見出し画像

毎日触れているからこそ変化に疎くなっていたことに気が付く。変化に敏感でありたい。

子供が生まれる前、SDカードを新調した。これから生まれてくる我が子を一つのSDカードに集約して成長を記録しようと考えたからだ。もともとはスノーボードで使うために購入したGoPro9を我が子の成長記録用に切り替え、余さず撮り残してやろうと256GBのSDカードを購入したのだ。

生後1か月が過ぎ、私の三日坊主が顔をのぞかせた。「あれ、あまり変化がなくなってきたな」と思い、GoProを置いてから早くも2か月が経っていた。

友人の結婚式に参戦する際に、GoProで映像を残そうを引っ張り出し、ログを確認すると、そこにはもはや別人レベルの新生児の息子が。いつこんなに顔が変わったのか。毎日見ているといってもさすがに変化の度合いが尋常ではない。そのことに全く気が付いていなかったことに驚く。

最近息子は3か月を無事経過し、うつ伏せになって遊ぶことが増えたり、風呂上りに耳かきしてやると気持ちよさそうな顔をするようになった。息子は話しかけると毎度のように笑顔で返してくれる。そんな映像も今のところ残っていない。私はまたカメラを持ち出し、撮影を再開することにした。

0歳の写真や映像はすごく貴重に感じる。時間は不可逆で、記憶という機能もまた曖昧だからだ。一方で、大人になった今の人生においても●歳●か月の瞬間はその時しかない。成長するとそのことに鈍感になっていると言わざるを得ない。「また春が来た」などと、反復に感じられてしまう。特に社会時になると、幅は広がるかもしれないが、環境はあまり変わらず慣れによって効率化されていくことが多い。それもそのはず、脳みそは考えなくとも記憶や経験から処理できることは、考えずに処理するようになっているらしい。慣れという温水に浸かっていると、そもそも気がつかず素通りしてしまうことが多々あるのだと気づかされる。慣れを良しとせず、変化に敏感でありたいものだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?