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祖父を想ふ

日本語はとても繊細だと、そう思う。 

「息を引き取る」

死んだ、とか
亡くなった、とか

そういった表し方をしなくても、それが意味することは同じだ。

どういう意味なのか深く考えたことはなかった。

薄っぺらく調べただけではあるが
『最後の呼吸からあとは神様がその次の息を引き取る』とか
『息(命)を残された私たちが引き取って繋いでいく』とか
そんなようなものだった。

祖父は、写真が好きだった。

当時、というよりモノによっては未だ高価であろうカメラを嬉々として買い、祖母を驚かせたのは娘(わたしの母)が誕生したこと、それがきっかけだったと聞いた記憶がある。

そのあとにどれくらいそのカメラにハマったのかは、もう知ることはできない。

それからずっと経って孫娘が産まれた。
初孫だった。

産まれたその時から深く可愛がってもらってきたのは、記憶にはないが、残された写真の中で窺い知ることができるし、それは三十を越えた歳になっても変わることはもちろんなかった。

祖父母というのは孫に甘い。
それは子を持ち母になった今ならどれだけ深すぎる愛情が孫に注がれるのかがよく分かる。

その孫娘がまだ幼き頃、公園の滑り台に登ったはいいが途中で怖くなり滑ることも戻ることもできずに泣きべそをかいている(記憶にはない)、その瞬間に祖父はシャッターを切った。

カメラにはどっぷりハマっているようだ。
待って、助けてはくれなかったのか。

写真好きを極めると自宅に暗室まで設えて、現像やプリントまで全てをひとりでこなすようになる。
今はもうないが、その暗くてドキドキする部屋には入れてもらったこともあった。

出来上がったその写真は、何かのコンクールで賞を獲った。

単純というか何というか、それで気をよくした祖父はさらに本格的なカメラの勉強を始めようと、ついには地元から都内の芸術大学へ入学。
祖母を残して単身赴任というか高齢の下宿生活、若者と机を並べてる学生時代を謳歌し70歳で大学を卒業した。

卒業後、祖父は写真家として活動したくさんの作品を残してきたし、有名な、とまではいかなくともこの写真家の作品に値段を付けてくださる方もいた。
祖父はその傍ら古い切手やそのほかよく分からないものの収集など、歳を重ねてなお興味のあることへは全力だった。

祖母は呆れつつ、そんな祖父が大好きで仕方ないというのはふたりを見ているとよく分かった。
こんな夫婦になりたいと、結婚もしてないわたしはよく思ったものだ。

わたしは、思いついたことに対して全力で行動に移してしまう格好いい祖父を尊敬していたし、とにかく大好きだった。

社会人になって地元を離れてからは会える日も正月や長い休みに帰省したときくらいになってしまっていたが、訪ねれば穏やかな笑顔で嬉しそうに「おーよく来た。」と声をかけてくれ、駄洒落を言いおどけてみせ、ユーモアは溢れて止まらなく、そして帰り際にはいらないと言っているのに必ずお小遣いを持たせてくれる、そんな優しい祖父がわたしはとにかく大好きだった。


ちなみにこのお小遣いを渡したがる祖父母に対しては「いやいやそんな、大丈夫だからしまってよ。」という遠慮はしなくて良いものらしい。

小さな頃より色々してきてもらったし、30も半ばでかなりすごく申し訳なくなるのだが、この少しのお小遣いを渡して喜ぶ顔が見たいというのが祖父母だと母から聞いてからは喜んで受け取ることにしていた。
そしてそれで何を買ったとかどこへ行ったとか、写真を添えてLINEした。

育休移住の直前、正月には親族一同で集まることができ、90歳近いのに歯が全て揃っているのが自慢だった祖父は、食事会の席で頼んだジェノベーゼのパスタを全部平らげるほど元気だった。

癌は、だけどまた祖父と共にあった。

晩年は何度か癌と闘ってはいたけど、手術で取り切ることができ、それにその度に根治だってしていた。

年始に見つかった癌を前に祖父はもう、治療をすることを選ぶことはしなかった。

こういう時、誰もが治療を選択して少しでも永くこちらにこっちの世界にいて欲しいと願ってしまうものだ。

本人の意志と家族の想いが対極にある時はとても難しい。

自宅療養か介護施設へ入所か。
母と叔母が悩む日々、祖父は静かにその準備を始めていたようだ。

6月、日本は梅雨だろうか。
意識が遠のく折が増え、そしてとうとう救急車で病院へ戻ることになった。

元気でいてくれると願い日本を離れていたが、連絡を受けきっともう会えないと覚悟と後悔とよく分からない感情の中にいた。

簡単には帰れない。
わたしだけ帰るか。
飛んで帰ったところで2週間の隔離が待っている。
そして今ここから出たらオーストラリアには戻れない。

救急車で運ばれる直前、祖父は言った。
「いい人生だった。」

もうすぐその時であることが分かっていて、
「いい人生だった。」なんて言える人生だったなんてすごいよね、と母と言いあった。

でもきっとそうだったのだろうし、
やっぱり格好よくて尊敬できる人だ。

7月に入ってすぐは祖父の誕生日だった。

主治医は90歳のお誕生日までもたせてあげたいと、そう言い、そして本当に90歳の誕生日を迎えることができた。

ただその間、祖父はしきりに「もういいから、家に帰りたい。」
うわごとのようにそう繰り返していたようだ。

そこにいないわたしとしては、おうちで最期を過ごせないのかとそう単純に思っていたが、脳にダメージを受け制御が難しくなった今、意識がはっきりしていて会話もできる時はあったが突然大声を出したりすることもあって自宅ではもう看れないようだった。

誕生日には家族で動画を撮って送った。
眠っていた祖父に母が見せると、耳をそちらに向け少しだけ目を開けてまた眠る姿を収めた動画が返ってきた。

それからすぐ

ひ孫たちに目を細め
可愛い可愛いと眺めてくれていた優しい祖父は家族みんなにまさに見守られながら
癌で苦しいということもなく
自身で決めたその日に静かに息を引き取った。

幼い頃、戦争で空襲から逃げた話
出兵した兄が戻ってこないか駅まで毎日のように行ったこと
その帰り道に狸?に騙された話
ものすごく酒豪だったから会社の上司に娘との結婚をしぶられていた話
結婚して今もお互い大好きだという話

全部好きだった。
寂しいけれど、
近くにいない分、いろいろと思い出を静かに辿ることができている。

オーストラリアからは戻れなかった。

大好きな祖父へ

南の方へ少し、寄り道してくれたら嬉しいな。

メルボルンでの生活費に。笑