に事情を説明すると、婦人は、ああ、と声をあげ、サチエさんの名字を口にした。

「――さんならおとついの夜だったかな、そうそう、救急車が止まってて、何事かって旦那と話してたんだけど」

「病院に運ばれたってことでしょうか」

「じゃない? 詳しいことはわかんないんだけど。ごめんなさいね」

 相手が頬に片手を添えたので、気づけばこちらも、歯が痛いの、みたいなポーズを真似ている。

 救急車がどちらの方角に行ったかを最後に訊き、礼を述べ、その場を辞した。

 病院に運ばれたのなら無事なはずだ。きっと体調がわるくなり、じぶんで救急車を呼んだにちがいない。

 だいじょうぶなはずだ。

 言いきかせながら、私がいれば、と背筋に走る悪寒を抑えきれずにいる。

 いてもたってもいられなくなり、もとよりの大型病院に足を運んだ。おととの夜に急患で運びこまれた人のなかに、これこれこういう名前の、お年寄りがいませんでしたか、と受付けで訊ねると、しばらくしてカードを差しだされた。

「ご家族の方ですか? こちらにお名前と、患者さまとの続柄をご記入ください」

 どうやらここであっていたようだ。じぶんの名前を書き、それから迷ってから、続柄に、友人、と続ける。カードを返すと受付けの職員は紙面を見ていっしゅん眉を結んだが、すぐに笑顔で、病室の番号を口にした。

 病室を訪ねると、ベッドが左右に三つずつ並んでいる。いずれのベッドにも人が寝ている。年配者が多いな、と仕分けされるヒヨコを連想した。

 サチエさんはいちばん奥のベッドでいびき声の一つもなく寝ていた。

 面会時間が五分しかなく、致し方なくその日は、メモだけ残し、病室を去った。

 翌日、半休をとってサチエさんの病室を訪ねた。

 サチエさんは起きていた。

 こちらに目を留めると驚いた顔をしたあとで、照れくさそうに手を振った。

「びっくりしましたよ。倒れたんですって?」

「あなたにお願いがあるの」

 サチエさんはこちらに鍵を握らせた。「着替えを持ってきてほしいの。頼めるかしら」

「いいですよ」

 早いほうがいいだろうと思い、立ちあがる。「元気そうで安心しました」

「ありがとう」

「ほらみろ」私はここぞとばかりにゆびを差す。「ヘルパーは雇ったほうがいいんですよ。それがいやなら、友達にイジワルを言ってはダメです」

 きょとんとしたままのサチエさんをその場に残し、私は彼女の家へと踵を返す。

 着替えと言っても、病室では基本、寝間着姿の着たきり雀だ。サチエさんがふだんから家で着ていた服を、憶えているかぎり、風呂敷にまとめる。それから下着だ。これは新しく買ったほうがいいように思えた。病院にも売店があるようだけれど、サチエさんの趣味に合うかはわからない。病院へ戻るついでに買っていこうと決める。サイズを合わせるために、数枚、サチエさんの下着を持った。

 歯ブラシやタオルも新品を買っていくことにする。

 この際だからサチエさんにはとことん甘えてもらおうと画策する。

 ひと通り家のなかを見渡し、まとめた荷物を持ち上げる。部屋を出ていこうとしたときに、サチエさんのカラフルなピルケースが目に留まった。

 いちおう持っていったほうがいいだろう。

 思い、手に取ると、その下から封筒がでてきた。

 すこし迷ってから掴むと、裏側に私の名前が記されていることに気づく。

 胸の奥にどんよりと沈むような重さを感じた。

 いったん元の場所に戻したものの、思い直し、懐に仕舞う。

 荷物を持って家を出る。

 理性では、サチエさんに許可をもらってから見るべきだと判っていたのに、病院へ着く前に封を開けていた。

 文面に目を走らせ、私は怒りに震える。

 それから病室までのあいだの記憶が飛んでいる。サチエさんに封筒を突きつけ、どういうことかと問い詰めてやる、との思いがぐるぐると渦巻いていた感触だけがつよく残っている。

「どういうことですか」

 病室に着くなり、サチエさんに言った。封筒を掛布団のうえに押しつける。サチエさんはしわくちゃになった封筒に、猫でも撫でるような手つきで触れた。

「かってに読んではいけないのに」

「遺言状ってなんですか。相続するって、私にって、なんでそんなこと」

「だっていないのだもの」

 サチエさんは窓のそとを見た。「遺したいって、思ったの。だって寂しいじゃない? 寂しいって、思っちゃったの」

 あなたと会って。

「お節介だって解ってるけど、でも、ほら、ね?」

 またでた、と私は思う。

 なにが、「ね?」だ。

「こんなことされても私、ぜんぜんうれしくないです。むしろ怒ってます。腹立たしいです。せめて、そういうのは、ちゃんと生きてるうちに相談してほしいですよ」

「だってあなたは拒むでしょ」

「そりゃ、まあ」

「あなたのためじゃないの。遺したいのよ。あなたもきっとこの歳になれば解かる。いえ、そうね、あたしは解からないままだったのに、あなたが教えてくれたようなものかもしれない。お節介はあなたのほう。だって、ほら、ね? あたし。寂しいって思っちゃったの」

 うれしかった。

 ありがとう。

 まだ何も終わっていないはずなのに、サチエさんはこちらの手を握ると、ただそればかりを口にした。

 ひとしきりしゃべって落ち着いたのか、いや、落ち着いたのは私のほうだったのだけれど、サチエさんは喉が渇いたからお水を、と言って、こちらに財布を握らせた。

「まとめて数本、砂糖の入ってないのを。お茶でも、水でもかまわないので」

 恩を売りたくなかったので、財布を受け取る。これ以上、なんのお礼かもわからない、ありがとう、は聞きたくなかった。

 倒れて気弱になっているのは理解できたものの、私とのあいだに上下関係なんて、引け目なんて、そんなものは一ミリも抱いてほしくはなかった。

 購買でペットボトル飲料のほかに下着も購入した。遺言状を読んだせいで、買い物をしてくるのを忘れた。

 ちょうどよかったかもしれない。

 欲しいものがあれば、こうやってじぶんでお金をだせるくらいには余裕のある人なのだ。じぶんなどが彼女に与えられるものなどありはしない。彼女は残す側で、与える側で、私みたいな若輩者とは釣りあいのとれる相手ではなかったのだ。

 端から対等になんかなれっこなかった。

 思えば、初めから恩の押しつけもはなはだしかったのかもしれない。出会ったときも、家に押しかけた日々も、彼女にとってはけっきょくのところ、はるか年下の、孫みたいな相手に付き合ってあげていただけなのだ。

 ふしぎなほど哀しくない。じぶんの向こう見ずな行動に殺意にも似た憤りを覚えるばかりだ。

 来た道を戻る。病室に近づくと、まだ見えてもいないのに、笑い声が聞こえた。数人がしゃべっている。サチエさんの声もまじって聞こえた。病室のほかの患者さんと仲良くなっていたようだ。それはそうだ。年齢が近いほうが気を使わずに済むだろうし、楽しくおしゃべりだってできるだろう。

 会話に割って入っていく勇気もなく、もうしばらく時間を空けようと思い、踵を返すと、

「ちょっとよろしいですか」

 白衣を着た男に行く手を阻まれた。彼のとなりには受けつけで対応してくれた女性が立っている。男は医師だと説明し、サチエさんの名字を口にした。「身内の方がいらっしゃらないと聞いていたものですから。すこしお話をさせてもらっても構いませんか」

「家族じゃなくてもいいんですか?」

「こちらへ」

 場所を移動しようということらしい。医師は先導した。

 談話室のような部屋に通された。広いテーブルがある。池が凍ってできたような楕円形のテーブルだった。医師に促され、椅子に腰かける。

「オトモダチ、ということでしたよね」医師はカードを持っている。私が受け付けで書いたものだ。「お見舞いにいらしたんですか、心配されて」

「はい」

「着替えを持ってきてくださったようで。ご自宅の鍵は?」

「サチエさんのですか? えっと、朝にいちどここに来て、そのときに」

「ああ、では病院を往復して? それは疲れますね」

「いえ」

「日ごろからご自宅のほうには?」

「さいきんはちょっと行けずにいて」どこまで話したものか、と逡巡する。いったいこれはなんの尋問なのだ、とすこし不快感を覚える。「あの、お話というのは?」

「ええ、その。その前に一つよろしいですか」

「はい」

「サチエさんの持病についてはご存じで?」

「持病、ですか?」首をひねる。「いえ、薬をずいぶん飲んでいるなぁとは思ってましたけど。え、あるんですか、なにか、その、よくないのが」

 そう言えばサチエさんの薬を持ってきたのだ、と思いだし、そのことを説明した。

「あ、それはありがたいです。もちろんこちらで出した薬なので把握はしていたのですが、なにぶん、サチエさんのことですからね」医師はこちらに合わせてなのか、名字ではなくサチエという名で呼んだ。「日頃から薬を飲まなかったりしていたんじゃないかと心配していたところなので」

「こちらで薬を?」

「ええ。飲めばなくなりますからね。定期的に薬を受け取りに来てもらってますよ。ご存じでは?」

 日帰りで旅行にいくサチエさんの姿が脳裡に浮かぶ。けれど私はいちども、サチエさんがどこに行ったかを直接目にしたことはないのだった。

「いちおう、規則では、こういう話はご家族にするようにと決まっているのですが、サチエさんのような身寄りのない方の場合は特例として、代理の方にもお話しできることになっておりまして」

 ここでようやく、これが何かの告知なのだと察した。医師はテーブルに手持ちのメディア端末を置いた。それからテーブルをゆびでタップすると、テーブルの表面に画像が表示される。画像は、レントゲン写真だった。

「見えますか。ここです」

 医師は肺の部分を拡大した。「以前に摘出手術をしたんです。その時点ですでにご高齢でしたから、胸を開かずに、穴だけ開けてファイバーを通して切除する方法です。身体への負担がすくない代わりに、完全な除去とまではいきません。再発や転移する確率があがってしまうのですが、開胸したり、放置するよりかはいくぶんマシです。現に、そとを出歩けるくらいにまで回復されました」

「あの、病名は?」

「あ、失礼しました。え、でも、あー。サチエさんそれも言ってなかったんですか」

 さきほどから医師はどうもサチエさんに対して馴れ馴れしい。この場にいないサチエさんですら苦笑いしそうなほどだ。

 医師はもういちどテーブルに映しだされた画像をゆびで示し、

「肺がんです」

 告げた。「全身に転移しています。もって半年、わるければあす亡くなってもふしぎではありません」

「そんな」

「検診、受けてなかったようですね」医師が歯ぎしりをしたのが判った。

「この状態を見るに、薬も飲まない日が多かったんじゃないでしょうか。いえ、憶測ですが」

 黙っていると、医師はついでのように言った。「初めての患者さんなんですよ。サチエさん。手術も僕がしました。もう十六年くらいかな。時間が経つのははやいです」

「もういちど手術は? 手術をすればまた」

「全身への転移が認められます。サチエさんの体力では手術に堪えらない確率が高いです。抗がん剤や免疫療法も処置するだけならば可能ですが、おすすめはしません。どちらも副作用によってサチエさんの体力を奪うでしょう」

「手の施しようがない、ということですか」

 医師は一拍の間を空けた。何かを言いたそうにしたあとで、

「ざんねんながら」

 頭を下げるようにした。

 サチエさんにはあす話すという。生きるのに失望するようなことは言わないようにしますので、と医師は述べた。

 よろしくお願いします、と私は腰を折った。何をよろしくしたかったのかはじぶんでもよく解かってはいなかったけれど、サチエさんをどうかよろしくお願いします、と頭のなかでつよく念じた。目のまえの医師に、というよりも、どちらかと言えば、天に祈るような心地だった。

 サチエさんがショックを受けませんように。

 土台無茶な祈りだった。

 医師と別れ、サチエさんの病室に着くまでのあいだ、ふわふわと足取りがやわらかかった。雲のうえでも歩いているようだ。

 サチエさん、どうして薬を飲まなかったんだろう。

 そのことばかりを考えた。それから、でも、とサチエさんと過ごした日々を振りかえる。

 薬、飲んでたよなぁ?

 サチエさんは毎日のように、美味しいオヤツでも食べるかのように薬を飲んでいた。すくなくとも、私の記憶にあるかぎり、ピルケースの中身は日々減っていた。

 だからこそ彼女は、病院へ薬をもらいに出かけたりしていたのだ。

 私には旅行だとウソまで吐いて。

 きっと何の病気かと詰問されるのが嫌だったのだ。

 てんで子どもみたいな真似をして。

 怒りよりも呆れのほうが上回る。サチエさんらしいや、とやさしい気持ちになってしまうほどだ。

 病室を覗く。

 サチエさんはベッドのうえで目をつむっている。

 窓のそとはすっかり暗くなっている。頼まれていたペットボトル飲料を備え付けの冷蔵庫に入れる。下着も、タグを外して、畳んで、見える場所に置いた。

 面会時間はまだ残っている。

 椅子に腰かけ、サチエさんの寝顔を眺める。シワクチャの顔だ。サチエさんをおばぁさんと思ったことはなかった。

 掛け布団から手がはみだしている。寒そうだな、と思い、手を重ねる。

「サチエさん。元気だして」

 私は念じる。面会時間が終わるまで、看護師さんから、そろそろ時間ですよ、と注意されるまで、サチエさんの手のぬくもりを感じながら、私のぬくもりをそそぎこむように、ただ念じた。

 いっしょに帰りましょ。

 サチエさんはつぎの週の朝に、誰に看取られることなく息をひきとった。
 

 葬儀はとり行わないことにした。サチエさんからの手紙に、ひっそりと逝きたい、と書かれていたからだ。

 サチエさんはまた性懲りもなく、遺言状をしたためていた。

 病院から回収したサチエさんの私物のなか、カラフルなピルケースのなかに、錠剤の代わりにそれは入っていた。

 サチエさんらしからぬ、と言ったらヘソを曲げてしまいそうだけれど、そこにはサチエさんの人生の歩みが箇条書きで年表にまとめられており、残りの紙面の大半は、私と過ごした日々についての所感が、つらつらと着飾ることなく並べられていた。

 サチエさんは日記をつけていたらしい。そちらは恥ずかしいので読まないでほしいと書かれていたので、サチエさんの家を整理したときに出てきた山積みのノートは、口惜しいけれど、ほかの私物といっしょに回収業者へまとめて持っていってもらうことにする。たくさんのゴミに紛れて、ぜんぶ燃えてしまうだろう。

 サチエさんの遺体みたいに。

 遺言状には、家も含めてすべて処分してほしいとあった。何も遺しておきたくないと書いてある。

 貯蓄のほうは、あなたの好きにしてちょうだい、と簡素にあった。通帳と印鑑の場所と、暗証番号が記されている。

 たしか正式な遺言状にするためには弁護士か何かを通さねばならないのではなかったか。

 思うけれど、どの道、サチエさんの遺産に手をつけようとは思わなかった。きっとこのまま国が没収することになるのだろう。それはそれで気に食わない思いもあるけれど、私は意地でも、サチエさんから何かを与えてもらおうとは思わない。

 いや、そうではない。

 もうじゅうぶん、もらっているのだから。

 これ以上、もらう必要はないのだと、せめて直接言いたかったなぁ。

 私は彼女の墓前で手を合わせる。

 サチエさん。

 サチエさんは私のことを、サチエさん自身に縁のなかったナニカ――それは人によってはしあわせの正体そのものかもしれないけれど――に喩えることをついぞしませんでしたね。遺言状にも、友達とすら書いてくれていませんでした。

 うれしかったです。

 遺言状にはお墓については書かれていませんでしたから、私がかってに買っちゃいました。

 あなたのお骨の入ったこのお墓は、私が、私のお金で買った土地と墓石です。

 いずれ私が死んだとき、ここに私も入るでしょう。

 すこし窮屈かもしれませんけれども、それは、だって、ほら、お互いさまでしょ?

 こんなところにはこないほうがいいと思うの、とサチエさんの声が聞こえた気がします。

 でも、いくら、「ね?」と言われても、今回ばかりは引きません。

 待っていろ、だなんて恩着せがましいことは言いませんけれども、ただ、せめて、死んだあとくらい、私のわがままの一つくらい叶えてくれてもいいんじゃありません?

 言いたいことはたくさんあったのに、しゃべりたいことも、訊きたいことも、たくさん、たくさん、あったのに。

 もっとはやくに出会っていたら。

 生まれていたら。

 これから何度この妄想を浮かべることになるのでしょう。

 そのつど、歳が近ければ近づくほど、サチエさんとの縁は繋がらなかったのかな、とも思えます。

 もっとはやく言っていればよかったです。

 何を? と思いましたか?

 秘密です。

 サチエさんがたくさん私に内緒にしていたように、私もいまは秘密にしておきます。

 いずれそちらで会うことになるでしょうから、それまでうんとモヤモヤしてください。

 ひとまず、短いお別れを。

 では、また。

 あなたを忘れないただひとりより。


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百合小説:【棚からずんだ餅】
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郁菱 万

いくびし まん です。 小説を載せていきます。 過去作はこちらになります→https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex

「百合」

女の子同士の感情のゆらぎをテーマにした短いお話です。
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