旅をしたいな。という話。

いつもの1人旅に慣れてしまっているのと、なかなか初対面で同行して宿泊なんてハードルが高いのとでご厚意に甘えて参加させていただく以外はひとりで楽しんでいるのだけれど、最近また猛烈に旅をしたいな。と思っている。

精神世界的には、ひとの作品を浴びたり自分の作ったもので満ちているので好きにできるのだけれど身体的満足のために現地を歩いてみたいと思うようになったのは何時頃だろう。記憶の限りでは、社会人になる直前からかなと思う。主に、頒布イベントに再び通い始めた頃。

じつは、私は頒布イベントにはじめて出展したのは中3の終わり頃で高1にどっぷり浸かった記憶があるのだけど、学生時代忙しくてそれ以降通うのをやめたし本屋も覗きはするけど色々と封印してネット上のみの創作活動をしていたりして、はじめてのお給料で同人誌を刷ってイベントへ手搬入したことは覚えている。

そのときに、お隣さんというものを改めて知ったし、いろんなひとびとに出会えて正直とても楽しかった。だから今でも楽しくやれているんだと思う。現場でつまらなかったり、事案が頻発に発生したら対応後に筆折るか隠居するよね。

作りきることのハードルが私には高くて、サンプルとか短編とかポストカードとか、とにかく単発的な、ある種散乱的なことをしているのでまとまりがなくて自己紹介もしづらいのだけれど、振り返って思えば、いつも締め切りを具体的にイメージできなくて到達ラインがわからない。終わりきることが不可能な場合の、最低限の品質に自分が耐えられないこと。何より、ひとりきりでがんばることの終わりなき執着心をへし折ってくる現実の人間たち(本当に罪深いのと、当時それを発する場所を見つけられなかったこと)に対しての疲労。言葉は陳腐ながらもそんなぞんざいな部分は拾ってしまうのが人間というもので、そして誰もが私より意思表示ができてしたたかであったこと。これらを認めてはいても、発奮する術を持てずに持て余した時間たちを他人は無駄というであろうけれど私が立ち上がるために必要な時間であり、何度目かの今を通過する。

当事者でありながら傍観的になってしまうのはだれもしあわせにはならない思考なので切り捨てるのだが、現実はいつもいつも同じ誰かが居てくれるわけではなく、そのあたりはAIやIoTなどが対応することになるのかなと思いつつ、原稿を書いている。いま書いているものを終えたら、次の旅に出たいなと思っている。そういう捗らせ方しか身についていないのが目下問題なのだけれど。

自己肯定と足踏みと、手のひらの汗も、実在することが確かめられて良い。覚めないものなど夢ではないから。

寄り添うことの難しさは、私自身がいちばん私を通して知っているような錯覚をする。とはいえ、何割かは本当なのだとも思う。やわらかさを抱いて私はどこまで私として居られるだろう。もちろん、私はすべての私を認めることになるのだけれど。


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