せん妄 小説「カラーズ」10 (全17話)


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 島内さんは時々、現実か非現実かわからないことを言う。

一度、切羽詰まった声で島内さんが言った。「カーテンの向こうにねずみがいる」と。私は本物のねずみだと思った。古いアパートだし、あそこなら出てもおかしくなさそうだ。「窓開けたら出ないかしら?」と私は言った。

島内さんは「大きいんです、ねずみが……怖いんです」と言った。「時々出るんです。こないだは西さんがいたから、怖いと言って西さんに獲ってもらったんです。今、部屋の戸を閉めてます、こっちに来ないように。」

島内さん、薬は飲んだ?と私は聞いた。

「はい、飲みました……ごはんも食べました、セブンイレブンの…ほっけです、パックの……おいしかったです」

たどたどしく答えた。最後のほうは受話器が遠いのか消え入りそうな声だった。
気持ちが落ち着くまで話をしようと思った。ねずみを忘れられるまで。せめて、話してる間はねずみを忘れられるように。

 別の日、島内さんは怒っていた。「なぐられたんです。病院で」と言う。緊張が走る。「……病院で、殴られた」 オウム返しで言いながら、急いで手元のメモ用紙に「HPでなぐられた 」と書き、メモ用紙の一番上に「島内さん」と書く。

「いつですか?」と聞く。
「入院してる…ときです」ろれつが回らない。それなら何十年も前だ。こわばった肩が少し緩む。

「誰に殴られたんですか?」

「看護師さんです。男の。何もしてないのに僕を殴るんです。痛いんです、痛かったんです」そして島内さんは「怒ってるんです」と言った。

それは今も島内さんが通う病院だ。過去に障害者の強制避妊をしていたと認めた大きな公立病院だった。「もうあのときの看護師はいないんです」

「それは痛いし、怖いし、つらい体験でしたね」

「いまのお医者さんに言ったんです。ここの病院で、看護師さんに殴られましたって。……謝ってくれました」


 せん妄だね、ほんとかどうか……島内さん時々そうなるのね、
以前勤めていた職員の今井さんは言っていた。

「でもね、島内さんはきっと愛される人よ。どこに行っても」
私たちはカウンターに並んで座り、目と目で見合って微笑みうなずいた。橋本さんもいた。みんな島内さんが大好きだった。相談室のみんなは。 


 知的障害があるゆえ利用されて犯罪を犯し少年院、出所後、二度の自殺未遂。統合失調症、長い入院生活、治ることはない病気、幻聴幻覚との共存、家族とは絶縁状態……

ずっと、殴られてきたのだ。親から、友人から、少年院の刑務官から、病院の看護師から、隣人から。最も守られるべき人が。彼の中では終わっていない。それらの記憶が時々意識に立ち昇る。

 死ぬこともできず、人生の前半、いや大半は辛かったかもしれないけど、もう十分苦しんだのだから、そのぶん今は穏やかに生きて。これからは平穏な日々を生きて。それが難しいことだとしても、もしそうなら尚のこと願う。忘れない、忘れません、島内さん。


11へつづく↓



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