クレーム 小説「カラーズ」9 (全17話)

1話目はこちら↓

 私が心の中で「主(ぬし)」と呼んでいる、遠藤さんという男性がいた。
分厚い個人ファイルが5冊。この相談室ができてからの利用者で、ここにつながった経緯や会話の記録が手書きでびっしりと書き込まれていた。
 親に捨てられ、単身で引きこもりだった。年齢は50代。通院、食料を買いに行く以外は出かけず家にいた。
毎日電話をしてきた。眠れない、頭が痛い、薬をもらいに病院に行きたいが行けない……。

非常に対応が難しく、いわゆるクレーマーであった。
ある日、留守電に6回ほどお叱りの言葉が入っていた。夜中から朝方にかけて。
室長、土屋、橋本さん、私の4人で、オープン前の朝の時間に聞いた。

遠藤さんは批判していた。一人一人名指しで。室長の立花さんから始まり、土屋、私、橋本さんまで。特に前日最後に話した橋本さんを攻撃していた。
会ったこともないが性格診断をされてるようだった。的を得てる部分もあり感心した。私については、一番話を聞いてくれるが消極的だと言っていた。

「役所に報告しておきましょう。季節の変わり目でもあるし、あんまり良くないのかもしれない。」

室長の立花さんが言った。

「広沢さんにも連絡しておいたほうがいいかも。」
橋本さんが言った。

広沢さんは、遠藤さんがこの法人で唯一頼りにしている相談支援部門の職員だった。支援計画を具体的に作り、定期的に訪問している。

「そうね、これだけ言ってきてしばらくこっちには電話しづらいだろうからね」室長が言った。


 オープンの時間が来てしばらくすると、「おはようございます」と成田さんがサンダル履きでやってきて、みんなと挨拶した。職員に笑顔が戻る。私はお茶を出した。みんなで雑談していたら暗い空気が抜けていき、段々といつも通りの和やかな雰囲気に戻った。外もよく晴れている。頃合いを見計らって室長と土屋は出かけた。成田さんはコーヒーを飲みにいつもの店へ行った。彼の日課なのだ。


 私は冷蔵庫のジャスミン茶を取ってマグカップに注いだ。お茶が喉を通る冷たさで身体に感覚が戻る。

橋本さんが言う。
「相談でもない、ただの暇つぶしにかけてくるみたいな……こんなんそもそもやってて意味あるんかね。もちろんほんとに苦しい人もいるよ。だけどあの遠藤さんも三ツ谷さんも今生きていくのに生活は困ってない、ただ話し相手がほしいだけだよね。世の中にはもっと大変な人がいるのに。
あたし早く辞めたくて辞めたくてしょうがない。」

暇つぶし……か、たしかにそういう人もいるだろう。しかし切実な人もいる。答えは出ずにただ毎日話を聞いて、記録して……くり返すことに意味がある。

感謝されたかと思えば次の日には担当には向かないから変えろ、馬鹿にした……どんなに注意を払ってもたった一言で、あるいはちょっとした態度が相手の気に障りクレームになる。それが私たちの日常だ。一喜一憂するのはプロじゃないという人もいるだろう。

 大事なのはその人の心の中で何が起きてるか、なのだ。

 距離感がわからないからトラブルにもなる。
独占したい、自分だけを見ていてほしい、相手をコントロールしたい……様々な欲求がある。私たち人間に必ずある欲だが、大抵の場合は感情をコントロールしている、意識的にも無意識的にも。嘘もつける。でも彼らはストレートなのだ。原液のまま。そして、ほんとうの意味で今に生きることができない。線を描けず点で生きる。

 仕事は家に持ち帰らないように切り替えることを心がけていたが、それでももちろん考えてしまうことはあった。夜中に眠れないとき、昼間のやりとりを思い出し、腹が立つこともモヤモヤすることも涙ぐむこともあった。あの人も今ごろ起きているか、晩ごはんを食べているだろうか、明日はなんて言うだろうか……

ぐるぐると頭の中を巡り、音楽を聴いたりTVをつけて気がまぎれても、また捉えられる。堂々巡りから解放されたいのに、一方で私の心が離そうとしていないのかもしれないとも思った。そしてその先には私がなんとかできるという驕りが見えた。私ができることは聴くことしかない。ただひたすら聴くこと。安心して吐き出せる場を提供する。あとは当事者の力で変化していくのだ。        
 それは来週かもしれない、10年後、20年後かもしれない。あるいはそのままかもしれない。変わらなくてもいい。現実維持を目指す。今より悪化しないように。
 いつ変化するかは誰にもわからない。私たちは信じて待つ。ゆったりと、虎視眈々と。

 冷蔵庫に向かって話しかけても答えてくれない……と泣きそうな声で言っていた島内さんを思う。だれかと話したい、それでないと自分がバラバラになるくらいの感覚、自分を保てないくらい切羽詰まったもの、見えなくても電話の向こうに人がいることの大切さを。
みんな孤独なのだ。

いつかAIに取って変わるようになるんだろうか。この仕事も。

「当分、遠藤さんの電話は私出ますよ。かかってくるかわからないけど。」と橋本さんを気遣った。「ああ〜、もう!素っ裸にしてマグロ漁船に乗せちまえ!」

誰のこととは言わなかったが、心の中では主ぬしを思い浮かべて言った。

 私の汚い言葉を聞いて笑った拍子に、橋本さんは飲もうとして持っていたコンビニのカフェオレをセーターにこぼした。「も〜、こぼしちゃったじゃない。それ虐待だからね!佐倉さん」

と言って、拭きながら笑う。

たまには毒づかないとやってられない。

橋本さんのセーターのシミはどこか外国の島々のような形で大きいものと小さな点々とでできていて、なかなか落ちなかった。


10へつづく↓

https://note.com/ikuei11/n/n50437c50a824



いただいたサポートは、さらなる文章力の向上のため、書籍の購入に使わせていただいております。 いつもありがとうございます! 感謝✨✨✨✨